第15話 王宮からの手紙
王宮の紋章が押された封筒を見た瞬間、セシルはしばらく手を伸ばせなかった。
財団の仕事を終えて借家に戻ると、父からの手紙が届いていた。封筒は二重になっており、外側にはアーデン伯爵の筆跡で、内側には見慣れた王家の印章があった。
父の短い添え状には、王宮から伯爵家宛てに届いた文書を、本人の判断に任せるため転送すると書かれていた。
『お前の承諾なく、家として返答するつもりはない。今の暮らしを大切にしなさい』
父らしい、少し不器用な文章だった。
セシルは上着を脱ぎ、机の前に座ってから王宮の封を切った。慌てて読む必要はないはずなのに、指先が思うように動かなかった。
文書は王太子アレクシス・ローデンの名で出されていた。礼儀正しい挨拶に続き、王宮の事務に関する協力要請が記されている。
救貧事業の冬期追加予算について、関係部署の意見がまとまらず、配分決定に遅れが生じている。セシルが在職中に調整していた案件との関係が深いため、一定期間、王宮に戻って助言してほしいという内容だった。
期間は二か月を想定しているらしい。ただし、職務上の権限や報酬、現在の仕事との兼ね合いについては具体的に書かれていなかった。
最後に、アレクシス自身の筆跡で一文が添えられていた。
『君ならば、事情を理解してくれると信じている』
セシルは、その文字を長い間見つめていた。
婚約を解消すると告げられた夜も、アレクシスは似たことを言った。君なら理解してくれる、と。七年間、彼の望む役割を果たしてきた自分なら、今回も引き受けると思っているのだろうか。
腹が立たないわけではなかった。けれど、それより先に、懐かしさに似た痛みが胸をよぎった。
彼の筆跡は昔と変わっていない。書き終わりの線が少し右へ流れる癖も、丁寧に書こうとすると文字の間が狭くなるところも、よく知っていた。婚約したばかりの頃には、その文字で書かれた短い便りを受け取るだけで嬉しかった。
今、同じ筆跡で届いたのは、彼女がどう暮らしているかを尋ねる手紙ではなく、仕事をしてほしいという依頼だった。
セシルは封筒を机に置き、窓を開けた。外では、近所の店が戸締まりを始めている。焼きたてのパンの匂いが、夜の冷たい空気に混じっていた。
自分がいなくなった王宮で、仕事が滞っている。それを聞いて何も感じないほど、彼女はあの場所に無関心にはなれなかった。
救貧事業には、冬を越すための支援を待っている人たちがいる。配分の決定が遅れれば、現場が困るかもしれない。
しかし、引き継ぎを終えた日のことも覚えている。
三十二冊の記録を整理し、各部署に受領責任者を置き、十四日間で担当を移した。冬物資の契約承認についても、会計局と救貧局の役割が明確になった。少なくとも、今の遅れが「セシルしか手順を知らない」ためだとは思えなかった。
追加予算の配分は、過去の記録だけでは決められない。限られた資金をどこへ回すかは、権限を持つ人間が責任を引き受けて判断するべきことだ。
セシルは一枚の紙を取り出し、文書に書かれている依頼内容を整理し始めた。
求められているのは助言なのか、実務の代行なのか。誰が最終決定をするのか。期間中の身分はどうなるのか。現在の雇用契約はどう扱われるのか。
項目を書き出しているうちに、また仕事の準備をしているような気分になった。頼まれたことを断る前に、引き受けるための条件を整えようとしている。
「……違うわ」
セシルは筆を置いた。
自分は、王宮へ戻りたいのだろうか。
答えはすぐに出た。戻りたくない。今の仕事を途中で投げ出したくないし、エルフェルトで覚え始めた暮らしを手放したくもない。
それなのに、依頼を断ることに罪悪感がある。かつて必要とされていた場所から声がかかれば、応えなければならないと思ってしまう。
翌朝、セシルは財団の責任者に事情を伝えた。
「個人的な経緯のある依頼なのですが、以前の勤務先から、一時的に戻れないかという手紙が届きました」
責任者は文面を確認することを求めなかった。まず、セシルがどうしたいのかを尋ねた。
「私は、こちらで仕事を続けたいと考えています。ただ、先方が正式な返事を求めていますので、一度話を聞く必要があるかもしれません」
「それなら、休暇の申請をしてください。個人として面会するのは自由です。ただし、財団の職員として業務を引き受ける話になるなら、こちらにも正式な相談が必要です」
「はい。その区別は守ります」
そう答えた後、セシルは少し肩の力が抜けた。王宮にいた頃は、身分と仕事と私生活の境目が曖昧だった。ここでは、自分が何を引き受けるのか、はっきりさせてよいのだ。
昼休み、彼女は父へ返事を書いた。手紙を転送してくれたことへの礼と、今の仕事を続けたいと思っていることを伝えた。王宮への返答は、自分で行うつもりだとも書き添えた。
夕方、財団の外へ出ると、ルシアンが通りの向こうで待っていた。今日は外交局での会議が長引いたらしく、少し疲れた顔をしている。
「お疲れ様です。何か考え事をしていらっしゃいますか」
セシルは迷った末、王宮から手紙が届いたことを話した。封書の中身をそのまま見せることはしなかったが、二か月の復職を求められていることと、自分は戻るつもりがないことを伝えた。
「それなら、返事は決まっているのですね」
「はい。ただ、王宮で困っている人がいると聞くと、胸が痛みます。私が断ったせいで、冬の支援が遅れたらどうしようと考えてしまって」
ルシアンはすぐには答えず、彼女と並んで歩いた。少し先で、通りの掃除をしている人を避けるため、二人は歩幅を合わせた。
「その案件の決定権は、今もあなたにあるのですか」
「いいえ。王宮を離れる時に、すべて引き継ぎました」
「では、あなたが戻っても、決めるべき人が決めなければ仕事は終わらないのでしょうね」
「……そうだと思います」
セシルは、彼が何かを決めてくれるのを期待していたわけではない。それでも、問われたことに答えるうち、自分が何を恐れているのか分かってきた。
仕事が止まることではない。自分が断った結果、誰かから冷たい人間だと思われることが怖いのだ。
「七年間、殿下の期待に応えることが私の務めでした。断ることに、まだ慣れていません」
「そうでしょうね。昨日までの習慣が、手紙一通で消えるわけではありませんから」
「ヴェルナー様は、私が戻るべきだとは思いませんか」
ルシアンは彼女の方を見た。
「私がそれを決めたら、あなたはまた別の人の希望に従うことになります。私には、あなたが今の仕事を大切にしているように見えます。それだけはお伝えできます」
セシルは小さく頷いた。
「ありがとうございます。……少し、落ち着きました」
ルシアンはそこで、土曜日の読み聞かせの話をした。店主から子どもたちが楽しみにしていると聞いたらしい。
「あなたは、あの鳥の台詞を覚えていらっしゃいますか」
「ええ。昔から好きな場面ですから」
「私はまだ、どう読めばよいのか分かりません。土曜日までに教えていただけますか」
思いがけない頼みに、セシルは笑ってしまった。
「もちろんです。ただし、練習は厳しくいたしますよ」
「それは困りました。外交局での評価より厳しそうだ」
笑い合った後、セシルは帰宅して王宮宛ての返書を書いた。
依頼を受け取ったこと、現在はエルフェルト公益財団に勤務していること、復職の意思はないこと。必要であれば、具体的な依頼内容を示したうえで、本人が面会する機会を一度だけ設けることは可能だと記した。
仕事の引き受けを約束する文言は、一切入れなかった。
数日後、王宮から返答が届いた。エルフェルト王都にあるローデン王国公館へ、担当の事務官が出向くという。面会は私的な相談ではなく、王宮からの正式な依頼の説明として行われるらしい。
セシルは指定された日時を確かめ、財団へ休暇の申請を出した。ルシアンには、面会が終わった後で少し会えないかと尋ねた。彼はその日なら休暇を取れると言い、近くの茶店で待ち合わせることになった。
手帳には、面会の予定と、その二日後にある古書店での読み聞かせが並んでいる。
以前なら、王宮からの依頼を最優先にして、週末の約束を取り消していただろう。
けれど今回は、どちらの予定も消さなかった。
王宮へ返事をすることと、自分の休日を過ごすことは、別のことなのだから。




