雪解けの前に
それから数日。
エレノアの体調は、少しずつ悪くなっていった。
最初は小さな咳だけだった。
けれど日を追うごとに回数が増え、時折ひどく苦しそうに息を乱すようになる。
「お母さま、今日は休んで」
朝食の席で、セレスはとうとうそう口にした。
湯気の立つスープの向こうで、エレノアが小さく目を丸くする。
「あら」
「“あら”じゃないです」
珍しく強い口調になった。
「昨日だって夜中に咳してた。熱もあるでしょう?」
「大したことでは」
「あります」
ぴしゃりと言い切る。
エレノアは少し困ったように笑った。
その笑みが、セレスは好きだった。
でも今は、その笑みを見るたび胸がざわつく。
まるで何かを誤魔化されているみたいで。
「薬、飲んで」
「……はいはい」
子どもを宥めるような返事。
セレスはむっとした。
「お母さま、絶対私のこと子どもだと思ってる」
「実際まだ子どもでしょう?」
「違うもん」
「では大人らしく、薬湯を淹れてきてくださる?」
「……う」
言い返せなくなる。
エレノアはくすくす笑った。
その声を聞いていると、少しだけ安心する。
いつも通りだ、と。
だからセレスはまだ、本当の意味では気づいていなかった。
母の身体が、確実に壊れ始めていることに。
昼頃になると、村の子どもたちが家へやってきた。
「セレス姉ちゃん!」
「遊ぼう!」
勢いよく飛び込んできた少年たちに、セレスは苦笑する。
「今日は駄目。お母さまが休んでるから静かにして」
「えぇー」
頬を膨らませる子どもたち。
その後ろから、小さな少女がそろそろと顔を出した。
「……エレノアさん、具合悪いの?」
不安そうな声。
セレスは少しだけ言葉に詰まる。
「ちょっと風邪」
「治る?」
「治るよ」
即答だった。
そう言い切らなければいけない気がした。
少女はほっとしたように笑う。
「よかったぁ」
その顔を見て、セレスも笑った。
大丈夫。
きっと大丈夫だ。
母は昔から身体が弱かった。
それでも、いつだって笑っていた。
だから今回もきっと。
そう思いたかった。
夕方。
セレスは洗濯物を取り込むため外へ出ていた。
空は灰色で、また雪が降りそうだった。
冷たい風が頬を撫でる。
急がないと。
そう思って家へ戻ろうとした時だった。
ごほっ、と。
家の中から激しい咳が聞こえたのは。
「お母さま!?」
慌てて扉を開ける。
暖炉の前。
エレノアが口元を押さえて蹲っていた。
「っ……!」
その指の隙間から、赤いものが零れ落ちる。
血だった。
一瞬、頭が真っ白になる。
「お母さま!!」
駆け寄る。
エレノアは苦しそうに呼吸を乱しながら、それでもセレスを安心させるように微笑もうとした。
「だい、じょう」
「大丈夫じゃない!!」
叫びに近かった。
セレスの手が震える。
血。
母の血。
そんなもの、見たことがなかった。
「医者……!」
この村にはいない。
それでも口にせずにはいられない。
「街に……っ」
「セレス」
エレノアの手が、そっと娘の頬へ触れた。
冷たい手だった。
「落ち着きなさい」
「でも……!」
「大丈夫です」
また、その言葉。
セレスは泣きそうになった。
どうしてそんな顔で笑うの。
どうして苦しいはずなのに、私を安心させようとするの。
「……ごめんなさいね」
ぽつり、とエレノアが呟く。
「少し、無理をしてしまったみたいです」
「少しじゃない……!」
セレスは俯いた。
涙が零れそうになる。
嫌だった。
母が弱っていく姿なんて見たくなかった。
ずっと、変わらないと思っていたのに。
そんな娘を見つめながら、エレノアは静かに目を伏せた。
時間がない。
その事実を、彼女だけは理解していた。
だから、その夜。
セレスが眠ったあと、エレノアはひとり、机へ向かった。
小さな蝋燭の火が揺れる。
細い指が、静かに便箋を広げた。
ペン先が震える。
熱のせいか。
それとも別の理由か。
少しだけ迷うように目を閉じてから、エレノアはゆっくりと文字を書き始めた。
『兄上へ』
その文字だけで。
止まっていた時間が、再び動き出してしまうようだった。
朝、セレスが目を覚ますと、暖炉にはすでに火が入っていた。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
温かな匂い。
けれど。
「……お母さま?」
返事がない。
セレスは毛布を跳ね除け、慌てて部屋を見回した。
小さな家の中に母の姿はない。
一瞬、胸がざわつく。
だがすぐ、奥の机に向かう背中を見つけて安堵した。
「もう起きてたの?」
「ええ。少しだけ」
エレノアは振り返って微笑む。
いつも通りの穏やかな顔。
けれど、顔色は悪かった。
青白い。
細い肩も、どこか頼りなく見える。
セレスはむすっと眉を寄せた。
「ちゃんと寝てないでしょう」
「寝ていましたよ」
「嘘」
「嘘ではありません」
「じゃあ何してたの」
その問いに、エレノアはほんの僅かだけ沈黙した。
「……少し、昔の整理を」
曖昧な答えだった。
だがセレスは追及しなかった。
机の上には紙束が置かれている。
文字が書かれていたようだが、すでに封蝋まで済まされていた。
見慣れない紋章が押されている。
双頭の鷲と剣。
どこか厳かな印。
「それ、手紙?」
「ええ」
「誰に?」
エレノアは少しだけ目を細めた。
懐かしいものを見るような目。
「……大切な人へ」
その答えに、セレスは不思議そうに首を傾げた。
母には自分以外の家族がいないと思っていた。
少なくとも、今まで一度も聞いたことがない。
だがエレノアはそれ以上語らない。
代わりに立ち上がろうとして――小さく顔を歪めた。
「っ……」
「お母さま!」
セレスが慌てて駆け寄る。
身体を支えると、その軽さに驚いた。
まるで雪みたいだ、と。
触れたら溶けて消えてしまいそうで。
「ごめんなさい。少し立ちくらみが」
「だから休んでって言ったのに……!」
半ば泣きそうになりながら言うと、エレノアは困ったように笑った。
「そんな顔をしないで」
「するよ……」
セレスは俯く。
怖かった。
毎日少しずつ、母が弱っていく。
それなのに、自分には何もできない。
薬草も煎じる。
暖かいスープも作る。
できることは全部している。
でも、それで治る気がしなかった。
「セレス」
エレノアが静かに娘の頭を撫でる。
優しい手。
昔から変わらない手。
「貴女は、本当に優しい子ですね」
「……またそれ」
泣きそうな声になった。
「優しいだけじゃ駄目だよ」
助けられない。
守れない。
こんなにも大切なのに。
エレノアは一瞬だけ目を見開き、それからゆっくり微笑んだ。
「いいえ」
穏やかな声だった。
「優しさは、とても大切なものですよ」
その声音は、まるで祈るみたいだった。
セレスは何も言えなくなる。
その代わり、母の服をぎゅっと掴んだ。
離したくなかった。
嫌な予感がしていた。
子どもっぽい勘だとしても。
このまま、どこか遠くへ行ってしまう気がした。
昼過ぎ。
家の戸を叩く音がした。
やって来たのは村長の妻だった。
手には籠を抱えている。
「この前のお礼だよ」
中には焼き立ての黒パンと、小さな瓶詰めが入っていた。
「そんな、お気遣いなく」
「何言ってるんだい。あんたには世話になりっぱなしだ」
老女は笑い、それからふとエレノアの顔を見て表情を曇らせた。
「……顔色が悪いねぇ」
「少し風邪を引いただけですよ」
「本当かい?」
「ええ」
だが、老女は納得していない顔だった。
ちらりとセレスを見る。
セレスは小さく唇を噛んだ。
きっと村の皆も気づき始めている。
母の様子がおかしいことに。
「セレス、何かあったらすぐ呼ぶんだよ」
「ありがとうございます」
老女が帰ったあと、家の中に静寂が落ちる。
エレノアはしばらく戸口を見つめていた。
雪国特有の、静かな午後。
暖炉の音だけが響く。
「……お母さま?」
呼びかけると、エレノアはゆっくり振り返った。
その目が、少しだけ赤いことにセレスは気づく。
「どうしたの?」
「いいえ」
エレノアは微笑んだ。
「ただ、優しい人たちに囲まれていたのだなと思って」
その言葉は、どこか別れを惜しむようだった。
セレスの胸が、またざわつく。
けれど、その正体だけはまだ分からない。
分かりたくなかった。
その夜、雪は吹雪へ変わった。
窓を叩く風の音が、まるで獣の唸り声みたいに響いている。
こんな夜は珍しくない。
山裾の村では、冬になると何度もあることだ。
けれどセレスは、妙に眠れなかった。
暖炉の火は小さく揺れている。
母は寝台で休んでいるはずだった。
はず、だったのに。
「……お母さま?」
小さな灯りが見えた。
机の前。
エレノアが一人、何かを読んでいる。
ぼんやりした橙色の光が、その横顔を照らしていた。
ひどく綺麗だ、とセレスは思った。
弱っているはずなのに。
むしろ今までより、儚く、美しく見える。
「まだ起きてたの?」
声をかけると、エレノアが静かに振り返る。
「あら、起こしてしまいましたか」
「眠れなくて……」
セレスは毛布を抱えたまま近づいた。
机の上には、昨日見た手紙とは別の紙が広がっている。
細かな文字。
古い記録のようにも見えた。
「何読んでるの?」
「昔の日記です」
「お母さまの日記?」
「ええ」
エレノアは少し懐かしそうに目を細めた。
セレスはその横から紙を覗き込もうとして、見慣れない名前に気づく。
『アルヴェイン公爵家』
その瞬間。
エレノアの指が、そっと紙を閉じた。
「お母さま?」
「……ごめんなさいね」
柔らかな声だった。
「まだ、少し早いのです」
“まだ”。
その言葉が妙に引っかかった。
「それ、何?」
エレノアは少し黙る。
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
吹雪の音だけが響く。
やがて彼女は、小さく息を吐く。
「セレス」
「うん」
「貴女は、自分が普通の村娘ではないと気づいていましたか?」
思いがけない問いだった。
セレスは目を瞬かせる。
「……少しは」
正直に答える。
だって普通ではない。
母は学がありすぎる。
礼儀に厳しすぎる。
時折見せる所作も、言葉遣いも、村人とはまるで違う。
何より。
自分たちだけ、どこかこの村から浮いている。
「お母さま、昔は貴族だったの?」
その言葉に、エレノアは静かに目を伏せた。
「……ええ」
短い肯定。
セレスは息を呑む。
驚きはあった。
けれど不思議と納得もしてしまう。
やっぱり、と思った。
「じゃあ、王都にいたの?」
「いました」
「どうしてここに?」
その問いに、エレノアはすぐ答えなかった。
長い睫毛が影を落とす。
細い指が、机の上で静かに重なった。
「負けたのです」
「……負けた?」
「ええ」
微笑む。
けれどその笑みは、どこか痛々しかった。
「少しだけ、政治に巻き込まれてしまって」
“少し”。
きっと、それは少しなんかではない。
セレスは直感する。
でもエレノアは、わざと軽く言っている。
自分を心配させないために。
「酷いことされたの?」
思わず聞いていた。
エレノアは驚いたように目を見開く。
「どうしてそう思ったのです?」
「だって」
セレスは唇を噛む。
「お母さま、時々すごく苦しそうな顔するから」
暖炉の火が揺れる。
しばらく沈黙が落ちて、吹雪の音だけが遠く響く。
やがてエレノアは、そっと娘の髪へ触れた。
「……貴女は、本当に鋭い子ですね」
優しく梳かれる銀の髪。
その指先が、少し震えている。
「でも、もう終わったことですよ」
「終わってない」
セレスは反射的に言い返していた。
「お母さまが今でも苦しそうなのに、終わったことじゃない」
エレノアの目が見開かれる。
まるで予想外の言葉を聞いたみたいに。
セレスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
腹が立った。
顔も知らない誰かに。
母をこんなふうにした人間に。
「私、その人嫌い」
「セレス」
「だって、お母さま泣きそうな顔してる」
言った瞬間だった。
エレノアが、ふっと笑ったのは。
あまりにも優しく。
どこか泣きそうな笑顔だった。
「……ありがとう」
その声に、セレスは戸惑う。
感謝されることなんて言っていない。
ただ、本気で嫌だっただけだ。
母が苦しむ理由なんて。
「でもね、セレス」
エレノアは静かに娘を見つめる。
「誰かを憎み続けるのは、とても苦しいことなのですよ」
その言葉は、まるで自分自身へ言い聞かせているみたいだった。
セレスは何も返せなかった。
ただ、その時初めて、母の中には、自分の知らない深い傷があるのだと知った。




