第19話 返事を待つあいだ
ルシアンが北部へ出発した月曜日、セシルは朝の出勤前に郵便局へ寄った。
窓口へ差し出した封筒には、彼から教わった滞在先の住所が書いてある。手紙は二枚になった。古書店の子どもたちが料理人の笑い声を真似していたこと、川沿いの市場で買った緑色のカップを毎朝使っていること、帰ってきたら一緒に歩きたい場所があること。
書き終えてから読み返すと、どれも取り立てて重要な話ではなかった。仕事の報告なら、もっと簡潔にまとめるよう注意されそうだ。
それでも封を閉じる前に、一行だけ書き足した。
『旅先で何かおいしいものを召し上がったら、教えてください』
ルシアンなら、きっと本当に教えてくれる。そう思うと、手紙が届くのが楽しみになった。
財団では、北部の支援施設へ送る物資の確認が続いていた。セシルは輸送担当からの報告を整理し、倉庫の在庫表と照らし合わせた。ルシアンが同行する会議は別の行政手続きに関するもので、彼が出張しているからといって財団の仕事が止まるわけではない。
午前の会議が終わると、隣の席の職員が声をかけてきた。
「今日は外交局の方、いらっしゃらないのですね」
「ええ。北部へ出張されているそうです」
「そうでしたか。いつも会議の後に一緒に帰っていらっしゃるので、少し不思議でした」
セシルは思わず手元の書類へ目を落とした。
「……毎回ではありませんよ」
「もちろん、そうでしょうけれど」
職員はそれ以上からかわず、次の資料を机に置いた。セシルは書類を受け取りながら、他人からは二人がそのように見えていたのかと考えた。
王宮では、アレクシスの婚約者としてどこにいても人目を意識していた。誰と話すか、どのくらい親しく振る舞うか、それが王家への評価につながることもあった。
今は違う。だからといって、誰の目も気にしなくてよいわけではないだろう。ルシアンには外交局での立場があり、自分にも財団での仕事がある。
ただ、彼と歩く時間を誰かに知られたからといって、後ろめたく思いたくはなかった。
その日の帰り道、セシルは古書店へ立ち寄った。店主は棚の奥で、傷んだ本の背を丁寧に補修していた。
「この間の読み聞かせ、子どもたちがずいぶん喜んでいたよ。料理人の本を借りたいと言う子もいた」
「よかったです。あの本は、ヴェルナー様が子どもの頃からお好きだったそうです」
「お二人とも、読むのが楽しそうだったからね。ああいうのは聞いている子にも伝わるものだよ」
セシルは棚の前に立ち、懐かしい船の物語を手に取った。書きかけの続きは、借家の机にしまってある。子どもの頃の落書きのようなものだと思っていたが、少しずつ書き足すうちに、登場人物たちがまた動き始めた。
「実は、私も短いお話を書いているんです」
「そうなのかい。いつか読ませてもらえたら嬉しいね」
「まだ、最後まで書けていないのですけれど」
「書き終えたらでいいよ。お客さんに見せるために書いているのでなければ、急ぐこともないだろう」
店主の言葉に、セシルはほっとした。読み聞かせの時と同じで、好きなことを好きなまま続けてよいのだ。
その夜、机に向かうと、物語の続きを書いた。嘘つきの鳥は、いつも船長に方角を教えようとする。しかし今回、船が霧に包まれたところで、鳥は初めて「自分には分からない」と言う。すると、これまで黙って海図を描いていた子どもが、星の見える場所を探そうと提案する。
書き進めてから、セシルは自分の経験をそのまま物語にしているようで恥ずかしくなった。けれど、鳥が誰かを頼ることを覚えるのは、悪い結末ではない。
彼女は紙を捨てず、もう一枚を重ねた。
木曜日には、父から返事が届いた。
王宮への復職を断った件は理解したこと、伯爵家としての手続きはすべて済んでいること、体を冷やさないよう気をつけること。いつもの実務的な文面の最後に、少しだけ違うことが書かれていた。
『読み聞かせの話を楽しそうに書いていたな。同行したヴェルナー殿にも、機会があれば礼を伝えておいてほしい。お前が遠い国で一人きりではないと分かり、安心した』
セシルは何度もその部分を読み返した。
父には、ルシアンのことをまだ詳しく話していない。仕事で助けてもらった相手で、休日にも会うようになった人。それだけでは、父が知りたいことの半分も伝わっていない気がした。
しかし、自分の気持ちをどのような言葉で説明すればよいのか、セシル自身にもまだ分からない。
その晩は返事を書かず、父の手紙を本の間へ挟んだ。
ルシアンからの便りが届いたのは、次の週の初めだった。
封筒には北部の町の消印があり、中には折り畳まれた便箋が二枚入っていた。道中は寒かったが、予定どおり到着したこと、宿の食堂で根菜と豆の煮込みを食べたことが、几帳面な字で綴られている。
『宿の主人に味つけを尋ねたところ、秘密はないと言いながら、肝心なところで笑って教えてくれませんでした。料理人の本に出てくる人のようです』
セシルは声を立てて笑った。
続く文章には、窓の外で雪が降っていることや、仕事が終わると町の灯りが早く消えることが書かれていた。職務の内容には触れられていない。それでも、彼が見ている景色が目に浮かぶようだった。
最後の段落には、こんな一文があった。
『帰ったら、あなたが書いている物語のことも聞かせてください。以前、続きを書いていたとおっしゃっていましたね。覚えています』
セシルは便箋を膝に置いた。
古書店で、子どもの頃に物語を書いていたと話したことは覚えている。しかし、今も続きを書いているとは、まだ伝えていなかった。ルシアンは、昔の話をもう一度聞きたいと思ってくれているのだろう。
セシルは引き出しから書きかけの紙を取り出した。文章を読み直すと、気になる箇所はいくつもある。言い回しが重なっているところもあれば、鳥が突然賢くなりすぎている場面もあった。
誰かに見せるなら、直した方がよいのかもしれない。
けれど、彼に見せるためだけに別の物語へ変えてしまうのは、何だか違う気がした。セシルは気になる箇所を少しだけ書き直し、最後の一枚に『まだ続きます』と記した。
ルシアンが王都へ戻ったのは、出発から十日目の夕方だった。帰着後の報告があるため、その日は会えないと事前に知らせが届いていた。
翌日の仕事が終わる頃、セシルは川へ向かう道を歩いた。約束した橋のたもとには、ルシアンが先に来ていた。北部へ行く前より少し日に焼けたように見え、上着の襟には旅の間についた小さな皺が残っている。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。お手紙、ありがとうございました」
「こちらこそ。お返事を読んで、宿のお料理が気になってしまいました」
「それなら、いつか一緒に食べに行きましょう。少し遠いですけれど」
二人は笑いながら橋を渡った。川岸の市場は開かれていないが、石畳の隙間には落ち葉が残り、船着き場からは荷を下ろす人々の声が聞こえてくる。
セシルは鞄から薄い紙束を取り出した。
「これ、まだ完成していないのですが……私が書いたお話です。よろしければ、読んでいただけますか」
ルシアンは差し出された紙を、すぐには受け取らなかった。
「大切なものではありませんか」
「はい。だから、あなたに読んでほしいんです」
言い終えるまで、セシルは彼の顔を見ていた。王宮で使っていた資料とは違い、誰かの役に立つ保証のない紙だ。笑われたら恥ずかしいし、つまらないと思われるかもしれない。それでも渡したかった。
ルシアンは両手で紙束を受け取った。
「ありがとうございます。丁寧に読ませていただきます」
その後、二人は川の見える小さな茶店へ入った。温かな飲み物を注文し、北部の町の話や古書店の近況を聞き合う。セシルは仕事の細かな進捗を話そうとしてやめ、代わりに父から届いた手紙のことを伝えた。
「父が、ヴェルナー様にもお礼を申し上げたいと書いておりました。私がこちらで一人ではないと分かって、安心したようです」
「それは光栄です。ただ、お父上には、あなたがご自分の力で暮らしを築いていらっしゃることもお伝えしたいですね」
「はい。次のお返事には、そのことも書きます」
茶店を出ると、日が落ちかけていた。別れ道に着いても、セシルはすぐに足を向けられなかった。
「ヴェルナー様。出張の間、私、あなたにお会いしたかったです」
ルシアンは少し驚いた顔をした後、紙束を抱え直した。
「私も、あなたに会いたかった。手紙を読むたび、帰ってから何を話そうか考えていました」
セシルは頷いた。今夜はそれ以上、気持ちに名前をつけなくてもよいと思った。ただ、彼が帰ってきてくれたことと、次に会う約束ができることが嬉しかった。
「では、今度は私からお店を探しておきますね。旅のお疲れが取れた頃に」
「楽しみにしています。それから、物語を読んだ感想も必ずお伝えします」
ルシアンは紙束を鞄の内側へ大切にしまった。セシルはその仕草を見届けてから、彼に手を振って帰路についた。
家に着くと、机の上に次の便箋を置いた。父へ返事を書くためだったが、最初の一行を決めるのに、今日はあまり迷わなかった。
『こちらで、大切にしたいと思う人ができました』




