第14話 初めて、助けてと言えました
川沿いの市場で買った緑色のカップは、セシルの朝の楽しみになっていた。
同じ茶葉を使っているのに、手に持つ器が変わるだけで、いつもの朝食まで少し違って感じられる。釉薬の色むらを眺めながら、彼女は週末にルシアンと歩いた川岸を思い出した。
今度は自分から誘うと約束した。古書店の店主からは、来週の土曜日に読み聞かせを開くと知らせが届いたばかりだ。ルシアンも子どもたちの前で、あの下手だという歌を披露してくれるだろうか。そこまで想像して、セシルは一人で笑った。
財団へ着くと、そんな穏やかな気分はすぐに仕事へ切り替わった。
「アーデンさん、輸送担当から相談です。ローデン王国から入る冬用の布地について、国境で使う照会先の名簿が古いそうなんです」
隣の席の職員が差し出したのは、財団と民間の供給組合が共同で使っている連絡先一覧だった。布地はエルフェルトの支援施設へ送られるもので、輸出側の書類に不備があれば、国境の検査所で荷を止められる可能性がある。
セシルは名簿を開き、ある欄で指を止めた。
『ローデン王宮側照会先 セシル・アーデン』
肩書には、王太子妃候補とある。
「これは、いつ作成された名簿でしょうか」
「夏の終わりだそうです。供給組合が以前の事業資料を写したものらしくて。今朝、輸送担当が王宮へ連絡したところ、こちらの名前では受け付けられないと言われたそうです」
セシルは日付を確認した。確かに、婚約解消より前の資料だ。王宮で引き継いだ三十二冊の記録とは別に、外部の組合が保管していた一覧らしい。
彼女が王宮にいた頃、国外との事務連絡を取り次いだことはある。しかし今のセシルには、ローデン王宮の照会を受ける権限がない。過去の名前が残っているからといって、その立場に戻れるわけではなかった。
「新しい担当者を確認して、名簿を訂正する必要がありますね」
「はい。ただ、輸送担当は明日までに書類を揃えたいと言っています。王宮からの回答が遅れると、積み込みの予定を変えなくてはならなくて」
セシルは机の上に紙を広げた。ローデン側で確認すべき部署、財団側の輸送責任者、供給組合への連絡事項を順番に書き出していく。ここまでは、いつもの仕事だった。
問題は、ローデン側へ誰が正式に照会するかである。
以前なら、セシルが直接王宮へ手紙を送り、知っている職員に確認を頼んだだろう。その方が早いし、相手も事情を理解してくれるはずだ。
彼女は無意識に、書簡の書き出しへ『王宮公務補助担当として』と記しかけた。
筆先が止まった。
その肩書は、もう自分のものではない。
セシルは紙を裏返し、新しい用紙を取り出した。今の所属と担当業務を明記した照会文を作り、財団の責任者に確認してもらう。それが正しい手順だ。
しかし、送付先を決めようとすると手が止まる。王宮の内部にいた頃なら分かった連絡経路も、外から問い合わせる立場になれば事情が違う。知っている人に直接頼ることと、正式な窓口を通すことの境目を、彼女はまだ十分に理解できていなかった。
午後、財団の責任者に事情を説明すると、照会文の内容は了承された。
「ローデン側の担当官庁を特定するところまでは、こちらで確認できませんね。エルフェルトの外交局に、正規の経路を尋ねてみましょう」
「承知しました。私が問い合わせの準備をいたします」
返事をしながら、セシルは胸の奥がざわつくのを感じた。
ルシアンなら、窓口を知っているかもしれない。共同事業の外交上の連絡を担当しているのだから、尋ねること自体は不自然ではない。
それでも彼に連絡するのをためらった。仕事の相談をするたび、彼に頼ってばかりだと思われるのが怖かったのだ。
以前のセシルは、頼まれる側でいることに慣れていた。自分が困った時には、調べて、調べ直して、それでも足りなければ夜まで働いた。誰かに助けを求めるのは、準備が足りなかった証拠のように感じていた。
夕方になっても、正しい照会経路は判明しなかった。明日の積み込み予定を守るには、今夜のうちに手続きを進めたい。
セシルは書類を抱え、外交局との定例連絡を終えたルシアンを廊下で呼び止めた。
「ヴェルナー様。お仕事の件で、お願いがございます」
「はい。どうなさいました」
彼の落ち着いた返事を聞いた途端、用意していた説明が喉につかえた。事情を正確に伝えることなら得意なはずなのに、助けてほしいと口にすることだけが難しい。
「以前の私の名前が、ローデン側の照会先として残っていたんです。財団の責任者には報告し、正式な問い合わせを出す許可もいただきました。でも、どこへ送ればよいのか、私には分かりません」
ルシアンは書類を受け取らず、まず彼女の顔を見た。
「その件で、何か心配なことがありますか」
「……昔の知り合いに頼めば、すぐに済むと思ってしまいました。今の立場ではしてはいけないことだと分かっているのに、どうしても以前のやり方が頭から離れなくて」
セシルは一度息を吸った。
「私だけでは、正しい手順を見つけられません。助けていただけますか」
口にしてしまうと、胸が痛むほど緊張した。彼に呆れられたらどうしようと考える自分が、少し情けなかった。
ルシアンは名簿の日付を確認してから、静かに頷いた。
「もちろんです。ただし、私個人の口利きではなく、外交局の業務としてお手伝いします。財団から正式な照会をいただければ、担当官庁の確認を進められます」
「それで十分です。いえ、それをお願いしたかったんです」
「では、まず財団の責任者が承認した文書を送ってください。私の方でも、受け付ける部署を確認します。名簿の訂正は供給組合が行う、という整理でよろしいですね」
「はい。訂正後の配布先まで、こちらで管理します」
役割が定まると、止まっていた仕事が動き始めた。ルシアンはその場で結論を約束しなかったし、王宮にいる知人の名前を教えることもしなかった。それがかえって、セシルにはありがたかった。
翌朝、外交局を経由した照会への回答が届いた。ローデン側の担当は王宮ではなく、輸出事務を扱う官庁の窓口だった。財団の輸送担当はその回答に従って必要な書類を確認し、供給組合は古い名簿を回収して訂正版を配った。
積み込みの予定は、半日だけ遅れることになった。セシルは関係者へ変更を通知し、遅れの理由と今後の連絡経路を記録した。
完璧な結果ではない。それでも、誰か一人が無理をして辻褄を合わせるより、次に同じ荷が来た時にも使える手順が残った。
「アーデンさん、助かりました。次は最初からこちらへ照会できますね」
輸送担当の職員にそう言われ、セシルは笑って頷いた。
その日の帰り道、ルシアンと顔を合わせた。
「名簿の件、無事に片づいたそうですね」
「はい。ありがとうございました。あの時、助けていただけて本当によかったです」
「私も、自分の仕事をしただけですよ」
「それでも、私には難しいお願いでした」
セシルは歩調を緩めた。仕事を任せることと、自分の困りごとを人に見せることは、似ているようで違う。昨日、彼に声をかける時に震えたのは、知識が足りないからではなかった。
「私、できないことがあると知られるのが怖かったんです。王宮では、何でも分かっている人間でいなければならないと思っていました」
「昨日、あなたが相談してくださって、私は困りませんでしたよ」
「ええ。それが分かったので、今日は少し気が楽です」
ルシアンは、いつものように大げさな慰めを言わなかった。ただ、彼女が言葉を探し終えるまで、隣を歩いてくれた。
セシルはそこで、週末のことを思い出した。
「そうだ。来週の土曜日、古書店で子どもたちの読み聞かせがあるそうです。もしお時間があれば、ご一緒しませんか」
「あなたからのお誘いですね」
「はい。前に、私から誘うと申し上げましたから」
「喜んで。今度は私も、あの鳥の声を練習しておいた方がよいでしょうか」
「歌よりは、きっと上手にできますわ」
ルシアンが苦笑したので、セシルは声を立てて笑った。
誰かに助けを求めた翌日に、その人を自分の好きな場所へ誘っている。以前なら、借りを返すように考えてしまったかもしれない。けれど、今はただ、彼と一緒に過ごしたいと思っていた。
借家に帰ると、緑色のカップが食器棚に収まっていた。セシルはそれを取り出し、温かな茶を注いだ。明日の仕事の準備はすでに終えてある。
机の上には、子どもたちに読もうと思っている物語が開いていた。セシルはページをめくりながら、土曜日にルシアンがどんな鳥の声を出すのか、少しだけ楽しみにした。




