第13話 好きなものを選ぶ練習
セシルが古書店で買った物語は、借家の小さな机の上に置かれるようになった。
仕事を終えて帰宅した夜、茶を飲みながら数ページずつ読む。幼い頃には気づかなかった言い回しを見つけることもあれば、昔とまったく同じ場面で笑ってしまうこともあった。
書きかけの物語の続きも、少しずつ増えている。登場人物の数は相変わらず多すぎたが、誰に提出するものでもないので、書き直す必要はなかった。
ある夕方、セシルは財団の仕事を終えてから、先日訪れた古書店へ足を向けた。買った物語を読み返すうちに、同じ作者の別の本も探してみたくなったのだ。
店主は彼女の顔を覚えていたらしく、棚を見ていると声をかけてきた。
「この間はありがとう。あの子たちが、鳥の声を出してくれたお姉さんはまた来るのかって聞いていたよ」
「まあ。そんなに喜んでくれたのですか」
「今度の日曜日にも、午前から読み聞かせをする予定なんだ。都合がよければ、少し手伝ってもらえないかい」
セシルは思わず微笑んだ。あの兄妹が笑っていた顔を、すぐに思い出したからだ。
「ぜひ、と申し上げたいところです。予定を確かめてから、お返事してもよろしいでしょうか」
「もちろん。無理なら気にしないでおくれ」
店を出て手帳を開くと、日曜日の欄には何も書いていなかった。これなら引き受けられるだろうと思いながら帰り道を歩いていると、ルシアンに出会い、別の誘いを受けた。
「今度の日曜日、川沿いの市場へ行きませんか。古い渡し場の近くで開かれる市で、冬が来る前の最後の開催だそうです」
「川沿いの市場、ですか」
「ええ。陶器や織物の店が並ぶのですが、私はあそこの景色が好きで。あなたにも一度見ていただきたいと思っていました」
セシルはすぐに返事をしようとして、古書店からの手紙を思い出した。
「実は、同じ日に別のお誘いもいただいているんです」
事情を説明すると、ルシアンは頷いた。
「それなら、読み聞かせの方を優先してください。市場は来年もありますから」
「でも、今年は今度の日曜日が最後なのでしょう?」
「そうですが、無理をなさる必要はありません」
彼は気遣ってくれたのだろう。セシルにもそれは分かった。しかし、少しだけ残念そうに見えたのも事実だった。
「少し考えてから、お返事してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。どちらを選んでも、気になさらないでください」
別れた後、セシルは歩きながら二つの予定を頭の中で並べた。
読み聞かせは午前から昼過ぎまで。市場は夕方まで開いているらしい。急いで移動すれば、両方に顔を出せるかもしれない。
借家に戻ると、彼女は紙に移動時間を書き出し始めた。読み聞かせが少し延びた場合を考え、昼食は道中で済ませる。市場に着く頃には店じまいを始めるところもあるだろうから、見たい店を先に決めておく。
そこまで書いて、筆を止めた。
この予定では、古書店でも市場でも、時計ばかり気にすることになりそうだった。せっかく好きなことをする休日なのに、遅れずに全部こなすことが目的になっている。
セシルは机の上の本を開いた。物語の中で、船長は二つの島のどちらへ向かうか悩んでいる。嘘つきの鳥は両方へ行けると言い張るが、船は一隻しかない。
「……あなたなら、どうするのかしら」
自分で呟いて、少し笑った。物語の船長に答えを求めても仕方がない。
読み聞かせは楽しそうだ。子どもたちと会いたい気持ちもある。けれど、それは今回でなければできないことだろうか。
一方、ルシアンが自分から行きたい場所を話してくれたのは、初めてだった。彼はいつもセシルの希望を先に聞いてくれる。だからこそ、彼が好きな景色を見てみたいと思った。
翌朝、セシルは古書店へ返事を書いた。今回は都合がつかず参加できないこと、別の機会があればぜひ声をかけてほしいことを、簡潔に伝えた。
続いてルシアンにも、市場へ行きたいと返事をした。
その日の夕方、二人が顔を合わせた時、彼は少し驚いていた。
「読み聞かせは、よろしかったのですか」
「はい。また別の日にも開かれるそうですから。今回は、ヴェルナー様が好きだとおっしゃった景色を見たいと思いました」
「私に気を遣っていませんか」
セシルは一度考えてから、首を横に振った。
「お誘いいただいたからではなく、私が見たいのです。あなたがどんな場所を好きなのか、知りたくて」
ルシアンは返事を急がず、しばらく彼女を見ていた。
「……それなら、案内するのが楽しみです」
日曜日、二人は川へ向かう道を歩いた。
王都の中心部を離れるにつれて建物は低くなり、道の先に広い空が見えてくる。川沿いには古い石造りの渡し場が残り、その近くの広場に、陶器や布地を扱う露店が並んでいた。
川面には秋の日差しが揺れている。荷を積んだ小舟がゆっくり進み、岸辺では子どもたちが落ち葉を拾っていた。
「よい場所ですね」
セシルが言うと、ルシアンはほっとしたように笑った。
「気に入っていただけてよかった。私はこの辺りに来ると、仕事のことを少し忘れられるんです」
「どうして、ここなのですか」
「以前、こちらへ赴任したばかりの頃、仕事で失敗して落ち込んだことがありまして。帰り道にたまたま川まで歩いたら、渡し船の人が何事もなかったように荷物を運んでいたんです」
ルシアンは水面へ目を向けた。
「自分の失敗で世界が止まったように思っていたのに、街では誰かが働き、誰かが買い物をしている。その様子を見て、明日また仕事をすればよいと思えました」
セシルは静かに頷いた。以前、彼が使節団の受け入れで失敗した話をしてくれたことを思い出す。
「その時から、お好きな場所なのですね」
「ええ。立派な景色ではないかもしれませんが、私には大切な場所です」
「教えてくださって、ありがとうございます」
セシルは川を眺めた。目の前の景色は、誰かに評価されるために整えられた庭園とは違う。人々が毎日使う道があり、荷物を運ぶ船があり、そこに暮らしが続いている。
ルシアンがこの場所を好きだと言った理由が、少し分かる気がした。
二人は露店を順番に見て回った。セシルは織物の店で手触りのよい布を確かめ、陶器の店では形の違う器を手に取った。
ある店先で、深い緑色の小さなカップが目に留まった。釉薬の色が均一ではなく、持ち手の付け根に淡い茶色が混じっている。
「気になりますか」
ルシアンに尋ねられ、セシルは頷いた。
「ええ。でも、同じ大きさのカップは家にありますから」
「そうですか」
彼は買うように勧めることも、代わりに代金を払おうとすることもしなかった。ただ、隣で別の器を眺めている。
セシルはもう一度、緑色のカップを手に取った。借家にある食器は、暮らし始めた時に必要なものを揃えただけだ。壊れていないのだから、新しく買う理由はない。
けれど、この色が好きだと思った。
「……これを、いただきます」
店主に代金を渡すと、カップは柔らかな布に包まれた。セシルは受け取った包みを、鞄の中へ大切にしまった。
「選ばれたのですね」
「はい。必要だからではなく、気に入ったから買ってみました」
「使うたびに、今日のことを思い出せそうです」
「そうですね」
セシルは笑った。彼の言うとおり、きっとこのカップを見るたびに、川の光や市場の賑わいを思い出すだろう。
帰り道、二人は橋の上で足を止めた。川の向こうでは、店じまいを始めた露店の人々が荷車を動かしている。
「今日は、私の行きたい場所に付き合っていただきましたね」
ルシアンが言った。
「私も来たかったのですから、お付き合いしたというより、一緒に楽しんだのだと思います」
「それなら、よかった」
セシルは欄干に手を置き、流れていく水を見た。
「今度は、私からお誘いしてもよろしいでしょうか。まだ行ってみたい場所があるんです」
「ぜひ。どちらへ?」
「それは、もう少し考えてからお伝えします」
ルシアンが笑い、セシルも笑った。以前なら、相手の都合をすべて確認してからでなければ誘えなかっただろう。今は、自分が一緒に行きたいと思ったことを、先に伝えられた。
その夜、セシルは買ったカップに温かな茶を注いだ。緑色の釉薬が灯りを受け、昼間とは少し違う色に見える。
机には、書きかけの物語と、次の休日が空白の手帳が置いてあった。セシルは茶をひと口飲み、どこへ行こうかと考え始めた。
今度は、誰かに決めてもらうためではない。ルシアンと一緒に見たいものを、自分で探してみたかった。




