第14話 孤児院のリラは、誰を見て泣いたのですか
「聖女様は、泣く子を前に出せって言いました」
リラの声は、小さすぎて、礼拝堂の奥まで届かなかったかもしれません。
けれど、私には届きました。
白百合の祭壇前。午後の陽が石造りの窓を斜めに射し、献花台の白い花弁に橙が混じっております。貴族夫人たちの扇子が止まり、孤児院の子どもたちは互いの袖を掴んでおります。セレスティナ様は白いヴェールの下で、変わらず慈悲深く微笑んでいらっしゃいました。
「リラ。それは、どういう意味ですの」
私は膝を折り、彼女と目の高さを合わせました。
子どもの証言を引き出す時、高い場所から尋ねてはなりません。高い場所から降る言葉は、神の名と同じくらい、時に逃げ道を塞ぎます。
リラは唇を噛みました。薄い上着の袖口を、両手で握っている。その縫い目がもう裂け始めておりました。
「泣いてる子がいると、奥様たちがいっぱいお金を入れてくれるって。だから、パンがない日は、前に立って泣きなさいって」
礼拝堂が、息を止めました。
「違いますわ」
セレスティナ様が、すぐに口を挟まれました。艶やかな赤みの唇が、柔らかく形を整える。長い練習を経た微笑みです。
「その子は、感受性が強いのです。孤児院の子どもたちは、少しのことで不安定になりますもの。わたくしは、ただ愛を――」
「愛」
私は扇子を閉じました。
乾いた音が、祭壇前の石床に落ちる。飾り台の白百合が、わずかに揺れました。
「では、その涙の収支を、正式に照会いたしましょう」
セレスティナ様の笑みが、初めて薄くなりました。
後ろでマルタ書記官の帳面が開く音がいたします。「愛」の言葉で涙を肯定した以上、その愛が台帳の支出欄に存在しなければ、管理義務違反が発動いたします。怒りではございません。台帳の文法でございます。
周囲がざわめきました。慈善祭に水を差す令嬢。神官長と組んで、また何かを。
私は聞こえないふりをしました。3年前からそういう声は得意でございます。
「リラ。もう1つだけ教えてくださいませ」
もう一度、膝を折る。石床は冷たく、礼拝堂の空気には百合の香油と古い石の匂いが混ざっております。
「寄付箱は、いつもどこにありますの」
「……祭壇の、下」
「今日は?」
リラが顔を上げました。黒い瞳が、私ではなくセレスティナ様を見ました。怖いのだと、すぐに分かりました。怖くて当然です。もし証言した後に寄付が止まったなら、明日のパンが消えるかもしれない。その恐怖で今まで黙っていたのです。
「リラ。字が書けなくても、証言は残せますわ」
私は照会控えの余白を開きました。まだ何も書かれていない白い欄。そしてリラの小さな指を、そっと祭壇奥の白百合花壇へ導きました。
花弁から指へ。淡い金色の花粉が、静かに移る。
泣いたことは、恥ではございません。泣かされた理由を、誰にも聞かれなかったことが、罪なのです。
リラが、余白に指を押しつけました。世界で1つの、小さな証言です。
「寄付箱は」
リラの声が、ほんの少しだけ太くなりました。
「祭壇の下じゃなくて、馬車にありました。白いリボンのかかった馬車に」
セレスティナ様が、初めてヴェールの端を乱されました。
「昨日の裏門封鎖の記録と、照合できますか」
アルベリク様の声が、背後から静かに落ちてきました。
「確認済みです。閉門1刻前、裏門通過。マルタ書記官の帳面に記録があります」
「相違ありません」
温度のない声ですが、私の耳に届く「相違ありません」は、いつも少し違う重さで来るのでございます。
「では、照会を申請いたします」
私は立ち上がりながら申しました。
「神殿法第19条。先日申請した聖女候補審査義務に基づき、孤児院への着金記録と本日の台帳残高の差分を、正式に確認いたします」
拍手より静かに、しかし確実に、周囲の視線が変わっていく。
その時。礼拝堂の入口近くで、足音がいたしました。
マザー・オルガでございます。修道服の袖の繕い跡が、遠目にも分かります。老修道女は、背を丸めながら、まっすぐリラの隣へ歩み寄りました。何も言わず、ただリラの傍に立つ。年経た手が、子どもの肩にそっと添えられました。
リラの体から、少しだけ力が抜けました。
私は扇子の角を握り直しました。マザー・オルガが隣へ立てるということは、彼女もこの証言を支える覚悟を決めたのです。孤児院の今日のパンより、誰かに聞かれなかった涙の理由を先に置くという、老修道女なりの答えでございました。
セレスティナ様の口が、何かを言いかけて止まりました。
その時、礼拝堂の柱の陰から、イザーク様が小さく咳払いをなさいました。書類を胸に抱えたまま、眼鏡の縁を指で押し上げていらっしゃいます。
「あの……個人的なことを、申し上げてもよろしいですか」
「イザーク補助神官、今は職務中です」
「承知しております。……妹も」
イザーク様の声が、一瞬だけ細くなりました。
「妹も、白いヴェールの方を信じました。3年前に」
誰も口を挟みませんでした。アルベリク様だけが、ほんのわずかに視線を動かされました。私ではなく、イザーク様の方へ。そこにある問いを、引き取るように。
「3年前」
アルベリク様が静かに繰り返しました。
「その件は、後ほど伺います。記録を継続してください」
マルタ書記官の羽ペンが動きました。イザーク様は眼鏡の縁を押し上げたまま、口を閉じました。飲み込まれた言葉の続きは、まだそこにある。
礼拝堂は、息をしておりませんでした。窓から差す光だけが変わらず白百合の花弁を照らし、リラがマザー・オルガの袖をそっと握りました。老修道女の手が、静かに応えました。
◇
回廊に出ると、夕刻の橙が石床を染めておりました。
「お疲れですか」
アルベリク様が、2歩後ろで言いました。
「いいえ」
「リラの花粉印は、正式な証言記録として受理されますか」
「第9条。証言者が口頭と書面のいずれかで示した場合、神殿は記録義務を負います。指が紙に触れ、個別の痕跡が残ったなら、書面に相当します」
私は前を向いたまま、息を一つ落としました。当然のことが、当然に通っただけでございます。けれど今日、その一事が、どれほど貴重かは分かりました。
「神官長様。イザーク補助神官の妹の件。3年前の記録を、照会できますか」
アルベリク様が、一歩だけ前へ出られました。私と肩の位置が揃う。夕陽の中に立つ彼の輪郭は、いつもより少しだけ近く見えました。紺青の肩布の縁で、親指が一度だけ静かに止まります。
「今夜、禁書庫を開けます」
それだけです。説明も、理由も、続きませんでした。
私は照会控えを帳面に挟みました。リラの花粉印の隣に、次の余白を作りながら。
3年前の記録を開いた時、そこに誰の名があるのか。次の問いは、もうそこまで来ております。そしてそれが、セレスティナ様だけを指す問いでは済まないかもしれないということを、私はまだ、扇子の陰に収めておりました。




