第20話 井戸水は、署名できます
侯爵様が去っていかれてから、廊下には白百合香油の匂いだけが残りました。
礼拝堂の清め香のものです。奇跡水ではない。けれど今夜ばかりは、同じ匂いが届くたびに、先ほどの会話の続きが戻ってまいります。
娘のためです、公爵令嬢。神に選ばれた子に、水を差し上げることの何がいけない。
私は客室の小さな文机に仮承認書の控えを広げ、4度目になる条文を読んでおりました。新しい発見はございません。ただ、目を落としていなければ、怒りの置き場所が見つかりません。
扇子の骨が、白くなるほど握られておりました。気づいた時、手を開きます。指先が少しだけ痛い。
燭台の蝋燭が1本。窓の外には礼拝堂の鐘楼が、曇り空に黒く立っています。星はない。夜が深い。部屋の隅の砂時計が、声もなく時間を落とし続けております。
その時、廊下に足音がしました。
低く規則正しい。石畳でも木の床でも変わらない歩き方。私には、誰のものか分かります。
「失礼いたします」
扉が開き、アルベリク様が入っていらっしゃいました。白い祭服に紺青の肩布を崩さず、袖口に銀粉インクの跡。地方の薄暗い客室でも、彼の輪郭だけはいつも正確に見えます。
右手に、銀の水杯を持っておられました。
「……奇跡水では、ございませんわね」
「井戸水です」
「なら、よかった」
「署名できます」
その一言に、私は返答に詰まりました。
アルベリク様は変わらぬ顔で水杯を文机に置かれます。銀の縁が、蝋燭の小さな火を弾きました。
署名できます、とは。奇跡水騒動の最中にあってはどこか滑稽な台詞で、しかし彼が言うと本当に正式書類のような重さがある。私はその妙な辻褄に、声を出さずに少しだけ笑いました。
その瞬間です。
「先ほどの侍女が廊下に」
アルベリク様の視線が、扉の方へ動きました。声は変えない。ただ、目だけが廊下の影を捉えている。フォルケン家の侍女が扉の外から、この客室を見ていたのです。
どこまで聞こえていたかは分かりません。ただ、明朝までに「神官長と公爵令嬢が客室で2人きりだった」という噂が侯爵の耳へ届くことは、想像に難くない。
私はアルベリク様から水杯を受け取りました。一口飲むと、何もない。白百合の香りも、眠くなる甘さも、何もない。ただの水の味がしました。
「侯爵様との話はいかがでしたか」
アルベリク様は窓の外へ視線を向けておられました。礼拝堂の鐘楼を確認し、砂時計を見て、また外へ。
「神の御意志と、5回おっしゃいました。娘のためと、4回。父親として当然と、3回」
「計12回ですね」
私は少し驚いて、彼を見ました。
「数えていらしたのですか」
「扉の外で、聞いておりました」
扉の外で。
私は水杯を文机に戻しました。静かに。乱暴にならないよう、気をつけながら。
その配慮が、痛いほど正しい。
「公爵令嬢」
低い声が、夜の白百合香油の匂いを裂きました。
「怒っておられますね」
水杯を持つ指が、止まりました。
「……職務に、怒りは不要ですわ」
「いいえ」
即答でした。
「怒りは、照会を汚しません。嘘だけが、照会を恐れるのです」
私は顔を上げました。
アルベリク様の金色の瞳は、審問席で罪人を見る時より、ずっと静かでした。
「私は、貴女様の怒りも見ております」
その言葉は、慰めではございませんでした。
記録されてしまったのです。私が、怒っていることを。
慰めなら「大変でしたね」と言えばよい。励ましなら「もう少しです」でよい。そうではなく、ただ、見ている、と言いました。書記官が「記録しました」と告げる時の声に似た確かさで。
扇子を開こうとして、やめました。
代わりに水杯を両手で包みます。冷えた銀が、じわりと掌に温まっていきました。
◇
4人での協議は短く、要点だけでした。
イザーク様が小冊子を広げ、奇跡水の成分推定を読み上げます。白百合香油の模倣成分、底に沈む黒い粉、治癒薬草には分類されない鎮静配合。神殿公認の清め水の登録番号に、該当する水はない。
「つまり」
マルタ様が羽ペンを走らせながら、真顔で告げました。
「神殿由来でも薬師登録でもない水を、奇跡と称して花嫁に飲ませていたことになります」
「記録はされましたか」
「されました」
アルベリク様が告げます。
「台帳は」
「礼拝堂の記録棚に。ベルム司祭代理がまだ礼拝堂におりますので、接触が……」
「本殿監督官の職権として、当該記録棚を一時封印します。照会対象施設の関連記録を隠した場合、神殿法第51条により、法廷で不利推定が働きます。先に封印すれば、後の隠蔽そのものを防げる」
イザーク様が小冊子のページを確認しました。
「条件は、書記官立会いのもとで封印申立書に署名です。マルタ書記官は」
「廊下の椅子で待機中です。小冊子を読んでいます」
「急ぎなさい」
イザーク様が頷いて扉を引こうとした時、一瞬だけ振り返りました。
「あの。礼拝堂側の灯りが、さっきより2つ、減っているんですが」
灯りが減る。
私は立ち上がりました。
焼却するなら、まず人の目を減らす。記録棚に何かをするつもりなら、それが最初の手順です。
アルベリク様はすでに動いておられました。扉の向こうで、紺青の肩布が揺れます。
「公爵令嬢。参りましょう」
私は仮承認書を懐に、扇子を右手に、水杯は卓に残しました。
飲み干す時間はありません。
さきほど侍女に見られた2人きりの時間は、噂になるかもしれない。けれど実際には、怒りを見られて、水を渡されて、記録の話をしていただけです。
密談と呼びたい者には、そう呼ばせておけばよい。
◇
廊下へ出ると、夜がほんの少しだけ薄くなっておりました。礼拝堂の鐘楼の輪郭が、さっきより白く見えます。石の廊下は冷えており、自分の足音が跳ね返ってまいります。
花嫁の部屋の扉の前まで来た時、中から小さな声がしました。
か細い声。ぼんやりとした。けれど確かに言葉の形をしている。
「……母の、手紙」
私は扇子を持つ手を止めました。
アルベリク様が私の隣で、低く静かに息を吸う音がしました。肩布の縁を、親指がなぞります。ほんの一度だけ。
母の手紙。
エルネスタ様の荷箱の中に、何かがあるのかもしれない。その手紙が、明朝の婚礼に何をもたらすのか。
嘘だけが、照会を恐れる。
ならば今夜、灯りを落として記録棚へ近づく者は、何を恐れているのでしょう。
礼拝堂の扉が、遠くに見えました。




