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栄華を極めた筈の愛の王国の没落記  作者: ふーわ
第1章 山裾の村での幸福だった日常
2/24

雪の村の母娘


その村には、名前らしい名前がなかった。


王国北端の山脈近く。

冬になれば雪に閉ざされ、春が来る頃には半分ほどの若者が出稼ぎへ消える。地図にも載らないような辺境の寒村。

人々はただ、“山裾の村”と呼んでいた。


セレスは、その村が世界の全てだと思っていた。




「セレス、薪を運ぶのを手伝ってちょうだい」


「はぁい!」




ぱたぱたと雪を踏みながら、小さな家へ駆け戻る。

吐く息は白く、頬は冷気で赤く染まっていた。


十四歳になったばかりの少女にしては細身だったが、その動きは軽やかだった。

銀糸のような髪が揺れる。

村では珍しい色だった。

雪よりなお白く、陽の光を受けると淡く輝く不思議な髪。

そして、水を溶かしたように透き通った淡青の瞳。


幼い頃は妖精の子ではないかと本気で噂されたこともある。




「走ると転びますよ」




くすくすと笑う声に、セレスはむっと唇を尖らせた。




「お母さま、子ども扱いしすぎです」


「あら。十四歳はまだ子どもでしょう?」


「もう大人です」


「そう言って昨日は雪道で転んでいたのは誰かしら」


「……忘れてください」




セレスの母エレノアは、声を立てて笑った。

柔らかな笑みだった。


身体はあまり丈夫ではないのに、不思議と彼女の周囲だけは暖かかった。

セレスは母が好きだった。

世界で一番。


細い指も、長い睫毛も、穏やかな声も。

夜、暖炉の前で本を読んでくれる時間も。

厳しく礼儀作法を教える時の顔も。

全部。




「はい、こちらを持って」




薪の束を差し出され、セレスは慌てて抱え込む。




「重……っ」


「大丈夫?」


「へ、平気です!」




ふらつきながらも家の中へ運ぶ。


その後ろ姿を見つめながら、エレノアはふっと目を細めた。

似ている。

本当に。

自分によく似てしまった。


銀の髪も。

瞳の色も。

意地っ張りなところまで。




「お母さま?」


「……いいえ。何でもありませんよ」




家の中は暖かかった。


小さな暖炉。

古びた木の机。

壁際に並ぶ大量の本。

辺境の村には不釣り合いな蔵書だった。


政治史。

薬学。

外国語辞典。

神話集。

王国法。


セレスは幼い頃から、それらを当たり前のように読まされてきた。

だから、自分たちが少し変わっていることくらいは分かっている。


村娘が普通、四か国語の読み書きなど習わない。

王都の貴族社会の礼儀作法など必要ない。


それでも母は教えた。

厳しく。

時に容赦なく。


『いつか必要になります』


そう言って。

けれど、何に必要なのかは教えてくれなかった。




「セレス」


「はい?」




薪を並べていたセレスが振り返る。

エレノアは窓の外を見ていた。


雪が降っている。

静かな雪だった。




「この冬は、長くなりそうですね」


「今年は寒いですものねぇ」




セレスはのんびり答えた。

だがエレノアは、どこか違うものを見ているようだった。

セレスは少しだけ首を傾げる。




「お母さま?」


「……いいえ」




エレノアはすぐに微笑んだ。




「昨日の復習をしましょうか」


「えっ」


「王国法の成り立ちについて。昨日で覚える約束でしたよね?」




セレスの顔が引きつる。




「きょ、今日は薪割りを頑張ったのでお休みとか……」


「駄目です」


「うぅ……」




項垂れる娘を見て、エレノアは楽しそうに笑う。

その笑顔を見るたび、セレスは思うのだ。

この時間がずっと続けばいい、と。

ずっと二人で。

この小さな家で。

静かに暮らしていければいい、と。


だから。

その冬が、自分たちの全てを変えることになるなど、セレスはまだ夢にも思っていなかった。


その日の夕方。

家の扉が激しく叩かれた。




「エレノアさん!」




切羽詰まった男の声。


セレスが慌てて扉を開けると、そこには村長の息子であるガルドが立っていた。


二十代半ばの大柄な男だ。

だが今は、その顔を青ざめさせている。




「どうしたの?」


「親父が倒れた!」




エレノアが立ち上がる。

表情が変わった。


穏やかな母親の顔ではない。

何かを決断する人間の顔。




「熱は?」


「高ぇ……! 呼吸も変なんだ!」


「分かりました。すぐ行きます」




迷いがない。

棚から布袋を取り出し、中身を確認していく。


薬草。

包帯。

小瓶。


その手際は、田舎の女のものではなかった。


セレスはそれを知っている。

村の誰かが病気になるたび、母はこうして助けてきた。

医者などいないこの辺境で、母だけが頼りだった。




「セレス、留守番を」


「私も行く」




即答だった。

エレノアは少し困ったように笑う。




「外は冷えますよ」


「それでも行く」




数秒、視線が交わる。


やがてエレノアは小さく息を吐いた。




「……では、厚手の外套を着なさい」


「うん!」




セレスは嬉しそうに頷く。


雪はまだ降り続いていた。

静かに。

どこまでも静かに。


村長の家には、セレス達がたどり着いた時にはすでに何人もの村人が集まっていた。


不安げな顔。

押し殺した声。

狭い室内に重苦しい空気が満ちている。




「エレノアさんが来たぞ!」




誰かが叫んだ瞬間、村人たちの顔に安堵が広がった。

まるで救い主でも現れたかのような反応だった。


セレスはその光景を見慣れている。

この村では、母は特別だった。

文字を読める者すら少ない辺境で、母は本を読み、薬を調合し、計算をし、病を診る。


しかも決して威張らない。

だから皆、母を慕っていた。




「熱湯をお願いできますか」




エレノアは落ち着いた声で言う。


それだけで場が動き出す。

男たちが薪をくべ、女たちが布を運ぶ。

セレスは慣れた手つきで薬草を広げた。


村長は寝台の上で苦しそうに呻いている。

顔色が悪い。

呼吸も浅い。




「肺炎ですね……」




エレノアが額に触れ、静かに呟く。




「セレス、銀葉草を」


「うん」




小袋から乾燥した薬草を取り出す。


こういう時、セレスは少し誇らしかった。

自分だけは母の役に立てる。

村人たちが母を頼るように、母は自分を頼ってくれる。

それが嬉しかった。




「最近、無理をなさっていたのでしょう」




エレノアが村長の妻へ穏やかに問いかける。

老女は泣きそうな顔で頷いた。




「雪が降る前に薪を集めるって聞かなくてねぇ……」


「この人、昔から頑固だから」


 


周囲から苦笑が漏れる。

張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


エレノアは薬を煎じながら、小さく微笑む。




「大丈夫ですよ。まだ間に合います」




その言葉に、皆がほっと息を吐いた。


セレスはふと不思議に思う。

どうして母の言葉には、こんなにも人を安心させる力があるのだろう。

まるで、生まれながらに人の上に立つことを知っているみたいに。




「……セレス?」




いつの間にか、母がこちらを見ていた。




「ぼんやりしていますよ」


「あ、ごめんなさい」


「疲れましたか?」


「ううん」




首を振る。

本当に疲れてはいなかった。


ただ時々、母が遠い存在に思えることがある。

優しくて、大好きで。


でも、自分の知らない何かをたくさん抱えている人。

そんな気がするのだ。


治療が一段落した頃には、外はすっかり暗くなっていた。


村人たちが口々に礼を言う。




「本当に助かったよ」


「エレノアさんがいてくれてよかった」


「セレスちゃんもありがとな」




頭を撫でられ、セレスは少し照れた。




「まだ治ったわけじゃないよ」


「でもお前さんが来ると、皆安心するんだ」




そう言って笑う老婆に、セレスはきょとんと目を丸くした。


自分はそんな大したことをしていない。

薬草を渡して、湯を運んだだけだ。


だが村人たちは、本気で感謝しているようだった。


帰り道。

雪は弱くなっていた。

月明かりが白い道を照らしている。


セレスは母の隣を歩きながら、ぽつりと呟いた。




「お母さまって、すごいね」


「何がです?」


「皆、お母さまのこと大好きだもの」


 


エレノアは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

それから困ったように笑う。




「そんなことありませんよ」


「あるよ」




セレスは即答した。




「病気を治してくれて、難しいことも知ってて、綺麗で、優しくて……」


「褒めすぎです」


「本当だもん」




エレノアは小さく吹き出した。

吐く息が白く夜へ溶ける。




「……セレス」


「なぁに?」


「貴女は、優しい子ですね」




唐突な言葉だった。

セレスは首を傾げる。




「普通だよ?」


「いいえ」




エレノアの声は穏やかだった。




「優しいことは、当たり前ではないのです」


 


その横顔が、何故か少し寂しそうに見えた。

セレスは足を止める。




「お母さま?」


 


エレノアはすぐに笑った。




「寒いですから、早く帰りましょう」




まただ、とセレスは思う。


母は時々こういう顔をする。

遠い何かを思い出すような。

泣きそうなのに笑っているような。


その理由を聞いたことはない。

聞いてはいけない気がしていた。


家へ戻ると、エレノアは暖炉へ火を足した。

ぱちぱちと薪が爆ぜる。

暖かな光が室内を照らした。




「温かいお茶を淹れましょうか」


「うん」




セレスは椅子へ座りながら、ぼんやり母を見つめる。


綺麗だと思った。

年を重ねてもなお、美しい人だった。


銀の髪。

白い指。

静かな所作。


王都の貴婦人と並んでも、きっと誰より気品がある。


……王都。

セレスはふと、その単語に引っかかった。




「お母さま」


「はい?」


「昔、王都にいたことあるの?」


 


一瞬だった。

本当に一瞬だけ、エレノアの手が止まった。


けれど彼女はすぐ、何事もなかったように茶葉をカップへ入れる。




「どうしてそう思ったのです?」


「だって、お母さま普通じゃないもの」


「それ、褒めています?」


「褒めてる」


 


エレノアはくすりと笑った。

だが、その笑みはどこか儚かった。




「……昔、少しだけ遠くにいたことはあります」


「どんなところ?」


「そうですね」




エレノアは窓の外を見る。


白い雪。

静かな夜。




「とても賑やかで、とても綺麗で……そして、とても息苦しい場所でした」




セレスはますます首を傾げた。

だが、それ以上は聞けなかった。


母がこれ以上語りたくなさそうだったから。

代わりにエレノアは微笑み、湯気の立つカップを差し出した。




「さあ、冷えてしまいますよ」


「ありがとう」




カップを受け取る。


温かい。

その温もりにほっと息を吐いた瞬間だった。


ごほっ、と。

小さな咳が聞こえたのは。


セレスが顔を上げる。

エレノアは口元を押さえていた。




「お母さま?」


「……大丈夫」




そう笑う顔が、少しだけいつもより青白かった。


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