第19話 この婚姻を望んだ神は、どちらに?
礼拝堂の石廊下を、燭台が4本だけ照らしておりました。
アルベリク様と歩き出して、数歩でございました。奥の扉が内側から押し開かれ、オルドリック・フォルケン侯爵が姿を見せました。濃い灰色の髭、恰幅のよい体格、右手の家門指輪が揺れる炎を鈍く跳ね返しております。その後ろにベルム司祭代理。安堵を勝ち誇りに変えた顔で、羊皮紙を一枚持っておりました。
「神官長様。照会をお待ちの間に、父権代筆の正式申請書を作成いたしました」
羊皮紙を差し出します。私は一歩前へ出ました。
「照会中の追加書類はすべて記録保全対象でございます。マルタ様」
「記録します」
マルタ様の羽ペンが動きました。侯爵は、私を一瞥してから、温厚な父親の微笑みを作りました。
「では記録してください。父が、娘のために動いていることを」
◇
審問机に燭台がひとつ増えて、5本になっておりました。光が増えた分、影の縁も濃くなる。石造りの礼拝堂は夜の冷えを素直に貯めていて、足の甲から旅装の裾まで這い上がってくる寒さは、もう指先まで来ておりました。
机の上には神託婚仮承認書の控えと、父権代筆の申請書。そして照会結果の待機欄。カーレン伯爵の代理人が脇に立ち、細い体に書類袋を抱えています。
「神殿法第82条第4項により、神託婚における父権代筆は、本人が意思表示不能であると医師が証明した場合にのみ受理されます」
私は書類を手に取りながら言いました。声はできる限り穏やかに整えた。
「エルネスタ様が意思表示不能であることを証明する医師の診断書は、おありでしょうか」
「……娘は病を患っており」
「病があることと、意思表示が不能であることは、別の事柄でございます」
静かに言いました。怒っているわけではございません。ただ順序を確認しているだけ。
「そもそも!」
イザーク様が神殿法小冊子を広げながら、勢いよく声を出しました。逆さです。マルタ様が無言で天地を正す。「あ、ありがとうございます。ええと、神託婚の場合は82条とは別条項があって……」「82条の4項です」「そうですね、同じです」。
ベルムが静かに手を組み直しました。
「地方礼拝堂では、父権を以て婚姻の障害を取り除く慣習がございます」
「神殿法第3条で、地方慣例は本殿原典に劣るとございますわ」
私は書類を机の上に置きました。扇子を閉じたかった。しかし閉じませんでした。今閉じると、骨が鳴る音に怒りが乗ってしまいそうで。
「娘のためと仰るなら、娘本人の声を恐れる理由はございませんわね」
侯爵の右手が、家門指輪を回しました。一度。また一度。
「私が娘の声を、娘の幸福を、一番よく知っている。それが父というものだ」
「それは」
アルベリク様の低い声が、私の言葉より先に出ました。金色の瞳が侯爵を見ています。審問席での静けさより、わずかに温度が低い。
「感情です。感情は、署名欄には入りません」
侯爵が、初めて、微笑みを落とした。
「父の署名は、娘の声ではありません」
私が続けました。声が、一音だけ低くなりました。
◇
花嫁控え室への廊下は、燭台の芯がひとつ焦げており、その1本だけ光が弱くなっておりました。
扉の前に侍女長ロザが立っておりました。黒い使用人服、白い頭巾。盆の上に銀の水差し。白百合香油に似た甘い匂いが、廊下に薄く漂っています。似て、しかしもう少しだけ重い。
ロザは私を見ませんでした。水差しを持つ手が、扉から少しだけ遠い側に位置している。意図なのか習慣なのか、判断のつかない距離でした。
「娘への薬水でございます」
後ろから侯爵の声。
「病の者に水を与えることを、神殿が制限する理由がありますかな」
「成分の確認が取れるまで、神殿由来でない水の服用は一時保留の対象でございます」
私は扉を向いたまま答えました。
「エルネスタ様に確認が必要でございます。神殿法第82条第3項では、本人意思確認は覚醒状態の本人への確認を要します」
「娘は眠っている」
「では、奇跡水の最終服用時刻から、意思表示が可能な状態へ戻る時刻を割り出す必要がございますわ」
侯爵が水差しへ手を伸ばしました。ロザが盆をわずかに引く。ほんの少し、扉からさらに遠ざかる方向へ。
その時、扉の向こうから小さな音がしました。陶器が何かに当たった、かすかな音。
エルネスタ様は、扉の向こうで起きていらっしゃる。
◇
廊下の角を曲がった先で、アルベリク様が立っておられました。
燭台がひとつ。石床は冷えており、彼の足元に影が長く伸びています。白い祭服に紺青の肩布、袖口に銀粉インクの乾いた跡。金色の瞳が、静かに私を見ておりました。
侯爵の声が、まだ扉の向こうで続いています。
「公爵令嬢」
低い声は、審問席の時より落ち着いておりました。
「今は」
そこで、止まりました。言いかけて、止まった。
「……ロザ侍女長に、奇跡水の最終服用時刻を確認してください。エルネスタ様が覚醒に戻るまでの時間を逆算し、それまでに証拠保全の順序を組みます」
肩布の縁を、右の親指がひとつだけなぞりました。
初めに言いかけた言葉と、最後に出た言葉が、同じでないことは分かりました。止めたのは私への言葉ではなく、彼自身の何かだと。
「承知しました」
私は頷いてから、少しの間、扇子を半分だけ開いたままにしておりました。
◇
鐘楼の方向から、低い音が来ました。
試し鳴らし。婚礼祝福鐘の音が石壁に吸われ、夜の冷気の中で消えていく。
イザーク様が廊下を小走りで戻ってきました。顔が少し青い。神殿法小冊子を胸に抱えたまま、足を止めます。
「鐘守が昨日の日付の受領印を持っています。祝福鐘の使用許可が、婚礼当日ではなく昨日のうちに出ておりました」
「記録します」
マルタ様の羽ペンが走りました。砂時計をちらりと見る。
「日の出の鐘まで、あと6時間です」
「多いですよね?」
イザーク様が言いました。
「多くありません」
マルタ様は淡々と返しました。「奇跡水の服用記録照合、エルネスタ様の意思確認、本人意思確認欄への記録、仮承認一時停止の申請。6時間は多くありません」
私は扇子を、一度だけ閉じました。
神が望んだ婚姻なら、なぜ花嫁の返事をこれほど急がせますの。
問いの答えは、エルネスタ様の声の中にある。今夜、その声を取りに参ります。




