第13話 台帳は、嘘をつかない
白百合祭の閉門まで、あと1刻。
鐘楼の影が礼拝堂の階段へ伸び始めた時、寄付箱を載せた馬車が、裏門へ向かって動き出しました。
「あら」
私は扇子を閉じました。
「祈りは、閉門前に馬車へお乗りになるのですね」
イザーク様が隣で息を呑み、マルタ書記官が台帳を抱え直しました。台帳は分厚く、革紐で締められており、持つだけで腕が下がるほど重そうです。マルタ書記官が、台帳を少し持ち上げるようにしながら言いました。
「公爵令嬢、この重さは孤児3日分のパンより重いです」
「重さが正しく届いていれば、たいへん結構ですわ」
「届いていなければ?」
「照会いたします」
「ですよね」
軽いやりとりのはずでした。けれど、礼拝堂の奥からリラがこちらを見ていることに気づき、私は声を落としました。
あの子はまだ、自分が泣いたせいで寄付が増えたと思っております。泣かされたのではない。泣いた自分が悪いのだと、小さな肩で抱えている。
そんな祈りを、閉門の鐘で終わらせてよいはずがございません。
「神官長様。裏門の馬車を止めてくださいませ」
「権限は」
「正式照会補佐官として、寄付台帳の移動時刻と保管先を確認いたします」
アルベリク様は、ほんの一瞬だけ、私の顔をご覧になりました。休ませたい、とその目が言った気がしました。けれど口にされたのは職務の言葉です。
「許可します。記録を」
その時、広場の方からセレスティナ様の声が響きました。
「皆様、祈りは疑うものではございません!」
拍手が起きる。
拍手とは、時にもっとも大きな目隠しでございます。
私は階段を下りました。白百合の花粉が、石段に小さく散っている。寄付箱は確かにここを通った。
閉門まで、あと1刻。その1刻で、私たちは聖女様の祈りの行き先を、数字で追うことになりました。
裏門の手前で、馬車は止まっておりました。
御者は初老の男で、困惑と後ろめたさを半々に顔へ貼り付けておりました。アルベリク様の純白の祭服を見た瞬間、首が亀のように縮みます。傾いた夕光の中で、馬が一度だけ蹄を鳴らしました。
「この馬車の搬送指示書を」
アルベリク様が静かに言うと、御者は懐から折りたたんだ紙を取り出しました。
「セレスティナ様よりいただいた、搬送指示書でございまして」
イザーク様が受け取り、私へ手渡してくださいました。
搬送指示書。日付。署名。受付番号。
私は受付番号を読んだ瞬間、閉じた扇子の骨が掌に当たるのを感じました。少しだけ、強く。
「マルタ書記官。この受付番号は、神殿正式搬送許可証の番号と一致しておりますか」
マルタ書記官は台帳の革紐をほどき、静かなすばやさで数字を追いました。羽ペンの先が、ある行で止まります。
「一致しておりません。この番号は昨日午前の祈願受付番号です。搬送許可証の番号とは2桁違います」
昨日の祈願受付番号。別の書類から写したのか。あるいは意図的に入れ替えたのか。どちらにせよ、この指示書は正しくない。
「御者様。この書類を、いつ、どなたからお受け取りになりましたか」
「今日の昼前に、侯爵令嬢様の侍女から」
「昼前」
白百合祭が始まる前の時刻です。
寄付が集まるより先に、箱の行き先は決まっていた。
広場ではまだ祝福の歌が続いております。アルベリク様が馬車の荷台へ手を向けました。
「確認します」
荷台の中には、白百合の飾り紙に包まれた木箱が3つ、並んでおりました。
開けると、金貨と銀貨が混じっております。礼拝者の祈りの重さが、金属の音を立てておりました。私はその音を聞きながら、マルタ書記官から台帳を受け取りました。
「支出欄を最初の行から読んでいただけますか」
マルタ書記官の声は平坦で、感情を乗せません。だからこそ、数字の意味が際立ちました。
「第1項。白百合祭用衣装一式、衣装商フォルメル商会へ。金貨18枚。日付は白百合祭前日の午後3時」
白百合祭前日。寄付が集まる前の日付で、支出が記されている。
「第2項。孤児院薬購入費、薬師ヴェルン工房へ。銀貨6枚。日付は白百合祭当日の朝10時」
「第3項。孤児院食費補助、マザー・オルガへ。銀貨9枚。日付は——」
マルタ書記官が、ほんの一瞬だけ止まりました。
「白百合祭当日の夜9時。閉門より3刻後でございます」
閉門より、後。
寄付がまだ今この馬車に積まれているのに、閉門後の日付で支出が書かれている。
「衣装商が先で、孤児院が後」とイザーク様が小さく言いました。「……整えれば整えるほど、矛盾が正確に残る台帳ですね」
「よくお気づきになりましたわ」
その時。
台帳の頁がめくれ、白百合の花粉が1粒、荷台の床へ落ちました。
淡い金色の粉。
私はその粉を見つめました。この台帳は神殿書記官が作成するものではございません。セレスティナ様の侍女が管理する慈善帳簿のはずです。ならば最後に台帳を触れた者が、白百合の花びらに触れた者でもある。
祭壇奥に近づいた者。花粉の残る場所に立った者。
「マルタ書記官。この花粉の落下位置を記録してくださいませ。どの頁の、どの行に近いかを含めて」
「承知いたしました。ただいまの花粉1粒、台帳第4頁・支出第3項付近より落下、と」
羽ペンが走りました。
アルベリク様が、私の隣で静かに息を吐きました。怒りではない。神殿の誰かがこの台帳に触れたかもしれないという、重い確認の呼吸でございます。
「裏門の封鎖を。記録のため、御者殿も今しばらく」
御者が青ざめた顔で頷きました。
◇
閉門の鐘が、遠く鳴りました。
台帳の数字を追い終えた時、礼拝堂の入口へ目を向けますと、リラが石柱に寄り掛かっておりました。こちらを見ている。目が合うと、一度だけ視線を落とす。袖口を、ぎゅっと握る。
あの子が伝えたいことを、台帳の数字はまだ全部は言えておりません。
「第14条に基づく寄付金移動の一時差し押さえを申請いたします」と私はアルベリク様へ言いました。
「申請を受け取ります」
短い。でも、それで足りました。
夕光の中で、白百合の花粉だけが金色に浮かんでおりました。この粉を台帳へ運んだ手は、どこから来たのか。神殿の帳簿に触れる権限を持つ者は、多くはない。
翌日、リラがもし口を開けば、私たちはその手を探しにいくことになります。
――台帳は、嘘をつかない。証言も、きっと、そうでなければならないのです。




