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婚約破棄されたので、王宮のお仕事はお返しします。引き継ぎは完璧ですが、私の人生までお任せするつもりはありません!  作者: ころもぐら


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第21話 あなたと歩きたい道

 土曜日の午前中、セシルは机の上に広げた原稿を、最初から最後まで読み直した。


 嘘つきの鳥は、霧の海を抜けた後も船に残ることを選んだ。ただし、もう一羽だけで道を決めるのではない。海図を描く子どもと星を探し、船長が進路を決める時には、自分が見つけた風の変化を伝える。港に着けば好きな木の実を探しに出かけ、帰りたくなれば船へ戻る。


 船長は鳥に、新しい役目を与えなかった。ただ「戻ってきたら、旅の話を聞かせてくれ」と言った。


 最後の一文を書いた時、セシルはようやく、この物語を終えられた気がした。誰かに必要とされることは嬉しい。しかし、必要とされるためだけに居場所を決めなくてもよい。鳥が船に残ったのは、そこで過ごす時間を好きになったからだった。


 原稿を揃えて紐で結び、セシルは窓を開けた。冷たい空気が部屋へ流れ込み、遠くから市場の呼び声が聞こえてくる。仕事のない朝に自分の好きなことをしているのが、今では不思議ではなくなっていた。


 昼過ぎ、ルシアンから使いの者を通じて小さな手紙が届いた。明日の日曜日、都合がよければ川沿いを一緒に歩きたいという誘いだった。


『前にお話しした、仕事ではない話をしたいと思っています。お返事は急ぎません』


 セシルは文面を読み返し、胸のあたりに手を置いた。


 彼が何を話そうとしているのか、まったく想像できないわけではない。けれど、期待して違う話だったら恥ずかしい。返事を書く前に一度部屋を歩き回り、それから椅子へ戻った。


『明日、ぜひご一緒させてください。私からも、お話ししたいことがあります』


 書き終えると、心が決まった。どんな話になっても、聞かれたことには自分の言葉で答えよう。そう考えるだけで、落ち着かなさの中に楽しみが混じった。


 翌日は薄い雲が広がっていたが、雨の気配はなかった。セシルは以前、初めて二人で食事に行く時に選んだ淡い青色の服に、厚手の上着を合わせた。鏡の前で少し迷い、髪を留める飾りだけを替える。今日は誰かの期待に合わせるためではなく、自分がこの服を気に入っているから着ていくのだ。


 待ち合わせた橋のたもとで、ルシアンは彼女を見るなり微笑んだ。


「そのお召し物、よくお似合いです」


「ありがとうございます。前に一緒に食事へ行った時も、これを着ていたんです」


「覚えています。あの日は、店が混んでいて予定を変えましたね」


「最初は困りましたけれど、今ではよい思い出です」


 二人は川沿いの道をゆっくり歩いた。休日の市場には、冬支度の布や木製の食器が並んでいる。香辛料を売る店の前では、店主が小さな鍋で温かな飲み物を作っていた。


 セシルが香りを気にしていると、ルシアンが足を止めた。


「飲んでみますか」


「はい。でも、少し辛いのかしら」


 店主に尋ねると、香りは強いが辛みはほとんどないという。二人で小さな杯を一つずつ買い、川の見える手すりのそばで飲んだ。


「……思っていたより甘いですね」


「北部で飲んだものとは、また違う味です」


「ヴェルナー様は、旅先でもこういうものを探されるのですね」


「あなたに話すことが増えると思うと、つい気になってしまって」


 ルシアンは何気ない調子で言ったが、その後に少し照れたように視線を逸らした。セシルは杯の縁に口をつけ、返事を考えた。


「私も同じです。面白い本を見つけると、あなたならどう思うか考えてしまいます」


 ルシアンは顔を上げ、しばらく彼女を見つめた。周囲では店じまいを始める商人もいて、二人の会話だけが特別に静かなわけではない。それでもセシルには、次の言葉を聞き逃したくないと思えた。


「セシル嬢。少し、落ち着いて話せるところへ行きませんか」


「はい」


 彼が案内したのは、市場から離れた小さな庭園だった。冬の花を植えた花壇の向こうに、背の低い木々が並んでいる。王宮の庭園ほど広くはないが、誰かが丁寧に手入れしていることが分かる場所だった。


 空いている長椅子に並んで座ると、ルシアンはすぐには話し始めなかった。彼の手袋の縫い目が少しほつれていることに気づき、セシルは意外に思った。仕事では隙のない彼も、休日の身の回りのことまで完璧なわけではないらしい。


「先日、あなたの物語を読んでから、考えていたことがあります」


 やがてルシアンが口を開いた。


「私は仕事の上で、あなたが自分の判断を大切にするようになったことを嬉しく思っています。でも、最近はそれだけではなくなりました」


 セシルは彼の方へ体を向けた。


「あなたが何を食べたいのか、休日にどこへ行きたいのか、どんな本を面白いと思うのか。そういうことを、これからも聞きたいのです。会えない日には会いたくなりますし、手紙が届くと何度も読み返してしまいます」


 ルシアンは一度息をつき、彼女の目を見た。


「セシル。私はあなたをお慕いしています。仕事の仲間としてだけではなく、一人の女性として。もしあなたも同じ気持ちでいてくださるなら、これからは恋人として、隣を歩かせていただけませんか」


 言葉を聞いた瞬間、セシルの目の奥が熱くなった。王宮で婚約を解消された夜、相手の口から自分が必要ではないと告げられた。その記憶が消えたわけではない。けれど今、目の前の人は、役に立つからではなく、一緒に過ごしたいからと自分を選んでくれている。


「……私も、あなたが好きです」


 声が少し震えたので、セシルは息を整えた。


「仕事で助けていただいたことも、もちろん感謝しています。でも、好きになったのは、それだけではありません。料理人のお話を読んで笑っていたことも、私の書いた鳥の気持ちを考えてくださったことも、全部、嬉しかったんです」


 ルシアンは黙って聞いていた。セシルは手袋をした指を膝の上で重ね、続きを言った。


「以前の私は、誰かの隣にいるためには、その人の役に立たなければならないと思っていました。けれど、あなたとなら、何もできない日があっても一緒にいたいと思えます。私でよろしければ、恋人としてお付き合いしてください」


 ルシアンの表情がゆっくり和らいだ。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」


 彼は手を伸ばしかけ、そこで止めた。


「手を、つないでもよろしいですか」


 セシルは笑って、自分から手を差し出した。


「はい。私も、そうしたいです」


 手袋越しに触れた手は温かかった。少し照れくさくて、二人とも庭園の向こうを見たまま黙っていたが、その沈黙を埋めようとは思わなかった。


「仕事の時は、これまでどおりでよろしいでしょうか」


 セシルが尋ねると、ルシアンは頷いた。


「もちろんです。財団と外交局では、それぞれの責任がありますから。公務の判断に私情を持ち込まないことは、お互いに大切にしましょう」


「はい。それから、私、父にはあなたのことを手紙に書きました。まだお返事は届いていませんけれど」


「そうでしたか。いつか、きちんとご挨拶できればと思います」


 セシルは彼の横顔を見た。先のことを考えると、不安がないわけではない。それでも、今すぐすべての予定を決める必要はないのだろう。


「では、二人の時には、ルシアンとお呼びしても?」


「ぜひ。私も、セシルと呼んでもよいですか」


「はい」


 名前を呼び合うだけで、思わず笑ってしまった。庭園を出る頃には空が夕焼けに変わり、手をつないだ二人の影が石畳に並んで伸びていた。


 別れ道で、ルシアンが明日の予定を尋ねた。セシルは財団へ出勤すると答え、彼も外交局で仕事だと笑った。何も変わらない月曜日が来るのに、帰り道がこれまでと少し違って見える。


 部屋へ戻ったセシルは、机の上の完成原稿を開いた。最後の行を読み返してから、その下に小さく日付を書き入れる。


 鳥が自分で船に残ることを決めた日と、セシルが自分の気持ちを伝えた日は、偶然にも同じ週末になった。


 彼女は原稿を閉じ、明日からも続いていく日々を思い浮かべながら、温かな茶を淹れた。

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