第16話 お戻りいただけませんか
ローデン王国公館の応接室には、見覚えのある香りが漂っていた。
磨かれた木の机、壁に掛けられた王家の紋章、薄い花模様の入った茶器。王宮の執務室で使われていたものと似た調度を見て、セシルは思いがけず背筋を伸ばした。
ここはエルフェルト王都にある公館で、かつての職場ではない。それでも、七年間身につけた習慣は簡単には消えないらしい。
案内役が扉を閉めると、向かいに座った王宮の事務官が丁寧に頭を下げた。彼は今回の依頼を説明するため、王太子の名代として派遣されたという。
「アーデン嬢。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。お話は伺います。ただし、先にお伝えしたとおり、私は現在エルフェルト公益財団の職員です。本日の面会をもって、王宮の仕事を引き受けたことにはなりません」
「承知しております」
事務官は少し緊張した様子で、持参した書類を広げた。
救貧事業の冬期追加予算について、複数の地域から支援の増額を求める申請が届いている。ところが、限られた予算をどの地域へ優先配分するか、救貧局と会計局の意見が一致していないという。
救貧局は現場の緊急性を重視し、会計局は次期の支出に備えた留保を求めている。どちらの主張にも理由があり、事務官たちは判断を王太子の執務室へ上げたものの、結論が出ないまま日数が過ぎていた。
「以前は、こうした場合にアーデン嬢が双方の意見を整理し、殿下へ判断材料をお渡しくださっていました」
「はい。そのような仕事は担当しておりました」
「ところが現在、担当部署から上がる資料の形式が揃わず、殿下も判断しづらいとおっしゃっています。どうか一度、お戻りいただけませんか」
事務官はそこで、用意してきた提案を説明した。
二か月の臨時助言役として王宮へ復帰すること。滞在中の住居と報酬は王家が用意すること。現在の財団での職務については、休職を相談してほしいという。
条件を聞き終えたセシルは、すぐには返事をしなかった。
丁寧な依頼だった。以前のように、婚約者だから当然だと押しつけられているわけでもない。王宮側も、彼女が自由に断れる立場にあることは理解しているようだった。
だからこそ、何が問題なのかを正確に伝えたいと思った。
「ひとつ、確認させてください。冬期追加予算の配分について、最終的な裁可を行うのはどなたでしょうか」
「王太子殿下です。国王陛下から、その範囲の裁量を委ねられております」
「では、私が戻ったとしても、決定するのは殿下なのですね」
「はい。ただ、殿下のご判断を助けるために、アーデン嬢のお力が必要なのです」
セシルは頷き、次の問いを口にした。
「各部署からの報告は、今も届いているのでしょうか」
「もちろんです。担当者たちはよく働いております。ただ、互いの主張が食い違っておりまして」
「でしたら、記録がなくなったわけでも、担当者が不在になったわけでもありませんね」
「……はい」
事務官の声が少し小さくなった。
セシルは責めるつもりで尋ねているのではなかった。実際、冬の支援を待つ人々のことを考えれば、予算の決定は急ぐべきだろう。
しかし、そのために必要なのは、過去の担当者を呼び戻すことなのだろうか。
「私は王宮を離れる際、三十二冊の記録を整理し、各部署の責任者へ引き継ぎました。救貧事業の契約手順についても、会計局と救貧局の役割を明確にしております」
「そのことは、こちらでも確認しています。資料に不備があると申し上げているわけではありません」
「ありがとうございます。では、今回の問題は、引き継ぎが不足していたためではなく、新たな予算配分の方針を決める必要があるということですね」
事務官はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「そのとおりです」
セシルは膝の上で手を重ねた。ここまで話して、ようやく自分が言うべきことが明確になった。
「でしたら、私は戻りません」
声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「殿下のご判断を支える方は、今の王宮にもいらっしゃいます。必要なのは、その方々の意見を聞き、決めるべき方が責任を持って決めることだと思います」
「しかし、アーデン嬢ほど事情に通じた方は、なかなか……」
「私がいた頃も、各部署の職員の方々が資料を作り、現場の事情を教えてくださいました。私一人がすべてを知っていたわけではありません」
事務官は言葉を探しているようだった。
「殿下は、あなたが戻れば以前のように円滑に進むとお考えです。報酬の面でご希望があれば、改めて相談することもできます」
「お気遣いありがとうございます。でも、報酬の問題ではないのです」
セシルは、窓の外へ目を向けた。公館の庭の向こうには、エルフェルトの街並みが見える。遠くから荷車の音が聞こえ、見知らぬ言葉で店の名を呼ぶ声がした。
「私は今、こちらで仕事をしています。まだ覚えることも多く、失敗もしますが、職員の皆様と一緒に考えながら進める毎日が好きです。自分で選んだ仕事を、続けたいと思っています」
「王宮でのお仕事が、お嫌になったということでしょうか」
「いいえ。あの七年間を無駄だったとは思っていません。学んだことも、助けていただいたこともあります。ただ、終わった仕事を、いつまでも私の務めにすることはできません」
事務官は書類を閉じた。彼も、これ以上条件を重ねてもセシルの気持ちは変わらないと理解したのだろう。
「殿下には、そのようにお伝えいたします」
「お願いいたします。引き継ぎの記録と受領書は王宮に保管されているはずです。必要な確認は、現在の担当部署で行っていただけますように」
セシルは頭を下げた。
応接室を出る前、事務官が控えめに声をかけた。
「ひとつだけ、個人的に申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい」
「私は、アーデン嬢が王宮を離れた後に担当を引き継いだ者の一人です。資料はよく整理されていました。おかげで、どこに何があるか分からず困ることはありませんでした」
セシルは意外に思い、顔を上げた。
「では、なぜ私に戻ってほしいと?」
「皆が、あなたがしていたように仕事を進めようとしました。でも、最後に判断する人の代わりにはなれませんでした」
その言葉には、事務官自身の疲れが滲んでいた。セシルは彼を責める気にはなれなかった。
「それは、あなた方の力が足りないからではないと思います」
「……そう言っていただけると、少し救われます」
セシルはもう一度礼をして、公館を後にした。
外の空気は冷たかった。門を出た途端、張り詰めていた肩から力が抜ける。戻らないと伝えることはできたのに、胸の中にはまだ小さな痛みが残っていた。
近くの広場にある茶店へ向かうと、ルシアンが窓際の席で本を読んでいた。彼は公館での面会には関わらず、今日は休暇を取って待ってくれている。セシルが望んだのは、交渉の席で助けてもらうことではなく、終わった後に顔を見られることだった。
「お疲れ様でした」
ルシアンが本を閉じ、向かいの椅子を引いた。
「……お断りしてきました」
「そうですか」
彼は理由を問いたださず、温かな茶を注文してくれた。セシルは椅子に座り、手袋を外した。
「思ったより、きちんとお話しできました。でも、何も感じないわけではありませんね。長くいた場所ですから」
「そうでしょうね」
「それでも、帰りたいとは思いませんでした」
ルシアンは少しだけ表情を和らげた。
「では、これからの予定を考えましょうか。土曜日の読み聞かせは、まだ私も参加してよろしいのでしょう?」
「もちろんです。約束しましたもの」
「よかった。実は、子ども向けの本を一冊探してみたんです」
彼が机の端に置いていた本を差し出した。表紙には、旅の途中で鍋を焦がしてしまった料理人が描かれている。
「『旅する料理人と焦げた鍋』。子どもの頃から好きな本です。前に、私の好きな本も教えてほしいとおっしゃったでしょう」
セシルは表紙を見て、思わず笑った。
「ヴェルナー様らしい選び方ですね。料理のお話なのですか」
「ええ。主人公は旅先で失敗ばかりするのですが、最後には必ず何かおいしいものを作るんです。私が料理を好きになったきっかけでもあります」
「では、土曜日に一緒に読んでみませんか」
「私が、ですか?」
「はい。鳥の声の練習だけでは、もったいないですから」
ルシアンは困ったように笑ったが、断らなかった。
茶が運ばれてくると、セシルは両手で器を包んだ。王宮へ戻らないと伝えた今も、七年間の記憶が消えるわけではない。けれど、あの場所で過ごした時間を大切にすることと、これからもそこに居続けることは別だった。
帰宅した夜、セシルは父へ手紙を書いた。王宮の依頼を正式に断ったこと、今の職場で仕事を続けること、心配をかけたくないので自分の言葉で報告したかったことを記した。
最後の一行を書こうとして、彼女は少し考えた。
『私は、こちらで元気に暮らしています』
以前なら、何を任されているか、どれほど忙しいかを説明しただろう。今はその代わりに、土曜日にはルシアンと子どもたちの前で物語を読む予定だと書き添えた。父がどんな顔で読むかを想像して、セシルは少し笑った。




