『真実の愛の物語』
目が覚めて、ぼんやりと天井を見上げる。
暖炉の火は弱くなっていた。
窓の外はまだ暗い。
どれくらい眠っていたのだろう。
「……」
静かだった。
静かすぎて、逆に落ち着かない。
セレスはゆっくり身体を起こす。
慣れない寝台。
慣れない天井。
慣れない屋敷。
疲れているはずなのに、頭だけ妙に冴えていた。
「……寝れない」
ぽつりと呟く。
村にいた頃は、夜中に目が覚めても母がいた。
母が家事をしている音。
本をめくる音。
気配があった。
でも今は違う。
静寂だけだ。
セレスはしばらく膝を抱えていたが、やがてそっと寝台を降りた。
……少しだけ。
本当に少しだけ。
屋敷を見てみたい。
そんな出来心だった。
廊下は薄暗かった。
壁の燭台だけがぼんやり周囲を照らしている。
セレスは音を立てないよう歩く。
不思議な気分だった。
昼間は大きく感じた屋敷が、夜になるとまるで別の場所みたいに見える。
静かで。
広くて。
少し怖い。
でも同時に、わくわくもした。
探検みたいだ。
「……子どもっぽい」
小さく呟きながら歩く。
その時、ふと開きっぱなしの扉が目に入った。
中は暗い。
けれど、ずらりと並ぶ本棚が見えた。
「図書室……?」
セレスの目が少し輝く。
母の影響で、本は好きだった。
そっと中へ入る。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
天井まで届く本棚。
ぎっしり並ぶ本。
革張りの装丁。
古い紙の匂い。
村では絶対見られない光景だった。
セレスは恐る恐る本棚へ近づく。
歴史書。
地理。
神話。
戦術論。
難しそうな本ばかりだ。
「読めるかな……」
背表紙を眺めながら歩く。
すると、一冊の本が目に入った。
「……?」
妙だった。
大きな本棚の一番下の段の端。
まるで“見えないように押し込められている”みたいに、雑に突っ込まれている。
しかも周囲の本だけ妙に綺麗に並んでいるせいで、逆に浮いていた。
セレスは首を傾げ、そっと引き抜く。
「……『真実の愛の物語』?」
知ってる。
村でも見たことがある題名だった。
平民向けに流行っていた本だ。
“真実の愛によって困難を乗り越え、国王と王妃が結ばれた感動の物語”。
そういう触れ込みだったはず。
けれど。
「……なんか違う」
装丁が豪華だった。
村にあった、量産されていたものとは別物。
分厚い。
しかも、ところどころ紙片が挟まっている。
誰かが読んでいた跡みたいだった。
セレスは近くの机へ座り、ぱらりとページを開いた。
最初は、村で読んだものと似ていた。
身分違いの恋。
愛し合う二人。
困難。
涙。
でも。
「……え?」
読み進めるうちに、違和感が強くなる。
平民向けの話では省かれていたであろう部分が、やけに詳しかった。
王太子妃候補。
派閥争い。
失脚した令嬢。
そして。
“嫉妬深く陰湿な公爵令嬢”。
セレスの指先が止まる。
「……これ」
まるで、母のことみたいだった。
でも描かれている人物像は、セレスの知る母とも、ヴィオレッタ達の話すエレノアとも、何もかも違う。
冷酷で。
狡猾で。
執念深い悪女。
「……嘘」
喉が乾く。
ページをめくる手が速くなる。
断罪。
追放。
そして最後は、“真実の愛に敗れた哀れな女”として締め括られていた。
「……なに、これ」
気持ち悪い。
吐きそうだった。
母を知らない人間が好き勝手に作り変えた物語。
なのに。
これを“感動話”として皆読んでいたのか。
セレスは唇を噛む。
怒りで手が震える。
その時。
「……それ、見つけちゃったんだ」
後ろから声がした。
「っ!?」
セレスが勢いよく振り返る。
暗闇の中。
揺れる灯り。
ランプを片手に立っていたのは、サイラスだった。
灰青色の瞳が、静かにこちらを見ている。
その顔に、たった一日で何度も見た軽い笑みはなかった。
「……サイラス様」
セレスは反射的に本を閉じた。
ばたん、と大きな音が響く。
静かな図書室にはやけに大きく聞こえた。
サイラスは怒るでもなく、呆れるでもなく、小さく息を吐いた。
「眠れなかった?」
「……うん」
「そっか」
揺れるランプの灯りが、彼の横顔を照らす。
昼間とは違う。
穏やかだけれど、どこか静かだった。
サイラスはゆっくり近づいてくる。
そしてセレスの手元の本を見た。
「それ、嫌いなんだよね」
ぽつりと言う。
「じゃあなんで置いてあるの?」
「父上が残してる」
「……どうして?」
セレスには理解できなかった。
こんなもの……母を悪女として描いた本なんて、それこそ燃やしてしまえばいいのに。
するとサイラスは、少しだけ困ったように笑った。
「忘れないため」
「……?」
「王家が、叔母上に何をしたのか」
静かな声。
セレスは息を呑む。
サイラスは椅子を引き、向かいへ座った。
「平民向けの話ってさ、“真実の愛”しか描かれないんだよ」
ランプの灯りが揺れる。
「恋に落ちた二人は素晴らしい。身分差を乗り越えた愛は美しい。悪役令嬢は嫉妬で暴走した」
淡々とした口調。
でもその瞳は冷えていた。
「その方が、分かりやすいから」
セレスは黙って聞く。
「でも実際は違う」
サイラスは本へ視線を落とす。
「恋をしたのは事実。けど、その裏で踏み潰された人間がいた」
ページをめくる。
そこに描かれている“悪女”。
セレスの知る母とは似ても似つかない。
「叔母上は、本当に優しい人だったらしいよ」
「……らしい?」
「俺、小さかったから。ちゃんと覚えてない」
少し寂しそうに笑う。
「でも母上も父上も、兄上も、皆同じこと言う」
優しくて。
賢くて。
誰より真面目だった、と。
「だから俺、この本嫌い」
サイラスの指先が、本の表紙を軽く叩く。
「踏み潰された叔母上なんていなくて、婚約者だった令嬢は極悪非道な悪役だった。だから、追放されても、晒しものにされてもしょうがない、って言いたいみたい。」
セレスは俯く。
自分も同じだった。
胸の奥がどろどろする。
「……皆、これを信じてるの?」
「信じたい人はね」
即答だった。
「“恋愛のために犠牲が出ました”なんて現実より、“悪女を愛が打ち破りました”の方が綺麗だから」
綺麗。
その言葉に、セレスはぞっとする。
誰かの人生を壊しておいて。
それを美談にするのか。
「最低」
また口から漏れる。
サイラスは少し笑った。
「うん。ほんとに」
静寂が落ちる。
雪の音は聞こえない。
でも、外が白いことだけは分かった。
「……ねぇ」
セレスは小さく尋ねる。
「お母さま、どうして何も言い返さなかったのかな」
サイラスは少しだけ目を伏せ、そして静かに言う。
「たぶん言い返しても、誰も信じないって分かってたからじゃない?」
「……っ」
胸が痛む。
「王太子殿下は、恋に夢中だった。王宮も、“真実の愛”を邪魔する悪女が欲しかった。平民は感動話を求めた」
灰青色の瞳が静かに細められる。
「叔母上を悪役に仕立て上げて、追い出すことは、全部にとって都合が良かったんだよ」
悪役として。
断罪される存在として。
その言葉は、あまりにも残酷だった。
「……許せない」
セレスの声は震えていた。
サイラスは何も言わない。
否定もしない。
ただ静かにランプの火を見つめていた。
「セレス」
しばらくして、彼は穏やかに口を開く。
「君は優しいから、叔母上に似てる」
「……似てない」
即座に否定する。
「私、お母さまみたいに優しくない」
だって今、胸の中には怒りしかない。
王家への憎しみばかりが渦巻いている。
すると。
「それでいいんじゃない?」
サイラスはさらりと言った。
セレスが目を瞬く。
「え?」
「優しいだけじゃ、壊れるから」
その言葉は妙に静かだった。
まるで実感がこもっているみたいに。
「叔母上は優しすぎた。だから誰も止められなかった」
サイラスは本を閉じる。
「でも君は違う」
その灰青色の瞳が、まっすぐセレスを見た。
「ちゃんと怒れる」
それは。
褒め言葉なのか、分からなかった。
でも不思議と、少しだけ救われた気がした。
図書室には変わらず静かな空気が流れていた。
ランプの灯りだけが揺れている。
セレスは膝の上へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「……私ね」
ぽつりと声が漏れる。
「王家の話聞くと、すごく嫌な気持ちになるの」
サイラスは急かさず待っていた。
「お母さまは、“憎まないで”って言ったのに」
なのに無理だった。
王妃の話。
王太子の話。
“真実の愛”。
その全部が、セレスの胸をざらざらさせる。
「私、お母さまみたいになれない」
サイラスはしばらく黙っていた。
それから、小さく笑う。
「ならなくていいよ」
「……え?」
「叔母上は叔母上。セレスはセレス」
あっさりした声だった。
「別の人間なんだから、同じになる必要ないでしょ」
セレスは目を瞬く。
「でも……」
「それに」
サイラスは頬杖をつく。
「俺、優しいだけの人ってちょっと危ういと思うんだよね」
「危うい?」
「うん。自分を後回しにしすぎるから」
その言葉に、セレスは母を思い出す。
最後まで、自分より周りを優先した人。
きっと、アルヴェイン家へ助けを求めるのだって、ずっと迷っていた。
「叔母上は強かったけど、自分に厳しすぎた」
サイラスの声は静かだった。
「だから君まで同じにならなくていい」
セレスは黙り込む。
そんなふうに考えたことはなかった。
「……サイラス様って、変」
「急に悪口?」
「なんか、もっと適当に生きてる人かと思ってた」
「ひどくない?」
サイラスが笑う。
でも怒ってはいなかった。
「まあ否定はしないけど」
「しないんだ……」
「でも、ちゃんと見てるよ。色々」
その瞬間、セレスは少しだけ理解する。
この人は、軽薄そうに見えて、実はものすごく周囲を見ている。
相手が困らないように。
傷つかないように。
空気を作っている。
「……考えすぎ?」
「母上にもよく言われる」
全然反省してない顔だった。
セレスは思わず小さく笑ってしまう。
するとサイラスが目を細めた。
「その顔の方がいい」
「?」
「昼間より、今の方が自然」
セレスは少しだけ気まずくなって視線を逸らす。
まだここへ来て一日なのに。
もう何度も“笑え”と言われている気がした。
「……ねぇ」
サイラスがふと思い出したように言う。
「その本、最後まで読まない方がいいよ」
「どうして?」
「もっと気分悪くなるから」
即答だった。
セレスは本を見る。
分厚い物語。
そこに書かれているのは、母ではない。
誰かが勝手に作り上げた“悪女”。
「……でも、知りたい」
サイラスは少し驚いた顔をした。
「皆がどうやってお母さまを見てたのか」
胸が痛む。
でも、知らなきゃいけない気がした。
サイラスはしばらくセレスを見ていたが、やがて小さく肩を竦めた。
「じゃあ止めない」
そして立ち上がる。
「ただ、一人で抱え込まないで」
「……え?」
「もし辛くなったら、読むのを辞めてもいいし、誰かに言ってもいい。」
灰青色の瞳が柔らかく細められる。
「家族なんだから」
その言葉に、セレスは少し息を止めた。
家族。
セレスにとって、エレノア以外を指す言葉としては、まだ慣れない響き。
でも嫌じゃなかった。
「……うん」
小さく頷く。
サイラスは満足そうに笑った。
「よし。じゃあ今日はもう寝ようか」
「サイラス様は?」
「夜更かし仲間を探しに来た」
「何それ」
「ちょっとは、成功したかな」
「成功、なの?」
「うん。っていうか、昼から気になってたんだけど、サイラス様って堅苦しくない?家族なのに。」
「だって、貴族には、」
「昨日からセレスだって貴族だよ。」
「じゃあ、……兄さま?」
「ん、それで。」
サイラスの分かりやすい反応に、セレスは呆れたように笑う。
図書室の外は静かだった。
深夜の屋敷。
冷たい雪の夜。
なのに不思議と、もう怖くはなかった。




