第21話 その番号を、私は知っております
礼拝堂の記録棚は、まだ無事でした。
扉を引いた瞬間、焦げた匂いはありませんでした。古い羊皮紙の埃と、白百合香油の残り、それに夜明け前の冷えた石の息。アルベリク様が棚の封印札をひとつひとつ確かめ、イザーク様が燭台を持ち直します。灯りが2つ減っていた理由は、すぐに分かりました。台帳室から蝋燭を持ち出した者がいた。台帳そのものには、まだ誰の手も触れていません。
「代理は」
「表の扉から出ました。馬の用意があったようです」
マルタ様が静かに告げました。台帳室の奥まで届く長い棚に、3本の蝋燭が揺れています。その光の中で、4人の影が石床に長く落ちておりました。アルベリク様の表情は変わりません。ただ、肩布の縁を親指が一度だけなぞり、金色の瞳が棚の最下段まで動きました。
「逃げたこと自体が、記録になります」
封印申立書への署名は、静かに終わりました。証人欄にマルタ様、立会人欄にイザーク様、本殿監督官の欄にアルベリク様の筆跡が重なります。紙の上を羽ペンが走る音が3度、石の壁に吸われて消えました。封印蝋が冷えていくかすかな匂い。それから静寂。
署名が終わった後も、私は花嫁の部屋の方角を向いておりました。
台帳室の石壁は、夜明け前の一番冷えた時刻を過ぎたばかりで、指先に空気の重さが感じられます。封印済みの棚が蝋燭の光を受けて黒光りしておりました。全部で何冊あるのか。その中のどの頁に、何が書かれていて、何が書かれていないのか。
母の、手紙、という声が、まだ耳の奥に残っています。
◇
エルネスタ様の部屋は、夜明け前の薄青い光に包まれておりました。窓の向こうに礼拝堂の鐘楼が黒く立ち、鳥の声はまだありません。石の廊下から一歩入ると、空気が少しだけ温かくなります。寝台横の燭台に1本だけ灯りがあり、その光の輪の中で、エルネスタ様が半分だけ目を開けておられました。
奇跡水を最後に飲んだのは昨夕のことです。頬には血の気が戻りかけ、白い寝衣の胸元が浅い呼吸に合わせてかすかに動いている。眠いのか、目覚めかけているのか、その境にいるお顔でした。淡い栗色の髪が寝台に広がり、薄い唇の端に乾いた跡があります。枕のすぐ横に、フォルケン家の紋が入った小さな荷箱が置いてあります。
侍女長ロザ様が、扉の内側に立っておられました。黒い使用人服に白い頭巾、水差しの取っ手を白い布で丁寧に拭きながら、視線だけを床に落としています。耳はこちらを向いている。
「夜明け前にお目覚めになる時、お嬢様は必ずその箱を探されます」
声は低く、控えめです。
「底に何かをお隠しになっていることは、気づいておりました。鍵は、枕の下でございます。わたくしが、そこへ戻しておきました」
水差しを持つ手が、細かく震えていました。エルネスタ様が嫌だと思っていることを知りながら、毎夜水を運んできた手です。
私はその手を、しばらく見ておりました。
「後ほど、正式な証人尋問の場をご用意いたします。神殿書記官が立ち会い、申告内容は記録として保護されます」
ロザ様の唇が一度だけ動きました。声は出ない。けれど頭が、ほんの少しだけ前へ傾きました。それが彼女の、今夜出せる最大の答えでした。
◇
荷箱の底には、手紙が1通ありました。
折り目が何重にもついており、紙の端が柔らかく崩れています。筆跡は流れるような女手。封蝋は剥がされており、その跡だけが残っていました。フォルケン家の紋ではありません。
私が文字を目で追うと、それは母が娘に書き残した言葉でした。
『もしも神託婚を迫られたなら、祈願番号を照会しなさい。神は、娘の沈黙を同意とは記録なさらない』
震える筆跡でした。
最後の一文だけ、インクが少し滲んでいる。書きながら、手が震えていたのでしょう。あるいは、この手紙を折りたたんだ後、濡れたものが落ちたのかもしれません。
エルネスタ様のお母上は、もうご存命ではありません。だからこそ父侯爵は、母の声がもう娘を守れないと思ったのでしょう。けれど、紙は残っておりました。言葉は残っておりました。
「祈願番号があります」
マルタ様が手紙の右下を示しました。小さな数字列。白百合神殿の祈願札番号と同じ形式です。
私はその番号を読み上げ、地方礼拝堂の台帳を開かせました。祈願者名、フォルケン侯爵夫人。祈願内容、娘の婚姻に本人意思が尊重されるように。日付、12年前。
記録は、ありました。
エルネスタ様のお母上の祈りは、消えていなかった。
その事実に、胸の奥の固いものが少しだけ緩んだ時です。
「公爵令嬢」
アルベリク様の声が、硬くなりました。
私は台帳から視線を上げました。彼の金色の瞳が、私が見ていた行より1段下で止まっています。同じ頁の下段。蝋燭の灯りが台帳の表面を斜めに照らし、そこだけが少しだけ黒く見えました。
水に濡れたように滲んだ、別の番号がありました。末尾の2桁が読みづらく、祈願者名の欄は空白です。
けれど私は、その数字の並びを知っておりました。
3年前、母の命日に。白百合神殿の台帳室で、半日をかけて探した番号です。亡き母が、父の病の回復を祈ったはずの記録。神殿の台帳室でその番号を見つけられなかった日から、私は一度もその数字を忘れたことがありません。
「……なぜ、ここに」
扇子を開こうとして、開けませんでした。骨に指がかかって、そこで止まりました。
アルベリク様が台帳へ手を伸ばしかけます。閉じようとなさっていることは、すぐに分かりました。隠すためではありません。おそらく今この瞬間の私に、まだ見せない方がよいと判断されたのです。
その判断が、痛いほど丁寧でした。
それでも、私は申し上げました。
「神官長様。保留とは、隠すことではございませんわ」
台帳を閉じかけた指が、止まりました。
金色の瞳が私を見ます。審問席で罪人を見る顔ではありません。記録を読み上げる神官の顔でもない。昨夜「私は、貴女様の怒りも見ております」と言った時の静けさに、少しだけ似ていました。ただ今度は、彼の方が、何かを見てしまった顔でした。
水濡れの祈願番号の下に、黒百合に似た小さな染みが浮かんでいます。
イザーク様が、息を呑みました。マルタ様の羽ペンが、紙の上で一度だけ止まりました。
エルネスタ様の婚姻照会は、私の母の祈りへ繋がってしまったのです。




