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栄華を極めた筈の愛の王国の没落記  作者: ふーわ
第1章 山裾の村での幸福だった日常
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母の家族



翌朝、吹雪は嘘のように止んでいた。


一面の銀世界。

窓の外では、朝日を受けた雪がきらきらと光っている。


けれど、その美しさとは裏腹に。

エレノアの熱は下がらなかった。




「……っ、ごほ……!」




苦しげな咳。

セレスは慌てて水差しを掴んだ。




「お母さま、水」


「ありがとう……」




受け取る手が細い。

こんなに細かっただろうか、とセレスは思う。


昔から華奢ではあった。

けれど今は、まるで骨だけになってしまいそうで怖かった。




「今日こそ寝てて」


「……そうですね」




珍しく素直な返事だった。

それが逆に不安になる。


エレノアは寝台へ身体を預けると、少し疲れたように目を閉じた。


呼吸が浅い。

苦しそうだ。


セレスはその傍らへ椅子を引き寄せ、黙って座った。


何か話した方がいい気がした。

でも、何を言えばいいのか分からない。




「……セレス」




先に口を開いたのはエレノアだった。




「勉強は?」


「今日はいい」


「駄目です」




即答。

思わずセレスはむっとする。




「こんな時くらい休んでもいいじゃない」


「駄目です」




今度は少し強めだった。

エレノアはうっすら笑う。




「貴女は、これから先も生きていくのですから」




その言葉に、セレスの胸がざわついた。


まるで、自分は一緒にいないみたいな言い方だった。




「……お母さまもでしょ」


「え?」


「お母さまも生きるの」




子どもみたいな言葉だと思った。

でも口にせずにはいられなかった。




「春になったら、また薬草摘みに行こうって言ってたじゃない」




去年見つけた花畑。


山の中腹。

雪解けの季節にだけ咲く青い花。


エレノアは綺麗だと言って笑っていた。




「覚えてる?」


「当たり前でしょう」




エレノアは小さく笑う。

けれどその目は、どこか遠かった。


セレスは嫌だった。

その目が。


まるで、もう春を見ていない人みたいで。




「……約束したもん」




ぽつりと呟く。




「だから、ちゃんと治して」




エレノアは答えなかった。

代わりに、そっと娘の頬へ触れる。


冷たい指。




「セレス」


「なに」


「もし、私が、」


「嫌」




反射的に遮っていた。

聞きたくなかった。

その先なんて。




「嫌、言わないで」




声が震える。

エレノアは少しだけ目を見開き、それから困ったように微笑んだ。




「……そうですね。ごめんなさい」




その時だった。

外から馬の嘶きが聞こえたのは。


セレスが顔を上げる。

この村で、馬車の音は珍しい。

まして冬の間など、ほとんど誰も来ない。




「誰か来た?」




窓の外を見る。


雪道の向こうに、黒塗りの馬車が止まっていた。

村では見たこともないほど立派な造り。


馬も大きい。

御者台には厚手の外套を纏った男が座っている。




「……え」




セレスが呆然とした時だった。


寝台の上で、エレノアの表情が変わった。

息を呑む音が聞こえる。


驚き。

そして、安堵。




「お母さま?」




エレノアは震える指で胸元を押さえた。

その瞳に、薄く涙が滲んでいる。




「……間に、合ったのですね」




小さな呟き。

その意味を、セレスはまだ知らない。


家の扉が静かに叩かれた。

けれど不思議と、その音だけが家中に響いた気がした。


セレスは無意識にエレノアを振り返る。


母は寝台の上で小さく息を整えていた。


その顔には、先ほどまでとは違う緊張がある。

まるで、ずっと避け続けていた何かと向き合う人の顔。




「……セレス」


「う、うん」


「扉を開けてくれる?」




セレスは頷き、ゆっくり戸口へ向かった。


胸がざわつく。

理由は分からない。

ただ、これを開ければ何かが変わってしまう気がした。


冷たい取っ手へ手をかける。

ぎい、と音を立てて扉が開いた。


外気が流れ込む。

雪の匂い。


そして。

そこに立っていた男を見て、セレスは思わず息を呑んだ。


背の高い男だった。

濃紺の外套には雪が積もっている。

年齢は三十代半ばほどだろうか。


整った顔立ち。

鋭い灰青色の瞳。

ただ立っているだけなのに、空気が違う。


村の誰とも似ていない。

まるで物語の中から抜け出してきたみたいな人だった。




「……突然失礼する」




低い声。

視線がセレスへ向けられる。

その瞬間、男の表情が僅かに揺れた。


驚愕。

信じられないものを見る目。




「銀の髪……」




掠れた呟き。

セレスは反射的に一歩下がった。


男はすぐ我に返ったように目を伏せる。




「……すまない。驚かせたな」


「あなた、誰……?」




問いかけると、男は数秒沈黙した。


その間にも、雪が静かに降り積もる。

やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。




「アルヴェイン公爵家当主」




その名は、セレスには何の意味も持たなかった。




「セオドア・フォン・アルヴェインだ」




アルヴェイン。

昨夜、母の日記に書かれていた名前。

セレスが目を見開いた瞬間だった。




「……兄上」




寝台の方から、か細い声が響いたのは。


セオドアが弾かれたように顔を上げる。

その表情を見て、セレスは呆然とした。


泣きそうだった。

今にも崩れ落ちそうな顔で、男はエレノアを見ている。




「エレノア……!」




彼は乱暴なほどの勢いで家へ入り、寝台の傍へ駆け寄った。


膝をつく。

そのまま、細い手を強く握り締めた。




「どうして……こんなになるまで……!」




声が震えている。

怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。


エレノアは苦しそうに息を吐きながら、それでも小さく笑う。




「ごめんなさい」


「謝るな!」




鋭い声。

セレスはびくりと肩を震わせた。


だが次の瞬間、セオドアははっとしたように口を閉ざす。

まるで、自分が怒鳴ったことを後悔したみたいに。




「……すまない」




誰に向けた謝罪なのか分からなかった。

エレノアは静かに首を振る。




「来てくださって、ありがとうございます」


「当然だ」




セオドアは即答した。




「お前から手紙が届いた時、どれだけ……」




そこで言葉が途切れる。

彼は苦しげに目を伏せた。


その姿を見ながら、セレスは頭の整理が追いつかなかった。


兄上。

つまり。




「……お母さまのお兄さん?」




その問いに、セオドアがゆっくり振り返る。

灰青の瞳が、真っ直ぐセレスを見つめた。


強い目だった。

けれどそこに宿る感情は、驚くほど優しい。




「ああ」




静かな肯定。




「私は、君の母の兄だ」




セレスは息を呑む。


本当にいたのだ。

母の家族が。


遠い世界の話みたいだったものが、一気に現実になる。

セオドアはしばらくセレスを見つめていた。


まるで、失われたものを見るみたいに。




「……よく似ている」




ぽつりと呟く。


エレノアが苦笑した。




「でしょう?」


「鏡を見ているようだ」




その声は、少し掠れていた。


セレスは戸惑う。

どう反応すればいいのか分からない。


ただ一つだけ分かるのは。

この人が、母を大切に思っていることだった。

それだけは、どうしようもなく伝わってきた。




「セレス」




エレノアが娘を呼ぶ。




「こちらへ」




セレスはゆっくり寝台へ近づいた。

エレノアは娘の手を取り、そしてセオドアを見る。




「この子を……お願いできますか」




その瞬間。

セレスの心臓が、どくりと大きく鳴った。




「お母さま?」




嫌な予感。

いやだった。

聞きたくなかった。


だがエレノアは、穏やかに微笑んでいる。




「セレス」




その声は、あまりにも優しかった。




「貴女には、ちゃんと帰る場所があるのですよ」




セレスは、何も言えなかった。


胸の奥で。

何かがゆっくり崩れ始めていた。


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