母の教え
朝食を終えた頃。
屋敷の外から馬車の音が聞こえてきた。
「来たみたいね」
ヴィオレッタが立ち上がる。
セレスも慌てて続いた。
「こんなに朝早く来るんだ……」
「昔から時間に厳しい方なの」
サイラスがぼそりと呟く。
「五分前行動ができないと普通に怒られる」
「サイラスは、よく怒られてた」
「兄上は俺を何だと思ってるの?」
「問題児」
「否定できないのが悔しい」
そんな会話をしながら、一同は応接間へ向かう。
しばらくして。
扉が開いた。
「お久しぶりでございます、ヴィオレッタ様」
入ってきたのは、一人の老婦人だった。
ぴしりと背筋が伸ばし、白髪をきっちり結い上げ、濃紺のドレスを纏っていた。
年齢を感じさせる顔立ちなのに、その瞳は驚くほど鋭い。
空気が変わる。
それだけで分かった。
この人は、本当に“本物”なのだと。
「お久しぶりです、アシュレイ先生」
ヴィオレッタが優雅に微笑む。
先生。
その呼び方に、セレスは少し緊張した。
「こちらが」
ヴィオレッタがそっとセレスの背へ手を添える。
「エレノアの娘、セレスです」
老婦人……アシュレイは、静かにセレスを見た。
鋭い視線。
値踏みされている気がして、少し背筋が伸びる。
「……なるほど」
低い声だった。
「よく似ておいでだ」
セレスは反射的に頭を下げようとして、
「いけません」
ぴしゃり、と飛んだ声にセレスの動きが止まる。
アシュレイは真っ直ぐセレスを見る。
「貴方はこの国の筆頭公爵家の令嬢です」
静かな声。
なのに圧がある。
「公爵、公爵夫人、王家以外に、下手に出る必要はありません」
セレスは目を見開く。
「でも、挨拶は……」
「挨拶と、媚びることは違います」
即答だった。
その空気に、サイラスが小さく肩を竦める。
どうやらいつものことらしい。
「頭を下げるという行為は、“相手へ敬意を示す”と同時に、“自分が下位である”と認める意味を持ちます」
アシュレイは淡々と言う。
「アルヴェインの令嬢が軽々しく頭を下げることは、家の価値を下げる行為でもあるのです」
セレスは言葉を失う。
そんなこと、考えたこともなかった。
村では、挨拶をするときに頭を下げるのは当たり前だったから。
「……難しい」
思わず本音が漏らすと。
「当然です。貴族とは、難しいものですので」
アシュレイは一切表情を変えずに頷いた。
その言葉に、サイラスが吹き出しそうになる。
ディモンが無言で足を踏んでいた。
「痛っ」
「静かにしろ」
小声の応酬。
アシュレイは完全に無視している。
「セレス嬢」
「……はい」
「背筋を」
反射的に伸ばす。
「顎を少し上げて」
言われた通りにする。
「視線を逸らさない」
アシュレイの鋭い瞳と目が合う。
怖い。
けれど、不思議と逃げたくはなかった。
数秒。
静寂。
やがて。
「……ふむ」
アシュレイが小さく頷く。
「素材は悪くありませんね」
「素材」
サイラスがまた笑いそうになる。
今度はヴィオレッタに睨まれていた。
「エレノア様によく似ております」
アシュレイの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「目が強い」
セレスは瞬きをした。
「エレノア様も、一度決めたら譲らない方でした」
懐かしむような声音。
セレスは少しだけ胸が温かくなる。
母を知っている人。
母の昔を覚えている人。
それだけで、嬉しかった。
「本日から、わたくしが貴方へ淑女教育を施します」
アシュレイは静かに告げる。
「厳しく参りますので、そのつもりで」
セレスは一瞬だけ緊張した。
けれど。
「……よろしくお願いします」
今度は頭を下げず、真っ直ぐ相手を見る。
すると、ほんの僅かにアシュレイの口元が和らいだ気がした。
「では、まず確認から始めましょう」
アシュレイはそう言うと、応接間の中央へ立った。
ぴんと張り詰めた空気。
セレスも自然と背筋を伸ばす。
「セレス嬢。歩いてみなさい」
「……はい」
言われた通り、部屋の端から端まで歩く。
裾を踏まないよう注意して。
姿勢を意識して。
けれど。
「駄目です」
即座に言われた。
「っ」
「肩に力が入りすぎています。顎も下がっている」
セレスは慌てて姿勢を直す。
「もっと自然に。貴方は“見られる側”なのですから」
見られる側。
その感覚がまだ全然分からない。
「もう一度」
「はい」
やり直す。
でも。
「硬い」
「はい……」
「視線が泳いでいます」
「……はい」
「歩幅が小さい」
「はい……」
だめだめだった。
横で見ていたサイラスが、完全に笑いを堪えている。
「サイラス」
アシュレイが低く呼ぶ。
「はい先生」
「笑うなら次は貴方がやりなさい」
「申し訳ありませんでした」
即座に真顔になる。
セレスはちょっとだけ溜飲が下がった。
「では次。言葉遣いです」
アシュレイがセレスを見る。
「最近読んだ本について話してみなさい」
「えっと……最近読んだ本は、薬草についての本で……すごく分かりやすかったです」
「……」
沈黙。
嫌な予感がした。
「言葉が平坦です」
「たいら……?」
「庶民的すぎる」
ぐさりと刺さる。
「公爵令嬢として話すなら、“大変興味深く拝読いたしました”程度は自然に出てきなさい」
「難しい……」
「これから覚えるのです」
容赦がない。
セレスはちょっと泣きそうになった。
すると。
「まあ、言葉遣いは仕方ないですよ」
ヴィオレッタが優しくフォローする。
「育った環境が違うもの」
「だからこそ、今のうちに矯正が必要です」
アシュレイは厳しい。
でも、その目は真剣だった。
ちゃんと“公爵令嬢として育てる”つもりなのだ。
「では次。ダンス」
セレスの顔が固まる。
「だ、ダンス……」
「基本だけ確認します」
差し出された手。
相手はサイラスだった。
「よろしく、妹君」
「なんで楽しそうなの」
「面白そうだから」
絶対それだと思った。
音楽はない。
けれどサイラスは慣れた動きでセレスを導く。
「右足から」
「う、うん」
「違う左」
「えっ」
「そっち俺の足」
「ご、ごめん!」
結果は散々だった。
「……出来ないわけではなさそうですが、何も知らなさすぎますね」
アシュレイが冷静に評価する。
「意外と動けてはいますが、経験不足です」
「セレス、運動神経は悪くないよ」
サイラスが笑いながら言う。
「でも全部勢い」
「うるさい」
「足踏まれた恨み?」
「それもある」
セレスはむっとする。
すると。
「最後に刺繍を」
アシュレイが刺繍道具を差し出した。
セレスは少し安心する。
これは母とよくやっていた。
布を持ち、針を通す。
花の模様を少しずつ縫っていく。
静かな時間。
気づけば部屋も静かになっていた。
やがて。
「……ほう」
アシュレイが初めて感心したような声を出す。
セレスは顔を上げる。
「綺麗」
ヴィオレッタが目を細めた。
サイラスも覗き込む。
「え、普通に上手」
「本当だな」
ディモンまで頷く。
セレスは少し戸惑った。
「お母さまが教えてくれたから……」
すると。
アシュレイがゆっくり頷いた。
「針運びが丁寧です」
その声には、確かな評価があった。
「エレノア様も刺繍はかなりの腕前でしたからね」
セレスの胸が少し温かくなる。
「つまり現状まとめると」
サイラスが指を折る。
「言葉遣い✕、姿勢✕、ダンス△、刺繍◯」
「やめて恥ずかしい」
「でも刺繍得意なのは強いよ。生まれながらの令嬢でも苦手な子はかなりいる。」
「他が壊滅的だけどな」
ディモンが追撃する。
「兄さまたちひどい!」
思わず声を上げると、ヴィオレッタが吹き出した。
アシュレイも小さく咳払いをする。
……今、ちょっと笑った?
「ですが」
アシュレイが真面目な声へ戻る。
「努力できる方です」
セレスは瞬きをした。
「エレノア様も、最初から完璧ではありませんでした」
静かな声。
「貴方もきっと、立派な淑女になれます」
その言葉は厳しい先生からの、初めての“肯定”だった。
「では次に、挨拶の礼儀について確認しましょう」
アシュレイがセレスに向き直り、セレスは慌てて姿勢を正した。
「貴族社会において、“誰から先に挨拶をするか”は非常に重要です」
「……順番があるの?」
「当然です」
即答だった。
「基本、下位の者から上位の者へ挨拶を行います」
セレスは小さく首を傾げる。
「えっと……じゃあ、私から先に挨拶しちゃ駄目な人もいる?」
「大半がそうです」
「えっ」
そんなに。
アシュレイは淡々と説明を続ける。
「例えば、街で子爵家の令嬢とすれ違ったとしましょう」
「うん」
「相手が先に挨拶をするまで、貴方から声をかける必要はありません」
セレスは困惑した。
「でも、無視みたいにならない?」
「なりません。それが“立場”ですから。」
ぴしゃりと一喝だった。
分かってはいたけれど、厳しい。
「アルヴェイン公爵家は、この国の筆頭公爵家。王家に次ぐ存在です」
双頭の鷲と剣の紋章。
昨日から色々なところで見た紋章が頭をよぎる。
「貴方が軽々しく誰へでも頭を下げれば、“アルヴェインはその程度の家”だと思われる」
セレスは少し息を呑む。
個人ではなく、“家”を背負っている。
その感覚がまだ難しい。
「逆に、王家や公爵家に対して下位貴族が挨拶を怠れば?」
「……失礼?」
「ええ。場合によっては“敵対”と見なされます」
貴族社会は思うよりもずっと怖いのかもしれない。
セレスの顔に出ていたのか、サイラスが横で笑った。
「まあ最初は皆そういう顔するよ」
「サイラス兄上は平気だったの?」
「俺?」
サイラスは少し考える。
「わりと小さい頃から“笑って誤魔化すな”って怒られてた」
「お前は実際、誤魔化していたからな」
ディモンが淡々と刺す。
「兄上、容赦なくない?」
「事実だ」
兄弟のやり取りを見ながら、セレスは少し肩の力が抜ける。
すると。
「セレス嬢」
アシュレイの声。
「はい!」
「今から実践します」
急だ。
「ヴィオレッタ様に紹介された夫人がが伯爵夫人だった場合、どう動くか」
ヴィオレッタが楽しそうに微笑む。
セレスは慌てて考える。
伯爵位は、公爵位より下。
つまり。
「……向こうから挨拶を待つ?」
「正解です」
ほっとする。
「では、相手が王族だった場合」
「先に挨拶する」
「正解」
少し嬉しい。
「では、同格の公爵家なら?」
「えっ」
止まる。
同格。
どっちが先?
アシュレイは静かに答えを待っていた。
セレスは必死に考える。
「……年上?」
「半分正解です」
難易度が上がった。
「同格の場合は、年齢、立場、親しさ、その場の空気によって変化します」
「空気」
「貴族とは空気を読む生き物です」
そんな生態みたいに。
サイラスが吹き出した。
「間違ってないけど先生の言い方ちょっと面白いな」
「サイラス」
「すみません」
即謝罪。
セレスは少し笑ってしまう。
「……でも」
セレスは小さく呟く。
「大変」
「ええ」
アシュレイはあっさり頷いた。
「だからこそ、“格”を身体へ叩き込む必要があります」
その瞳が真っ直ぐセレスを見る。
「貴方はもう、ただの少女ではありません」
静かな声だった。
「アルヴェイン公爵家の令嬢です」
アシュレイの言葉が胸へ残る。
重たい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
セレスは少しだけ考え込み、それから静かに顔を上げた。
「……でも」
アシュレイが目を細める。
「何ですか」
セレスは小さく息を吸った。
そして。
今度は頭を下げすぎないよう気をつけながら、丁寧に礼をする。
「本日から、よろしくお願いいたします。アシュレイ先生」
室内が少し静まる。
アシュレイはじっとセレスを見ていた。
「……今の説明を聞いていましたか?
確かに私は名誉爵位として男爵の位を頂いておりますが、元はただの侯爵家の出です。」
「聞いてました」
「ならば、何故」
セレスは少し迷った。
でも。
「立場がどうであれ、自分にものを教えてくれる相手には敬意を払いなさいって」
自然と声が柔らかくなる。
「お母さまが言っていました」
その瞬間。
ヴィオレッタが小さく目を見開く。
サイラスも笑みを引っ込めた。
アシュレイだけは無表情のままだった。
けれど、その瞳が僅かに揺れた気がした。
「……続きを」
静かな声。
セレスは頷く。
「村には、薬師のおじいさんとか、字を教えてくれた人とか、荷物を運んでくれる人とか、色んな人がいました。」
思い出す。
小さな村。
雪道。
母の横顔。
「お母さま、誰に対してもちゃんとお礼を言ってた」
村人相手でも。
年下でも。
相手が誰であっても。
決して礼を欠かなかった。
「皆、お母さまのこと好きだった」
困っている人がいれば助けて。
病気の人がいれば看病して。
子どもには本を読んであげていた。
だから村の人たちは、母を慕っていたし、礼も言っていた。
「……なのに」
セレスは少し俯く。
「お母さま、自分のことは全然頼らなかった」
最後まで。
苦しくなるまで。
誰にも助けを求めなかった。
部屋へ沈黙が落ちる。
暖炉の火だけが静かに鳴っていた。
やがて。
「……エレノアらしい」
ヴィオレッタがぽつりと呟く。
その声はどこか寂しそうだった。
アシュレイはしばらく黙っていた。
そして。
「セレス嬢」
「はい」
「先程の礼は、減点にはしません」
セレスはぱちりと瞬く。
「え?」
「“誰に対して頭を下げるか”を、自分の意思で選んだのでしょう」
鋭い瞳が真っ直ぐセレスを見る。
「それは、媚びではなく矜持です」
矜持。
難しい言葉だった。
でも、悪い意味ではないことだけは分かった。
「貴族社会において、無闇な謙遜は弱さになります」
アシュレイは静かに続ける。
「ですが、敬意を払うべき相手を理解している者は強い」
セレスは息を呑む。
「貴方のお母様は、その線引きが非常に上手い方でした」
ヴィオレッタが苦く笑った。
「……ええ。本当に」
その声音には、誇らしさと悔しさが混ざっていた。
サイラスがふっと目を細める。
「やっぱり叔母上ってすごい人だったんだなぁ」
「今更か」
ディモンが淡々と言う。
「いや、話聞くたび更新されるんだって」
セレスは少しだけ照れくさくなる。
自分が褒められているわけじゃない。
でも、母を褒められるのは嬉しかった。
「ただし」
アシュレイの一言で空気が締まる。
「社交界で同じことを無差別にやってはいけません」
「はい……」
「食い潰されます」
「こわい」
思わず本音が漏れた。
サイラスが吹き出す。
「先生、言い方」
「事実です」
アシュレイは真顔だった。
セレスは改めて思う。
貴族社会は、やっぱり今までの環境とは大きく違うのだ、と。




