第17話 嘘つきの鳥と焦げた鍋
土曜日の朝、セシルはいつもより念入りに髪を結った。
王宮の式典へ出るわけではない。行き先は、中央通りから二本入った路地の古書店だ。子どもたちに物語を読むだけなら、髪が顔にかからず、椅子に座りやすい服装で十分なはずだった。それなのに鏡の前で結び目を直しているのは、ルシアンが一緒に来るからだと認めざるを得ない。
昨日まで、王宮からの復職要請を断ったことが頭を離れなかった。使者の前では迷わず答えられたのに、帰宅して一人になると、冬の支援を待つ人々の顔を想像してしまう。直接会ったことのない人々を思い浮かべるのは、長年の仕事の癖でもあった。
今朝は、読み聞かせに使う本を鞄へ入れたところで、その考えを脇へ置いた。王宮の追加予算を決めるのは、もう自分ではない。今日の約束まで、過去の職務に明け渡す必要はなかった。
店の前へ着くと、ルシアンが扉の横で一冊の本を抱えていた。仕事で使う革鞄ではなく、布の袋を肩に掛けている。
「おはようございます。お待たせしましたか」
「いいえ。店主に声をかけたら、まだ準備中なので外で待っていてほしいと言われまして」
ルシアンは袋から『旅する料理人と焦げた鍋』を取り出した。表紙の料理人は、何度見ても困り顔で、鍋の底から黒い煙を立てている。
「昨夜、声に出して読んでみたのですが、思いのほか難しいものですね。料理人が鍋を落とす場面で、どうしても笑ってしまいます」
「笑ってしまうなら、そのまま読んでよろしいのではありませんか。子どもたちも、きっと喜びます」
「あなたの鳥の声ほど上手にできる自信はありません」
「その鳥も、上手に話そうとしているわけではありませんもの」
セシルが答えると、ルシアンは納得したように本を閉じた。店の中から椅子を引きずる音が聞こえ、ほどなく店主が扉を開けてくれた。
奥の読書スペースには、背の低い腰掛けが六つと、少し大きな椅子が二つ並んでいた。窓辺には布を敷いた机があり、貸し出す本と、読んだ本を戻すための籠が置かれている。前に来た時よりも通路が広く、子どもが棚にぶつからずに歩けるよう工夫されていた。
「今日は二人も手伝ってくれるなんて、ありがたいよ。いつもの兄妹のほかにも、何人か来ることになっているんだ」
「読み終えた本を戻す場所は、こちらでよろしいですか」
セシルが籠を確かめると、店主は頷いた。
「ただし、何もかも引き受けなくていいからね。子どもが帰った後の片づけは、店の仕事だよ」
その言葉が妙に可笑しくて、セシルは笑った。どこへ行っても先回りして働きたくなる自分を、初対面に近い店主まで見抜いているらしい。
やがて子どもたちが集まり始めた。前に会った兄妹はセシルを見るなり駆け寄り、妹が開口一番に尋ねた。
「鳥のお姉さん、今日も鳥をやる?」
「その呼び方は、もう決まってしまったのね」
「お兄ちゃんが、鳥のお姉さんなら分かるって」
兄は照れたように妹の袖を引いたが、セシルの手元にある『逆さまの星を探す船』を見つけると、ぱっと顔を明るくした。
「今日は続き? 船長はちゃんと島に着けるの?」
「そこは読んでからのお楽しみよ。でも、今日は別のお話を持ってきてくださった方もいるの」
セシルがルシアンを紹介すると、彼は腰をかがめ、子どもたちと目の高さを合わせた。
「ルシアンといいます。私は鳥の声があまり得意ではないので、代わりに料理人の話を持ってきました」
「料理人って、何を作るの?」
「最初は焦げたものばかりです」
子どもたちが笑った。ルシアンは本の表紙を見せ、椅子に座った。
前半はセシルが船の物語を読んだ。嘘つきの鳥が南と北を取り違えるたび、子どもたちから「また間違えた」と声が上がる。前に来た兄妹は先の展開を知っているのに、初めて聞く子に教えようとはせず、口元を押さえて楽しんでいた。
ところが、鳥が船長に地図を見せる場面で、一番後ろに座っていた少年が手を上げた。
「鳥は、間違えたって分かったら、どうしてごめんなさいって言わないの?」
セシルはページから顔を上げた。物語の鳥は、言い訳を重ねるほど方角が分からなくなっていく。子どもの頃はただ面白かった場面が、今は別の意味を持って見えた。
「きっと、間違えたと言うのが恥ずかしかったのね。でも、言わないままだと船のみんなが困ってしまうでしょう」
「じゃあ、船長が怒る?」
「怒るかもしれないわ。けれど、ちゃんと教えてもらえれば、みんなで次の道を考えられると思うの」
少年はしばらく考え、それから納得したように頷いた。セシルは続きを読み、最後に鳥が自分の間違いを認めるところまで進めた。
休憩を挟んで、今度はルシアンの番になった。
料理人は旅先の宿で、親切にしてくれた人々へ夕食を作ろうとする。しかし張り切りすぎて鍋を火にかけたまま忘れ、底を真っ黒にしてしまう。ルシアンは料理人の慌てた台詞を真剣な声で読んだが、鍋を覗き込んで「これは新しい料理だ」と言い張る場面で、つい笑いが漏れた。
「今、笑った!」
「はい。すみません。ここは何度読んでも笑ってしまうのです」
「もう一回読んで!」
せがまれて同じ場面を読み直すと、ルシアンはさらに笑ってしまった。子どもたちは彼の失敗を面白がり、セシルまで声を立てて笑った。
物語の終わりで、料理人は焦げた鍋を洗い、残っていた野菜で温かなスープを作る。豪華な料理ではないが、宿の人々は喜んで食べてくれる。
「鍋を焦がしたら、もう料理人じゃないの?」
先ほどの少年が尋ねた。
「いいえ。失敗した日にも、料理人は料理人でしょう」
ルシアンは本を閉じ、少し考えてから続けた。
「ただ、焦がした鍋を隠したら、次に使う人が困ります。だから洗って、何が起きたか話して、もう一度作るのだと思います」
「じゃあ、この人はちゃんとした料理人なんだね」
「私はそう思います」
少年は満足そうに椅子から降り、友達と一緒に本の棚へ走っていった。
読み聞かせが終わると、店主が温かな果実茶を用意してくれた。子どもたちが保護者と帰っていく間、セシルは借りた本を籠に戻し、ルシアンは椅子を二脚だけ元の位置へ寄せた。
「来月も読み聞かせを開くつもりなんだ。よかったら、また来ておくれ」
店主に頼まれ、セシルはすぐ「もちろんです」と言いかけた。しかし来月の勤務予定はまだ決まっていないし、休みの日にやりたいこともある。
「日程が決まったら教えていただけますか。都合が合えば、ぜひ参加したいです」
「それで十分だよ。楽しいから来てくれるのが一番さ」
店主は笑い、残りの椅子を片づけ始めた。セシルは手伝いかけたが、今日はそのまま礼を言って店を出た。
外には冬の手前の澄んだ日差しが落ちていた。ルシアンと並んで歩きながら、セシルは子どもたちの質問を思い返した。
「鳥も料理人も、間違えてばかりでしたね」
「ええ。子どもの頃は笑うだけでしたが、今読むと、ずいぶん耳が痛い話です」
「私もです。でも、好きな物語が変わってしまったわけではありません」
ルシアンは頷き、ふと歩みを緩めた。
「今日は、あなたの知らない一面をまた見られました。子どもたちの質問を聞く時、仕事の会議とはまるで違う顔をなさるのですね」
「そんなに違いますか」
「ええ。何を答えればよいか迷っている時でも、楽しそうでした」
セシルは頬が熱くなるのを感じた。彼の方を見られず、鞄の留め金を確かめるふりをした。
「私も、ヴェルナー様が笑いをこらえられないところを初めて見ました」
「これからは、もう少し格好のよいところをお見せしたいのですが」
「私は、今日の方が好きです」
言ってから、セシルは足を止めた。
彼の仕事ぶりより、今日の彼が好きだ。そういう意味で口にしたのは間違いない。けれど、言葉だけを聞けば別の意味にも取れる。
ルシアンも立ち止まったが、茶化すことはしなかった。
「……ありがとうございます。私も、今日のあなたと一緒にいられてよかった」
二人はしばらく目を合わせ、どちらからともなく歩き始めた。次の角で別れるまで、仕事の話は一度も出なかった。




