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栄華を極めた筈の愛の王国の没落記  作者: ふーわ
第1章 山裾の村での幸福だった日常
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公爵令嬢だった母


「……嫌」




気づけば、そう口にしていた。

セレスはエレノアの手を強く握る。




「嫌だよ」




震える声。


自分でも子どもっぽいと思った。

でも止められなかった。




「どこにも行かない。私はお母さまといる」


「セレス」


「嫌!」




セオドアが静かに目を伏せる。


だが口は挟まない。

ただ、苦しそうにその光景を見守っていた。


エレノアは小さく息を吐く。

細い指が、セレスの頬へ触れた。




「困ったわね」




微笑む。

泣きたくなるくらい優しい顔だった。




「こういう時の貴女は昔から、頑固だもの」


「だって……!」


「聞いて?」




その声は弱々しいのに、不思議と逆らえなかった。


セレスは唇を噛む。

涙が滲む。




「……私は、もう長くありません」


「そんなこと、」


「あります」




静かな肯定だった。

残酷なほど穏やかな。


セレスの喉が詰まる。

否定したかった。

でも、できなかった。


ここ数日の母を見ていれば分かる。

本当はずっと、気づいていた。

気づかないふりをしていただけだ。




「ごめんなさいね」




エレノアが謝る。




「本当は、もっと一緒にいたかった」




その一言で。

セレスの中の何かが決壊した。




「じゃあ、死なないでよ……!」




ぽろぽろと涙が落ちる。




「置いていかないで……!」




エレノアの目にも、薄く涙が滲んだ。

けれど彼女は泣かなかった。


ただ、娘の髪を優しく撫で続ける。




「セレス」




囁くような声。




「貴女は、生きなければいけません」


「やだ……!」


「生きて、幸せになって」




その言葉が、ひどく遠く感じる。


幸せ?

母がいないのに?


そんなもの、あるわけがない。


セオドアが静かに口を開いた。




「……エレノア」




低い声。




「まだ間に合う。王都へ連れて行けば、」


「兄上」




エレノアはゆるく首を振った。




「私は、王都には入れません。」




セオドアが息を呑む。

拳が強く握られる。

悔しそうだった。


どうしようもないものに怒っているみたいに。




「……医師は?」


「いないですけれど、自分の体のことです。分かりますよ」




静寂。

薪の爆ぜる音だけが響く。


セレスの頭は真っ白だった。




「嫌……」




掠れた声が零れる。




「嫌だ……」




エレノアはそんな娘を見つめ、そっと抱き寄せた。


細い身体。

でも温かい。


小さい頃、熱を出した時に抱き締めてくれたのと同じだった。




「ごめんなさい」


「謝らないで……」


「愛していますよ、セレス」




その言葉が怖い。

まるで最後みたいで。




「……っ」




セレスは声を殺して泣いた。

エレノアの服を握り締める。


離したくない。

離したら、本当に消えてしまいそうだった。


セオドアは視線を逸らしたまま、低く呟く。




「……遅すぎた」




その声には、深い後悔が滲んでいた。

エレノアが苦笑する。




「兄上は悪くありません」


「悪い」




即答だった。




「私は、お前を守れなかった」




その言葉に、セレスは顔を上げる。


守れなかった。

その響きは、昨夜の“負けた”という言葉と繋がる。


やはり母は、ただ王都を離れたわけではない。


何かがあったのだ。

酷い何かが。




「……兄上」




エレノアは静かに目を細めた。




「もう終わったことです」


「終わってなどいない」




セオドアの声は低かった。

押し殺した怒りが滲んでいる。




「お前がこうなった今も、あの王家は何一つ、」




そこで彼は口を噤んだ。

セレスがいることを思い出したのだろう。


だが、もう遅かった。




「王家?」




セレスが呟く。

エレノアとセオドア、両方の表情が止まった。


セレスは涙で濡れた目のまま二人を見る。




「お母さま、王家と何があったの」




誰も答えない。

暖炉の火だけが揺れる。


セレスにとって、貴族も、王家も、お伽噺の中の存在でしかない。

『真実の愛』で結ばれた国王様と王妃様、というお伽噺の中でしか。


長い沈黙のあと。

エレノアはゆっくり目を伏せた。




「……それを話すには、少し長い時間が必要ですね」




疲れたような声だった。




「でも、きっともう、隠してはいられません」




その言葉と共に。

セレスの知らなかった世界が、少しずつ姿を現し始めていた。


暖炉の火が、静かに揺れていた。

ぱちり、と薪が爆ぜる。

その小さな音だけが、やけに大きく響く気がした。




「……まずは、何から話すべきでしょうね」




エレノアが小さく笑う。

困ったような声だった。

セオドアは黙ったまま妹を見つめている。


その目に宿る後悔は、隠しようもなかった。




「セレス」




エレノアが娘を呼ぶ。




「貴女が昨夜見た名前の、アルヴェイン公爵家」




静かな声。




「それが、私の生家です」




セレスは息を呑む。

公爵家。


それがどれほど凄いものなのか、正確には分からない。

けれど、“貴族”などという曖昧な言葉とは違う重みだけは感じ取れた。




「……じゃあ、お母さまは」


「元公爵令嬢、ですね」




さらりと言う。

だがセレスの頭は追いつかない。


公爵令嬢。

目の前の、優しく笑う母が?




「信じられませんか?」


「だって……」




セレスは家の中を見回す。


小さな木造の家。

古びた机。

擦り切れた毛布。




「こんなところに住んでるのに」




エレノアはくすくす笑った。




「確かにそうですね」




その笑みを見て、セオドアが苦しそうに目を伏せる。




「……本来、お前がこんな場所で苦労する必要などなかった」


「兄上」


「違うか?」




低い声だった。




「お前はアルヴェインの姫だった。誰より誇り高く、優しく、聡明で……」




そこで声が掠れる。




「社交界でも、王都でも、知らぬ者はいなかった」




セレスは呆然と母を見る。

エレノアは少し困ったように微笑んだ。




「昔の話ですよ」


「昔では済まされない」




セオドアの声音には怒りが滲んでいた。


けれどその怒りは、妹であるエレノアへ向けたものではない。

もっと別の誰かへ向いている。




「……お母さま、何があったの」




恐る恐る尋ねる。

エレノアはしばらく黙っていた。


窓の外では雪が降り続いている。


白い世界。

静かな夜。




「私は、昔、王太子殿下の婚約者でした」




その瞬間。

セレスの思考が止まった。




「……え?」


「当時の王太子殿下。現在の国王陛下ですね」




穏やかな口調。

まるで昔話をするみたいに。

だがセレスは、まるで現実感がなかった。


王太子の婚約者。

それはつまり。




「王妃になるはずだった人……?」


「ええ」




あまりにも簡単に肯定される。

セレスは何も言えなくなった。


王都。

王家。

公爵家。


全部、自分とは関係ない遠い世界だと思っていた。


なのに母は、その中心にいたのだ。




「……でも」




掠れた声で呟く。




「今の王妃さまは別の人だよね」




エレノアが静かに頷く。




「はい」


「どうして」




その問いに。

セオドアの空気が変わった。


ぴん、と張り詰める。

怒り。


殺意に近いほど冷たい感情。

セレスは思わず息を呑んだ。


だがエレノアは、ただ静かに目を伏せる。




「陛下は、“真実の愛”を見つけられたのです」




その言葉は、妙に空虚だった。




「真実の……愛?」


「ええ」




エレノアは微笑む。

けれど、その笑顔はどこか壊れている。




「当時、陛下はある男爵令嬢と恋に落ちられました」




セレスは理解できなかった。


婚約者がいるのに?

王妃になるはずの人がいるのに?




「そして陛下は、私との婚約を破棄されました」




静かな声。

感情はほとんどない。

それが逆に痛々しかった。




「王都は大騒ぎでした」




セオドアが低く続ける。




「王家とアルヴェイン公爵家の婚約だ。国の均衡そのものだった」




セレスには難しい話だった。

でも、それがとても大きな出来事だったことだけは分かる。




「当然、反対の声も多かった」




セオドアの瞳が冷たくなる。




「だが国王陛下は恋に酔っておられた。“愛のために全てを捨てる自分”に」


「兄上」




エレノアが制するように名前を呼ぶ。

だがセオドアは止まらなかった。




「結果、お前が全てを被った」




重い沈黙。

セレスは母を見る。


エレノアはただ静かに微笑んでいた。

まるで他人事みたいに。




「……酷い」




ぽつり、とセレスの口から零れた。


胸の奥が熱い。

怒りだった。




「お母さま、悪くないのに」




婚約を破棄されて。

王都を追われて。

こんな辺境で。


一人で、自分を育てて。




「どうしてそんなことされなきゃいけないの……!」




エレノアの目が、少しだけ揺れた。

まるで誰かに怒ってもらえることを、想像したことがなかったみたいに。




「……セレス」




エレノアの声は静かだった。

けれど、どこか困ったようでもあった。




「そんな顔をしないで」


「だって……!」




セレスは唇を噛む。

怒りで胸が熱かった。

自分でも驚くくらい。


今まで、王家なんて遠い存在だった。

絵本の中の人たち。

綺麗な服を着て、豪華なお城で暮らしている人たち。


そんな曖昧なイメージしかなかった。


なのに、その人たちが母を傷つけたのだと知った瞬間、どうしようもなく腹が立った。




「婚約って、そんな簡単に捨てていいものなの?」




セオドアが苦い顔をする。




「本来ならば有り得ん」


「じゃあなんで……!」


「陛下は、“愛”を選ばれた」




吐き捨てるような声だった。


セレスは理解できない。

愛を選ぶことが、どうして誰かをこんな目に遭わせるのか。




「……お母さまは、嫌じゃなかったの」




恐る恐る尋ねる。

エレノアは少しだけ考えるように目を伏せた。




「嫌、でしたね」




あまりにも穏やかな答え。




「当時は、毎日泣いていました」




セレスの胸がぎゅっと痛む。

母が泣く姿なんて想像できなかった。




「でも」




エレノアは微笑む。




「婚約自体は、政略でしたから」


「政略?」


「家と家の結びつきです。恋愛ではありません」




セレスはますます顔を顰めた。




「でも、お母さまは好きだったんでしょう?」




その問いに。

エレノアはほんの少しだけ目を見開いた。


セオドアも黙る。


暖炉の火が静かに揺れる。




「……どうでしょうね」




やがて、エレノアは小さく笑った。




「昔すぎて、よく覚えていません」




嘘だ、とセレスは思った。


母は覚えている。

覚えていて、でも言わないだけだ。


セレスはなんとなく分かる。

母は、自分の痛みを隠すのが上手すぎる。




「ただ、私は、王妃になるために育てられました」




エレノアは窓の外へ視線を向ける。


白い雪。

静かな夜。


その声音は、不思議と空っぽだった。




「王家へ嫁ぎ、国を支えること。それが私の役目だった」




幼い頃から。

厳しい教育を受けて。

立ち居振る舞いを学び。

政治を学び。

感情を抑えることを覚え。


そうして“未来の王妃”として生きてきた。




「だから婚約破棄は……自分という存在そのものを否定されたような気がしたのです」




セレスは息を呑む。


それは、どれほど苦しかっただろう。

自分が生きてきた意味を、全部いらないと言われるようなものだ。




「しかも、王家は世論を味方につけた」


「世論?」


「“真実の愛”だ」




セオドアの声が低くなる。

吐き気でも堪えるような声音だった。




「国王陛下は、身分差を越えて愛を貫いた悲劇の王子として扱われた」




セレスは呆然とする。




「……え」


「民衆は熱狂した。恋物語としてな」




セレスだって知っている。有名なお伽噺だ。


けれど、理解できない。

だって。

その裏で、母は泣いていたのに。




「では、お母さまは?」




セオドアの目が鋭く細まる。




「愛を邪魔する悪役だ」




その一言が。

セレスの胸へ、冷たい刃みたいに突き刺さった。




「そんな……」


「社交界では違った。貴族たちは皆、何が起きているか理解していたからな」




セオドアは苦々しく続ける。




「だが民衆にとっては違う。恋を阻む高慢な公爵令嬢。そういう物語の方が都合が良かった」




エレノアは静かに微笑む。




「私は元々、あまり愛想が良い方ではありませんでしたしね」


「違う!」




思わずセレスは叫んでいた。




「お母さまは優しい!」




誰より優しいのに。

どうして悪役なんて言われなきゃいけないの。


エレノアが目を丸くする。

まるで、本気で驚いたみたいに。


そして。

少しだけ泣きそうに笑った。




「……ありがとう」




掠れた声だった。

セオドアはそんな妹を見て、ぎゅっと拳を握る。




「アルヴェインは抗議した」




低い声。




「だが王家は聞かなかった。むしろ、排除したがっていた」


「どうして」


「民衆が“真実の愛”を求める以上、エレノアの存在は邪魔になるからだ」




セレスは絶句する。


そんな理由で?

そんなくだらない理由で?




「私は王都を離れました」




エレノアが静かに続ける。




「父上も、兄上たちは止めてくださったのですが……あの時の私は、もう全部疲れてしまって」




その言葉に、セオドアが苦しそうに目を伏せる。




「……すまなかった」


「兄上は悪くありません」


「悪い」




セオドアは即答した。




「私は結局、お前を守れなかった」




その声には、長年抱え続けた悔恨が滲んでいた。


セレスは母を見る。


細い身体。

優しい手。

静かな笑顔。


この人は。

こんな人は。

踏み潰されていい人じゃない。


その瞬間。

セレスの中に、初めてはっきりとした感情が芽生えた。


許せない。

それはまだ幼く、形も定まらない感情だった。

けれど確かに。


王家への小さな憎しみが、この夜、胸の奥へ静かに根を下ろしたのだった。


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