第12話 その押し花は、職務上の保管ですか
押し花が、禁書庫前室の床へ落ちかけました。
白百合の押し花。薄く乾き、透けるほど白く、けれど花弁の端にだけ、雨に濡れたような淡い跡が残っている。それが石床の冷たさへ触れる寸前に、長い指が空を切りました。
アルベリク様は、それを拾うのが早すぎました。
証拠を扱う神官長としてではなく、失くしてはならない私物に触れる人の速さで。
「今のものは」
「資料です」
「私、まだ何も申し上げておりませんわ」
「資料です」
マルタ書記官が、羽ペンを止めました。イザーク様は書棚の陰で、明らかに息を殺しております。禁書庫前室の午後は日当たりが悪く、高窓から差し込む薄い光が棚の縁だけを切るように照らしておりました。花粉資料、祝福証明書の紙片、香油の照合表。棚の品はどれも職務のものでございます。けれど、アルベリク様の手の中に収められた押し花だけが、職務という言葉で覆うには、あまりに大切に扱われておりました。
「その押し花は、職務上の保管ですか」
私が尋ねると、アルベリク様の左手の親指が、紺青の肩布の縁をなぞりました。いつも冷静な方が、言葉を選ぶ時の癖でございます。
「……職務でなければ、持つことを許されません」
肯定にも否定にも聞こえない答えでした。
私は扇子を開きました。胸の奥に生まれた問いを、涼しい顔の下に押し込めるために。
卓の上に、花粉の照合表が広げられています。今日の本来の用件は、これでございます。
「照合を始めましょうか」
「はい」
声が普段より低かったのは、気のせいでしょうか。
白手袋をはめ直し、卓へ近づきました。アルベリク様の左手が照合表の縁を押さえています。広げた紙が動かないようにするための、ごく当然の所作です。私の右手との距離は、帳面1冊ほど。
近い。
その一語が、職務の思考より先に浮かんで、私は自分を叱りました。
「雨白百合の花粉は、通常より粒が細かいのです。湿度の高い環境で開花するために、粒径に差が出ます」
「拡大眼鏡で確認できますか」
「はい。ご覧ください」
アルベリク様が拡大眼鏡を差し向けました。私が受け取ろうとした時、互いの指先が金具の枠へ触れました。白手袋越しに、革の温もりが伝わる。
アルベリク様の手が、ゆっくりと引きました。それだけのことでございます。ただ、引くまでの一拍が、一呼吸よりも長うございました。
「……これは、温室の花粉です。乾いた室内で育てられた白百合の。雨白百合では、ございません」
拡大眼鏡を覗き込みました。確かに、粒の輪郭が鮮明すぎる。湿った空気を知らない花粉の形をしております。
「セレスティナ様は、雨の日の祈りで選ばれたとおっしゃっておりましたわ」
「証明書にはそう記されています。花粉はそう言っていない」
マルタが羽ペンを走らせます。「温室産白百合花粉、確認。記録。」小さく復唱する声が、前室の静寂に溶けました。アルベリク様の横顔は、神殿法を読む時と同じ目をしておられました。冷たくはない。ただ正確に、見ている。
私はそれが嫌いではないと、今日初めて気づきました。
気づいたのは、おそらく悪い兆候でございます。
「マルタ、恋文は禁書庫資料に含まれますか」
「含まれません」
「承知いたしました。含まれない、と確認を記録します」
書棚の陰でイザーク様が「私はただいまの発言を聞いておりませんでした」と言いました。
その時でございます。アルベリク様が押し花を指先で押さえながら、おっしゃいました。
「貴女様にだけは――」
前室の空気が、止まりました。
マルタが羽ペンを構えます。イザーク様が書棚から半分出てきました。
アルベリク様の耳の端が、紺青の肩布では隠しきれない赤みを帯びているのを、私は見てしまいました。
彼は押し花を書類の下へ滑らせ、言葉を続けました。
「――この照合表の副本を、正式補佐として。お渡しします」
「……承知いたしましたわ」
副本を受け取りながら、続きを問わなかった自分を正しいと言い聞かせました。続きを聞いてしまったら、これは職務の時間ではなくなる。その判断が正しかったのかは、まだ分かりません。
廊下へ出ると、西向きの窓から夕前の橙色が差し込んでいました。本殿前広場の歌声が、石の回廊にくぐもって届きます。白百合祭は、まだ続いております。
曲がり角に差し掛かった時。
白い袖が廊下の向こうへ消えました。足音は早く、角を曲がる前にこちらを振り向く気配があった。セレスティナ様の侍女でございます。
「公爵令嬢」
アルベリク様が前を向いたまま、静かに言いました。
「噂の対処は、ご存じですか」
「照会はできませんわ」
「正しく。実績で潰すことになります。照会より多く、正確に」
私たちは廊下を並んで歩きました。適切な距離を保って。それ以上でも、それ以下でもなく。
◇
帰り際、私は押し花の裏側を思いました。
床へ落ちかけた一瞬、古い筆記体の日付が見えました。3年前の、白百合が雨に濡れる季節の日付。証拠品ならば、台帳に番号があるはずです。職務の保管ならば、私に見せない理由はない。
ならばあの押し花は、どこから来たのでしょう。
扇子を閉じました。今夜、答えは出ません。
翌朝、噂は届きました。「神官長と公爵令嬢が禁書庫前室で逢引していた」と、社交界の早い口は正確に間違えておりました。
それより先に届いたのは、次の締め切りでした。
「白百合祭の閉門まで、あと1刻」
イザーク様が廊下を走ってきた時、私はすでに照会控えを手にしておりました。
押し花の続きは、寄付台帳が馬車に乗る前に決着をつけてから考えます。




