第12話 あなたの知らない私
古書店の扉を開けると、乾いた紙と革表紙の匂いがした。
狭い店内には背の高い棚が並び、奥の窓から差す光が床に細い帯を作っている。新刊を扱う店と違い、書物は大きさも装丁もまちまちで、背表紙の文字が薄くなったものも少なくなかった。
「ここなら、半日いても飽きませんね」
セシルが言うと、ルシアンは棚を見渡した。
「それは困りました。今日は私も帰るつもりで来ているので」
「半日も居座るつもりはありませんよ」
彼の冗談に答えながら、セシルは入口近くの棚に目を留めた。そこには子ども向けの物語が集められている。背表紙の色が褪せた一冊を見つけた瞬間、思わず手が伸びた。
「まだ、この本があるのですね」
表紙には、小さな船と、波の上に浮かぶ不思議な星が描かれていた。『逆さまの星を探す船』。幼い頃、何度も読んだ物語だった。
「お好きな本ですか」
「はい。主人公の船乗りが、海図にない島を探しに行くお話です。航海の途中で、道を知っていると言い張る鳥に騙されたり、食料を盗む小さな竜を仲間にしたりするんです」
セシルは本を開き、挿絵を指した。
「この鳥がひどい嘘つきで。いつも偉そうに方角を教えるのですが、本人もどちらが北か分かっていないんですよ」
説明しているうちに、昔の場面が次々と浮かんできた。子どもの頃は、この鳥が登場するところを読むたびに笑っていた。
「ずいぶん詳しく覚えていらっしゃるのですね」
「何度も読んだものですから。続きを自分で考えて、紙に書いたこともありました」
「あなたが物語を?」
ルシアンの意外そうな声に、セシルはようやく我に返った。
「子どもの遊びです。立派なものではありません」
「それでも、ぜひ聞いてみたいですね」
「とんでもありません。登場人物が増えすぎて、最後は誰が船長なのか分からなくなってしまったんです」
彼が笑うと、セシルも笑った。昔はあれほど夢中になっていたのに、王太子妃教育が始まってからは物語を書くことも、気ままに読むことも少なくなっていた。
自分から手放したものもある。忙しいからという理由で、机の引き出しにしまったままにした本もあった。思い出すと、少し胸が痛んだ。
その時、奥の方から子どもの声が聞こえた。
「だから、こっちの本だってば」
「字が難しいから、読めないよ」
棚の陰で、小さな兄妹らしい二人が一冊の本を取り合っていた。店主が近づき、優しく声をかける。
「破れてしまうから、引っ張らないでおくれ。読めないところは教えてあげるよ」
店主は客の会計に呼ばれ、子どもたちは本を抱えたまま、困ったように顔を見合わせた。セシルは少し迷ってから、二人のそばにしゃがんだ。
「もしよかったら、私が読んでもよいかしら」
兄の方が警戒するように顔を上げたが、妹が先に頷いた。
「鳥が出るところまで読んで」
「鳥のところね。では、少しだけ」
偶然にも、二人が持っていたのはセシルが手にしているものと同じ物語だった。彼女は店主に目で許しを求め、奥の小さな腰掛けに座って読み始めた。
船長が海へ出る場面では、できるだけ堂々とした声を出した。嘘つきの鳥が登場すると、今度はわざと鼻にかかった調子で言葉を読んだ。
「この私に任せておけば、間違いなく南へ着く。もっとも、南がどちらかは、その日の風に聞いてくれたまえ」
妹が吹き出し、兄も口元を押さえた。
「鳥って、そんな声なの?」
「私が小さい頃は、こういう声だと思っていたの」
「もっと偉そうな声がいい!」
セシルは咳払いをして、今度は王宮の式典で聞いた老貴族の口調を少しだけ真似た。二人が笑い転げるので、彼女自身も途中で読めなくなってしまった。
ふと顔を上げると、ルシアンが少し離れた場所に立っていた。目が合うと、彼は笑いをこらえるように口元を押さえた。
「……聞いていらしたのですね」
「ええ。途中から。あの鳥の声は、なかなか見事でした」
「忘れてくださいませ」
「それは難しいお願いです」
子どもたちがもう一度とせがんだので、セシルは結局、鳥が失敗する場面まで読み進めた。読み終える頃には、兄妹の母親が迎えに来て、丁寧に礼を言った。
店主も会計を終え、微笑みながら近づいてきた。
「助かったよ。あの子たちは毎週来るんだが、今日は私の手が離せなくてね」
「いえ、私も楽しかったです」
セシルは素直に答えた。役に立てたからではない。子どもたちが次に何を言うのか楽しみで、夢中になっていたのだ。
結局、彼女は懐かしい物語を一冊買った。表紙の角は擦れていたが、挿絵も文章も欠けていない。新しい本より、昔読んだものに近い姿が気に入った。
店を出ると、細かな雨が降り始めていた。二人は軒下で雨脚が弱まるのを待つことにした。
「意外でした」
ルシアンが言った。
「何がでしょう」
「あなたが、あんなに楽しそうに物語を読む方だとは知りませんでした。仕事中のあなたは、いつも言葉を慎重に選んでいらっしゃるので」
「私も驚いています。あのようなことを人前でしたのは、久しぶりでしたから」
セシルは買った本を胸に抱えた。
「王太子妃教育が始まる前は、よく物語を読んでいました。架空の国の地図を描いて、旅の順番を決めたりもしていたんです。でも、いつの間にか、そんな時間はなくなっていました」
「嫌いになったわけではないのですね」
「ええ。好きだったことを、忘れたつもりになっていたのかもしれません」
雨が石畳を濡らし、道行く人々が軒から軒へ急いでいる。ルシアンはすぐに慰めの言葉を探すことも、昔の生活を悪く言うこともしなかった。
「私は、今のあなたが楽しそうにしているところを見られて嬉しかったです」
セシルは顔を上げた。
「ヴェルナー様には、私の知らない一面があるのでしょうか」
「もちろんありますよ。たとえば、私は歌がひどく下手です」
「……それは、少し意外です」
「学生の頃、仲間と歌った時に、隣の友人から『音を探しているように聞こえる』と言われました」
セシルは堪えきれずに笑った。
「ひどい言われようですね」
「事実だったので反論できませんでした。以来、人前では歌わないことにしています」
「では、私の鳥の声と同じですね」
「いえ。あれは評判がよかったでしょう」
二人で笑っているうちに、雨は少しずつ弱まった。ルシアンが空を見上げる。
「そろそろ歩けそうです。送っていきましょうか」
「ありがとうございます。でも、帰り道は分かりますので、途中までご一緒できれば十分です」
セシルはそう答えてから、少し考えた。
「それと、今日はもうひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「今度お会いする時、ヴェルナー様の好きな本も教えてください。仕事の資料ではないものを」
ルシアンは、しばらく考えるふりをした。
「では、あまり立派な本でなくても、笑わないでいただけますか」
「もちろんです。私も、鳥の声をお聞かせしてしまいましたから」
「それなら、お互いさまですね」
帰り道、セシルは彼の隣を歩きながら、買った本の重みを確かめていた。仕事で評価される自分も、王宮で過ごした七年間も、どちらも嘘ではない。
けれど、それだけが自分のすべてではなかった。
借家に戻った夜、セシルは本を開いた。嘘つきの鳥が船長を間違った島へ案内する場面で、昼間の兄妹の笑い声を思い出す。
机の上には、仕事用とは別の小さな紙があった。セシルはそこに、昔考えた物語の続きを一行だけ書いてみた。
誰かに見せる予定はない。それでも、書いているうちに自然と次の一行が浮かんできた。




