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「連載版」「命の番」ですって?大変ですわ、神殿に正式照会いたしましょう  作者: 夢見叶
第3章 娘を売る家門に、神託は要りません

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第22話 声を取りに参りましょう

 照会結果が出るまで、婚礼は止められない。


 それが、地方礼拝堂のベルム司祭代理が最後に持ち出した理屈でございました。


 夜明け前の礼拝堂は、白い布で覆われておりました。祭壇には清め水。鐘楼には祝福鐘。花嫁の席には、まだ誰も座っていない。けれど空席ほど、時に人を縛るものはございません。そこに座らされる未来が、すでに用意されているからです。


「本殿照会の結果が届くまで、神託婚の真偽は未確定でございます」


 ベルム司祭代理は、両手を組み、いかにも敬虔そうに言いました。


「未確定であるなら、仮承認は有効。日の出の鐘にて婚姻祝福を進めるほかございません」


 イザーク様が神殿法小冊子を握りしめました。


「そんな……未確定なら止めるのでは」


「地方慣習でございます」


 便利な言葉がまた出ました。


 地方慣習。娘の沈黙。父の署名。神の御意志。奇跡水。

 人を黙らせる言葉には、なぜこうも美しい布がかけられているのでしょう。


 マルタ様が砂時計を見ました。


「日の出の鐘まで、あと31分です」


「31分」


 イザーク様が青ざめる。


「さきほども31分では」


「先ほどは33分です。2分、無駄にしました」


 小さなやり取りに、私は息を整えました。笑う余裕はございません。けれど、人は息をしなければ、照会文を最後まで読めない。


 アルベリク様が低く告げます。


「仮停止には、物証、または本人意思の明確な記録が必要です」


 物証は、入れ替えられた。

 本殿照会は、間に合わない。

 残っているのは、本人の声だけ。


 私は扇子を閉じました。


「では、声を取りに参りましょう」


 その時、花嫁支度部屋の方から、陶器の割れる音がしました。


 清め水の杯が、床で砕けた音でした。


 一拍、沈黙が落ちました。


 礼拝堂の白い布が、蝋燭の揺れに合わせてかすかに動きます。ベルム司祭代理が口を開きかけた。それより早く、アルベリク様が廊下へ歩き出しました。神官長様が動かれる時の静けさは、怒号より重い。縺れるように、私たちは後に続きました。


 廊下は夜です。石の通路に蝋燭が2本きり。冷えた空気が低く流れ、白百合香油と燃え残った蝋の匂いが底に滞っている。イザーク様が小冊子を胸に抱えたまま急ぎ、マルタ様の記録板が壁に触れそうになりながら追ってきます。


 花嫁支度部屋の前に、侍女長ロザが立っておりました。


 黒い上着に白い頭巾。水差しの取っ手を拭く白い布を、両手に持ったまま固まっている。足元の石畳が一筋、濡れていました。


「エルネスタ様は部屋の中に」


「……おひとりで、いらっしゃいます」


 低く短い返答。語尾の前に、ごくわずかな間がありました。怖れか、安堵か。判じかねる種類の間でした。


 アルベリク様は扉の前で足を止めました。花嫁の支度部屋へは、神官長は入れない。礼法です。金色の瞳が扉に向いたまま、静かに言いました。


「公爵令嬢が先に」


 私は扉を開けました。


 東向きの小窓から、夜明け前の青みがかった闇が差し込んでいます。室内は蝋燭が1本だけ。揺れる炎が白い壁に細長い影を落とす。


 床に、陶器の破片がありました。


 婚礼前の清め水の杯です。白い陶、模様のない清潔な形。それが砕けて、水が石畳の目地に沿って広がっています。蝋燭の光が、水面にゆらゆらと映って揺れていました。


 エルネスタ様は寝台の端に座っておられました。


 白い寝衣。肩にはまだ婚礼用のヴェールがかかっている。薄く乱れた栗色の髪が右頬に落ち、唇は乾き、細い指が喉元に当てられていました。顔色は悪い。頬に血の気がない。それでも、目は開いていました。


 その目が、私を見た。


 声が出てこないのかもしれない。喉がまだ、何かの重さの下にあるのかもしれない。それでも、その目は言っておりました。


 飲ませないで、と。


「マルタ様、陶器の位置と、エルネスタ様の覚醒状態を記録してください。時刻と室内の配置も」


「記録します」


 羽ペンの音が、静かな部屋に落ちました。


 寝台の脇に、銀の水差しがありました。蓋は閉じられている。けれど室内に漂う甘い匂いは、白百合香油に似ているが、どこかが違う。底に何かが混じっています。


「イザーク様」


 言い終わる前に、イザーク様はもう水差しの前に立っていました。蓋を慎重に開け、鼻を近づける。眉が寄りました。


「白百合香油です」


「それと、もう1種、混じっていますか」


「……眠り草に、近い匂いです。断定は、できません。でも、疑えます。はっきり疑えます」


 自信のある条文だけ声が大きくなる彼が、今は断定を避けながらも引かない声でした。


「疑いとして記録できますか。成分の正式検査は後で」


「記録します。水差し内の液体に白百合香油および眠り草様物質との混合疑い。発見者イザーク・ベルクマン、時刻は」


「あと27分です」


 マルタ様が砂時計を読みながら書きました。


 私はエルネスタ様のそばに膝をつきました。目線の高さを合わせます。薄菫色の手袋の指先で、床の陶器の破片をそっと脇へ動かしました。白い陶の欠けた断面が、蝋燭の光を跳ね返しています。


「ご自身で、払われたのですか」


 エルネスタ様の喉が、小さく動きました。頷くとも取れない動き。けれど、それで十分でした。払いたかった、ということ。飲みたくなかった、ということが。


「今は声が出なくても、構いませんわ」


 できるだけ、穏やかに。エルネスタ様の目が、私の手元を見ていました。閉じた扇子。いつも怒りを隠す道具が、今もまだ閉じたまま、膝の上にあります。


「出た時に、聞かせてください」


 扉の向こうで、アルベリク様の気配がしました。廊下の石に重さのある静けさ。立っているだけで、あの扉には誰も入れない。声もなく命令もなく、ただそこに立っておられる。その守り方を、私はしばらくたってから気づくのだと思います。今はまだ、気づいている余裕がございませんでしたから。


「イザーク様、礼拝堂の鐘楼へ行っていただけますか。鐘守に今日の受領記録を確認して、昨日か今朝に何か受け取っていれば、報告を」


「鐘守の受領記録……はい、すぐ行きます」


 小冊子を懐に押し込み、廊下へ出ました。扉が閉まる。静寂が戻ります。


 蝋燭が揺れ、エルネスタ様のヴェールに光が落ちました。窓の向こう、空の色がほんの少しだけ変わり始めていました。夜の青が薄れ、暁の灰色が混じり込んでくる。日の出の鐘まで、あとわずかです。


 声が出た時に、聞かせてください。


 私はそう言いましたが、エルネスタ様の目はもう、何かを伝えようとしていました。言葉より早く、先にある何かを。


 その時、廊下から駆け足の音が戻ってきました。扉越しで、くぐもっているのに、隠しきれない驚きが石の通路に響いています。


「ヴィオレッタ様」


 イザーク様の声でした。


「鐘守の受領印が、昨日の日付です」

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