第20話 物語を読んだ人の言葉
ルシアンに書きかけの物語を渡してから、セシルは自分が思っていた以上に落ち着かない日々を過ごしていた。
財団での仕事に支障が出るほどではない。北部の施設から届く冬物資の受領報告を確認し、次の輸送予定を整理する間は、目の前の数字や担当者の言葉に集中できた。ただ、昼休みに窓の外を眺めたり、帰宅して机に向かったりすると、彼があの紙束を読んでどう思ったのかが気になった。
王宮で作成した報告書なら、読み手が何を確認するのか想像できた。必要な事実が揃っているか、結論までの道筋が明確か、次の担当者が困らないか。ところが物語には、そうした決まった答えがない。読んだ人が笑うかもしれないし、途中で退屈するかもしれない。何より、書いた本人がまだ結末を決められずにいた。
木曜日の夕方、財団を出たところで、ルシアンから短い伝言が届いた。翌日の仕事が終わった後、少し時間をもらえないかという内容だった。
セシルは返事を書くために立ち止まり、危うく「ご用件をお知らせください」と書きそうになった。仕事の面談ではないのだから、そんな確認は必要ない。
『はい。明日の帰りに、中央通りの菓子店の前でお待ちしています』
返事を届けてもらうと、今度は明日が来るのを待つばかりになった。
その夜、父への返書を仕上げた。書きかけの一文は、まだ便箋の最初に残っている。
『こちらで、大切にしたいと思う人ができました』
セシルはその後に、ルシアンが外交局で働いていること、財団の仕事を通じて知り合ったこと、休日には本を読んだり街を歩いたりしていることを記した。相手の地位や家柄を並べるのはやめた。そもそも彼の家族について、まだ詳しく聞いたこともない。
『今はまだ、互いの気持ちを確かめ合ったわけではありません。ですが、私が何を望んでいるのかを聞いてくださる方です。お父様にも、いつかお会いいただけたら嬉しく思います』
そこまで書いてから、セシルは便箋を読み返した。自分の気持ちについて、ずいぶん正直に書いてしまった気がする。父が心配するかもしれないし、慌てて返事を寄越すかもしれない。
それでも、嘘を書いたわけではなかった。セシルは翌朝、その手紙を投函した。
金曜日の夕方、待ち合わせの菓子店へ行くと、ルシアンは店の窓に並んだ焼き菓子を眺めていた。彼の手には、見覚えのある薄い紙束がある。
「お待たせしました」
「私も今来たところです。お仕事は順調でしたか」
「はい。今日は北部からの受領書が揃いました。ヴェルナー様は、出張後の整理がまだお忙しいのではありませんか」
「ようやく一段落しました。だから今日は、仕事の話より先に、こちらのお話をしたいと思って」
彼が紙束を少し持ち上げると、セシルの心臓が早く打った。通りには買い物帰りの人が行き交っている。立ち話で聞くには、少し勇気のいる話題だった。
二人は菓子店で温かな飲み物を買い、近くの小さな広場の長椅子に座った。日が傾くと冷えるため、店員が紙の包みに入れてくれた焼き栗も一緒に持ってきた。
「読ませていただきました。まず、渡してくださってありがとうございます」
ルシアンは紙束を膝に置いた。
「霧の中で鳥が『分からない』と言うところが、私は好きでした。あの鳥は、それまでずっと自分が案内しなければならないと思っていたのでしょう」
「……はい。きっと、そうです」
「それで、海図を描いていた子どもが初めて口を開く。船の中には、鳥以外にも道を考えられる人がいたのですね」
セシルは焼き栗の包みを持ったまま、彼の顔を見た。自分が書こうとしたことを、説明しなくても受け取ってくれている。
「気になるところもありましたか」
「あります。お聞きになりたいですか」
「ぜひ。遠慮なくおっしゃってください」
ルシアンは最後のページを開いた。紙の端に折り目はあるが、赤い印や書き込みはない。
「子どもが星の見える場所を見つけた後、船長が『では、鳥はもう案内をしなくてよい』と言いますね。ここで鳥が黙ってしまうのが、少し寂しかったのです」
「鳥は、自分が役に立たなくなったと思っているのかもしれません」
「そうかもしれません。でも、船長は鳥を追い出したわけではないのでしょう。役目が変わっても、船にいてよいと伝えられたらと思いました」
セシルは返事をせず、ページを覗き込んだ。自分では、鳥がようやく重荷から解放される場面のつもりで書いた。しかし読んだ人には、居場所を失う場面にも見えるのだ。
「私、鳥のことを自分に重ねすぎたのかもしれません」
「それは悪いことではないと思います。ただ、鳥がこれから何をしたいのか、私は知りたくなりました」
「何を、したいのか……」
仕事を失った後の鳥が、どこへ飛んでいくのか。船を降りるのか、乗り続けるのか。そこを決められず、セシルは原稿を止めていた。
「ヴェルナー様なら、どうなさいますか」
「私なら、船に残ってほしいですね。あの料理人の本に出てくる宿のように、失敗しても帰れる場所があってほしいので」
ルシアンはそう答えてから、少し笑った。
「ですが、これは私の好みです。結末は、書いたあなたが決めることですから」
その言葉に、セシルは肩の力が抜けた。感想を聞く前は、気に入ってもらえなかったら直さなければならないと思っていた。けれど彼は、別の読み方を示してくれただけだった。
「私、続きを書いてみます。鳥が自分で選ぶところまで」
「楽しみにしています。急がなくて構いませんよ」
広場の時計が夕方の時刻を告げた。二人は包みの中に残った栗を分け合いながら、物語とは関係のない話もした。北部の町では市場が朝早く閉まること、セシルが古書店で見つけた料理の本に、聞いたことのない香辛料が載っていたこと。何でもない会話が続くのが心地よかった。
帰り際、ルシアンは原稿を返そうとしたが、セシルは首を横に振った。
「もう少し、お預けしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。ただ、続きを書く時に必要ではありませんか」
「控えがあります。それに、あなたが読んでくださった紙を、今すぐ取り戻すのが惜しくて」
言ってから、ずいぶん奇妙な理由だと気づいた。ルシアンも少し驚いたようだったが、紙束を丁寧に鞄へ戻してくれた。
「では、大切に預かります」
別れ道に着いた時、セシルは一度だけ足を止めた。
「ヴェルナー様。今日、感想を聞けて嬉しかったです。物語のことだけではなくて、私の考えを、ちゃんと聞いてくださったので」
「私も、あなたが書いたものを読めて嬉しかった。仕事の書類では分からなかった気持ちに、少し触れられた気がします」
彼は言葉を選ぶように間を置いた。
「次にお会いする時は、私からも一つ、お話ししたいことがあります。仕事の相談ではありません」
セシルは頷いた。何の話なのか尋ねたい気持ちはあったが、今は彼が自分で話す時を待とうと思った。
帰宅後、机に向かって原稿の続きを開いた。霧が晴れた船の甲板で、鳥は船長に尋ねる。自分がもう道案内をしなくても、ここにいてよいのか、と。
セシルはそこまで書いて、筆を止めた。
その問いに対する答えは、誰かが与えるだけでは足りない。鳥自身が、残りたいのか、旅立ちたいのかを選ばなければならない。
窓の外では、通りを帰る人の足音が続いている。セシルは紙をもう一枚取り出し、鳥が初めて自分の行き先を考える場面を書き始めた。




