第18話 王宮の仕事が動いた日
古書店での読み聞かせから五日後、セシルは財団の事務室で、ローデン王国の公報に目を留めた。
机に積まれていたのは、国境を越える物資の取引に関わる情報をまとめた定期資料だった。税率の改定や輸送規則の変更など、財団の仕事にも関係する部分があるため、担当部署が毎週確認している。
その一枚に、王太子の裁可を経た冬期救貧事業の追加予算についての告示が載っていた。
セシルは書類を手に取ったまま、しばらく動けなかった。
予算の一部を寒さの厳しい地域へ先行して配分し、残額は次の報告を受けてから追加配分する。各地域の申請内容を同じ様式で比較し、救貧局が現場の緊急性を、会計局が支出の見通しをそれぞれ報告する。最終裁可は、王太子アレクシス・ローデンが行ったと記されている。
公報だけでは、王宮内でどのような議論があったかまでは分からない。すべての地域が満足する結果になったとも限らなかった。それでも、止まっていた決定が動き出したことは確かだった。
「アーデンさん、どうかしましたか」
隣の席の職員が尋ねた。セシルは公報を机へ置き、仕事に関係する箇所を指した。
「ローデン側の冬期支援予算が、正式に裁可されたようです。こちらの輸送契約とは別の事業ですが、向こうの支援施設が発注を増やす可能性がありますね」
「そうですね。供給組合から問い合わせが来るかもしれません。輸送担当へ知らせておきます」
職員は必要な箇所を写し取り、いつもどおり仕事へ戻った。セシルも資料を所定の棚へ収める。
王宮で働いていた頃なら、裁可が下りた後にもすることが山ほどあった。通知の発送、現場からの問い合わせへの対応、予定の変更。今日の自分には、そのどれも割り当てられていない。
それが寂しいのかと自分に問いかけると、答えは少し違っていた。
安心したのだ。冬の支援を待つ人々のために、必要な決定が進んだことに。そして、自分が戻らなくても王宮の職員たちが仕事を続けていることに。
午前の打ち合わせでは、エルフェルト北部の施設から届いた在庫報告を確認した。各施設の担当者が状況を更新し、輸送部署が予定を調整している。セシルは不足している情報を確かめ、会議の終わりに次の確認日を決めた。
かつての職場を思い出しても、目の前の仕事がおろそかになることはなかった。昼休みに食堂へ行く頃には、公報を見た時の緊張もほぐれていた。
「今日は午後の会議が早く終わりそうですね」
隣の職員が食事の盆を置きながら言った。
「そうですね。必要な回答が揃っていれば、予定より早く進められると思います」
「アーデンさん、最初の頃は回答が揃うまでご自分で走り回っていましたよね」
「……覚えていらしたのですか」
「もちろん。こちらも随分助けていただきましたけど、見ていて心配でした」
セシルは思わず笑った。職員も笑い、二人は午後の仕事とは関係のない、食堂の新しい献立の話をした。
夕方、建物を出たところでルシアンに会った。いつもなら彼の方から気づいて声をかけてくれるのだが、今日はセシルが先に姿を見つけた。
「ヴェルナー様。少し歩きませんか」
「喜んで。ちょうど私も、あなたにお話ししたいことがありました」
二人は街路樹の並ぶ通りを、川の方へ歩いた。木々の葉はほとんど落ち、枝の向こうに夕空が広く見える。冷たい風が吹くと、ルシアンは歩道の風上側へさりげなく移った。
「今日、ローデン王国の公報を見ました。冬期追加予算の裁可が下りたそうです」
「そうでしたか」
「ええ。内容を読んだ時、ほっとしました。私が断ったことで何かが止まったままになるのではと、どこかで心配していたのでしょうね」
ルシアンは彼女の歩調に合わせたまま、静かに答えた。
「現場へ必要な支援が届くまでには、まだ仕事が残っているでしょう。それでも、決定を担う人が決めたのは大切なことですね」
「はい。公報に書かれていない苦労もあったと思います。以前の同僚たちが、きちんと進めてくれたのだと思うと嬉しいです」
言葉にしてみると、過去の仕事に対する気持ちが以前よりはっきりした。七年間を過ごした場所が、これからも無事に機能してほしい。だからといって、自分がそこへ戻る必要はない。
「ところで、ヴェルナー様のお話とは何でしょう」
「来週の月曜日から、十日ほど王都を離れることになりました」
セシルは足を止めかけた。
「ご出張ですか」
「ええ。エルフェルト北部の国境管理所で、冬の輸送に関する調整会議が開かれます。私は外交局の担当として同行します」
「北部は、もうかなり寒いのでしょうね」
「朝晩は雪が降ることもあるそうです。移動には余裕を見ていますから、ご心配なく」
ルシアンはそこで、少し申し訳なさそうな顔をした。
「来月の読み聞かせの予定を、店主に聞きに行こうと思っていたのですが、帰ってからにした方がよさそうです」
「まだ日程も決まっていませんし、気になさらないでください。お仕事ですもの」
そう答えながら、セシルは自分の声が思ったより平坦になったことに気づいた。
十日間。仕事をして、休日を一度過ごせば、きっとすぐに過ぎる。それでも、彼がいない間は帰り道で偶然会うことも、仕事帰りに店を覗くこともできないのだと思うと、街の景色がわずかに違って見えた。
「……寂しくなりますね」
口にしてから、セシルは驚いた。以前の自分なら、相手の出張を前にそんなことは言わなかっただろう。仕事を優先すべきだと分かっているのだから、寂しい気持ちも隠すのが礼儀だと思っていた。
ルシアンは足を止め、セシルを見た。
「私もです」
その返事があまりに自然だったので、セシルは何も言えなくなった。
「毎日お会いしているわけではありませんが、帰り道にあなたを見かけると嬉しいのです。十日ほど、それがなくなるのは残念ですね」
「……私も、同じです」
彼が照れ隠しに笑うと、セシルもようやく笑えた。
橋の手前まで来たところで、ルシアンが鞄から小さな紙片を取り出した。
「滞在先へ手紙を送るなら、この宛先です。もっとも、仕事の詳しい話は書けませんから、旅先で見つけた料理の話くらいしかできないと思いますが」
「それで十分です。私も、古書店で見つけた本のことならお伝えできます」
紙片を受け取りながら、セシルは一度考えた。
「私から先に、お便りを出してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。返事が遅くなることはあるかもしれませんが、必ず読みます」
その言葉を聞いて、セシルは紙片を大切に手帳へ挟んだ。
川の上を、荷を積んだ小舟が一艘通っていった。先日二人で訪れた市場はもう終わっているが、渡し場には今も仕事帰りの人が集まっている。ルシアンが好きだと教えてくれたこの景色を、今日はセシルの方から眺めに来たかった。彼が出張から戻ったら、川岸の店で温かなものを食べるのもよさそうだ。
「帰っていらしたら、またこの辺りを歩きませんか。冬の川も見てみたいんです」
「ぜひ。寒さに負けないよう、温かい店も探しておきましょう」
「今度は、私も探します。どちらのお店にするかは、その時に決めましょう」
以前のセシルなら、約束を交わしたその場で候補を調べ始めただろう。今日は、帰ってきた彼と相談する時間そのものを楽しみにできた。
帰宅後、緑色のカップに茶を注ぎ、机に向かう。手紙は出発してから書くつもりだったのに、便箋を一枚取り出してしまった。
最初に書こうとしたのは、道中の安全を祈る決まり文句だった。それも嘘ではないが、何かが足りない。しばらく考えた末、セシルは別の書き出しを選んだ。
『先日の読み聞かせで、子どもたちがあなたの笑い声を真似していました』
書き終えると、彼女は一人で笑った。公務の報告書では、絶対に書かなかった一文だ。
便箋を封筒に入れるのは、もう少し後にしよう。続きには、彼が帰ってきた時に一緒に行きたい場所のことも書きたかった。




