第11話 印があることと、正しく押されたことは
祝福証明書の白百合印は、確かに押されておりました。
ですから、最初に負けたのは私でございます。
神殿審問準備室の卓上に、セレスティナ様の証明書が置かれている。中央に主神印、右下に書記官印、そして右上に白百合印。高窓から午前の光が斜めに差し込み、証明書の上に長方形の明かりを落としておりました。石造りの室内は冷え、棚の羊皮紙の匂いが空気に溶けている。広場からはまだ白百合祭の後片づけの音楽が、窓越しに低く聞こえておりました。祝福の歌。美しいものほど、間違っていると告げるには手間がかかる。
セレスティナ様は準備室の入口に立っておられました。白いヴェールが高窓の光を受けて、淡く輝いている。黄緑色の瞳は冷静で、紅の唇が微笑みの形に整えられておりました。その後ろに取り巻きの令嬢が3名、扇子を持ったまま息を潜めております。
「ほら、ご覧なさいませ」
白いヴェールの下で、セレスティナ様が微笑まれました。甘く澄んだお声が、この部屋の冷たさを少し溶かす。
「神殿の印が、きちんとございますでしょう。祝福を疑うなど、神への不敬ではなくて?」
取り巻きの令嬢方が、こちらを責めるように息を呑みました。
私は、証明書へ顔を近づけました。
印はある。
けれど、薄い。
白百合印の輪郭だけが、紙の繊維に沈まず、表面で乾いている。押印後に香油を重ねたのではなく、乾きかけの印油を無理に伸ばしたような滲み方でございます。花弁の先が、煤を吸ったように、右上だけ潰れておりました。
「神官長様」
「お気づきになりましたか」
アルベリク様の声から、温度が消えておりました。怒りではない。怒りよりも静かな、神殿そのものが息を止めるような声。金色の瞳が、印の縁を静かに追っている。
「この印油は、本物です」
室内の空気が、白く凍りました。
偽物ならば、裁けばよろしい。
けれど本物ならば、話は別でございます。
本物の印油が、偽の祝福証明書に使われている。それは、どなたかが神殿の内側から白百合を売ったということです。
セレスティナ様は、まだ勝ったつもりで笑っておられました。
「印はございますわ。これ以上、何を疑うと?」
私は扇子の先で、薄い白百合印の端を示しました。
「順序でございます」
◇
準備室が静まり返りました。
「神殿の祝福証明書における押印順序は、施行細則第8条に定められております。書記官印が最初、次に主神印、最後に白百合印でございます」
扇子の先を、証明書の上でゆっくりと動かします。
「この証明書の主神印は、香油の乾き方が白百合印より薄い。後から押されたものが、先に乾くはずはございません。つまり——書記官印が、最後になっております」
「……」
アルベリク様が、低く言われました。長身を少し前傾にしたまま、金色の瞳がセレスティナ様へ向けられる。
「順序を誤った証明書は、神殿の公認を受けたものとみなされません」
取り巻きの令嬢が1人、小さく声を上げました。セレスティナ様の笑みが、初めて薄くなります。白いヴェールの端を整える指が、いつもより早い。
「……印は、ございますわ。誰かが順序を間違えただけで——」
「左様でございますわね」
私は扇子をゆっくりと閉じました。準備室に、乾いた音が落ちます。
「どなたが間違えたのか。それを、照会いたします」
本物の印油を使い、順序を誤って押した者。神殿の外へ出ないはずの印油を持ち、証明書の様式を知り、押印順序を誤るほど急いだ者。
神殿の内側から、白百合が売られた。
◇
「祝福を、審問の机に乗せると?」
セレスティナ様の声が、細くなりました。人前で必ず少しだけ震わせる声が、今は震え方を制御しきれていない。ヴェールの端を押さえる指が、白くなっている。
「神の祝福を疑うことは、神への侮辱でございます。わたくしは孤児たちのために清らかな祈りを捧げてきたのですわ。それをこのような——」
「聖女様」
私は声を低くしました。怒るほど声が静かになるのは、父の言い癖でもございます。
「聖女候補と名乗られるなら、神殿法第19条に定める候補審査の義務が発生いたします。審査には、祝福証明書の原本照合のほかに、慈善活動期間中の寄付台帳の提出が必要でございます」
マルタ書記官の羽ペンが、紙を走りました。
「祝福は、疑うものではございません、と仰いましたわね」
私は続けました。
「その通りでございます。だからこそ、本物の祝福は審査に耐えられます」
セレスティナ様の肩が、わずかに落ちました。ヴェールが揺れて、止まった。
窓の外の祭の歌が、ちょうどその時、途切れました。
マルタ書記官の羽ペンの音だけが、静かに響いております。
◇
セレスティナ様が退席された後、イザーク様が書棚の陰から姿を現されました。眼鏡の縁に光が当たって、表情がよく見えない。それでも、口の端が真一文字に引かれているのは、分かりました。
「……印油の出庫記録は、禁書庫前室の台帳に紐付けられています。出庫には神官長印が必要です。ただし、半年以内の記録は副印のみでも有効な例外規定があります」
「イザーク様、よくご存じで」
「私は補助神官でしたので」
少しだけ強調する言い方でした。証拠を持たされることへの抵抗と、それでも言わずにいられない何かが、その細い声の奥で混在しておりました。
「神官長様」
「はい」
「印油の出庫記録を、照会申請できますか」
アルベリク様は、すぐにはお答えになりませんでした。窓の外で、石廊下に落ちる光が少しずつ傾いている。親指が、肩布の縁を1度だけなぞりました。
「できます。ただし」
「ただし」
「その照会を出した瞬間、神殿内部の審問が始まります。記録は残り、関与した者は全員、尋問の対象になります」
マルタ書記官が羽ペンを止めました。
「神官長様ご自身も、対象に含まれますか」
アルベリク様の金色の瞳が、まっすぐこちらへ向けられました。長い間ではございません。でも確かに、向けられた。
「含まれます」
それだけでございました。
私は扇子を持ち直しました。胸の奥が、静かに騒いでいる。騒いだままで、言いました。
「では、申請いたします」
◇
廊下へ出ると、白百合の香りが薄くなっておりました。
祭の後片づけが進んでいるのでしょう。石廊下の端に、使い終わった白百合の茎が無造作に束ねられています。花弁はもうなく、茎だけが緑のまま。
「公爵令嬢」
半歩後ろから、アルベリク様の声がしました。
「はい」
「この照会は、神殿の中で最も嫌われます」
「存じております」
「それでも」
石廊下の冷たさが、靴底から伝わってくる。白百合の茎の影が、午後の光の中に長く伸びていた。
「それでも参ります」
アルベリク様は、それ以上はお口になさいませんでした。
肩布の縁に添えた親指が、一瞬だけ動いて、止まった。
止まった指の意味を、私はまだ言葉にできません。
分からないまま、廊下の先へ歩きました。印油の出所を追えば、神殿の内側へ踏み込むことになります。踏み込めば、今度は私たちが疑われる側へ回る可能性がある。けれど、順序を誤った印だけが残るなら、本物の白百合が偽の祝福に使われ続けるなら。
廊下の奥から、イザーク様が照会書式を抱えて早足で近づいてまいります。眼鏡が跳ねそうなほど急いでいらっしゃる。
「囮役ではないはずなのに、なぜいつも——」
「イザーク様」
「わかっています。持ちます」
白百合の茎の前を通り過ぎながら、私は1つだけ、心に留めておりました。
セレスティナ様は、寄付台帳の提出を求められました。
その台帳の中に、何があるのか。
次の照会は、そこから始まります。




