第11話 休日の過ごし方を知りません
待ち合わせの時刻まで、まだ二十分あった。
セシル・アーデンは中央通りの時計台を見上げ、鞄の中の手帳を取り出しかけて手を止めた。約束の場所も時刻も、昨夜すでに確かめている。確認する必要はないのに、何かを待つ時には予定を見直さないと落ち着かなかった。
淡い青色のワンピースの裾をそっと整える。王宮の晩餐会なら装いに迷うことはなかったが、今日は食堂で昼食を取るだけだ。だからこそ、どの程度おしゃれをしてよいのか分からなかった。
通りの向こうから、ルシアン・ヴェルナーが歩いてきた。普段の仕事着とは違い、濃い灰色の上着を羽織っている。彼もこちらに気づき、歩調を少し速めた。
「お待たせしました。随分早くいらしたのですね」
「私も今来たところです、と申し上げたいのですが、実は二十分ほど前に」
「それなら、私があと十分早く出ればよかった」
真面目な顔で言われ、セシルは思わず笑った。
「違います。私が早すぎたのです。お約束の時刻には、まだ余裕がありますから」
ルシアンは時計台を見上げ、それから彼女の服へ目を向けた。
「その色、よくお似合いです」
「ありがとうございます。仕事ではあまり着ない服なので、少し迷いました」
「迷われたのなら、選んでくださってよかった」
何気ない言葉だったのだろう。けれどセシルは返事をするまでに、ほんの少し時間がかかった。七年間、衣装を褒められる時は、いつも『王太子妃にふさわしい』という言葉が続いていた。今日はただ、自分に似合うと言われたのだ。
二人は中央通りを外れ、石畳の細い道へ入った。休日の街には、平日とは違う賑わいがある。洗濯物を干す家の窓が開き、露店では子どもが焼き栗の値段を尋ねていた。
「この先です。煮込み料理が評判で、昼には席が埋まってしまうこともあります」
「では、先に注文を決めておいた方がよろしいでしょうか」
「店に着いてからでも大丈夫ですよ」
そう答えたルシアンが、少し笑った。
「何かおかしなことを申し上げましたか」
「いいえ。あなたと一緒だと、私も予定を立てる時の癖に気づかされるのです。店の混み具合まで事前に調べようかと考えましたから」
セシルは驚いて彼を見た。自分だけが落ち着かないのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
目的の食堂は、赤茶色の扉に小さな麦の飾りが掛かった店だった。中からは肉と香草を煮込む匂いが漂ってくる。しかし扉の前には、入店を待つ人が数組並んでいた。
店主らしい女性が顔を出し、申し訳なさそうに告げた。
「今日は煮込みの仕上がりが遅れていてね。席もいっぱいなんだ。もう少し待ってもらえるかい」
ルシアンがセシルを振り返る。
「どうしましょう。ここで待つこともできますが、近くに別の店もあります」
セシルは思わず、行列の人数と店内の席数を数えた。どのくらい待つことになるか、店主に確認すべきだろうか。近隣の店の営業時間を調べ、比較してから決めるべきだろうか。
そこまで考えて、ふと可笑しくなった。
「私、また仕事のように考えておりました」
「実は私もです。こちらの店に案内すると約束したのだから、何としても入らなければと思っていました」
「でも、約束したのは食堂そのものではなく、一緒に食事をすることですよね」
ルシアンは少し目を見開き、それから頷いた。
「そのとおりですね。では、別の店を探してみますか」
「はい。せっかくですから、歩いて見つけたいです」
店主に礼を言い、二人は来た道を少し戻った。大通りに出る手前で、セシルは小さな窓に焼き菓子を並べた店を見つけた。奥には食事のできる席があり、黒板に今日の献立が書かれている。
「こちらはいかがでしょう。野菜の包み焼きと、豆のスープがあるようです」
「よさそうですね。あの窓辺の席も空いている」
店に入ると、香ばしい焼き生地の匂いがした。二人は窓際に腰を下ろし、運ばれてきた水を飲んだ。ようやく席に着いたのに、セシルは何を話せばよいのか迷ってしまった。
仕事の会議なら、相手に尋ねることはいくらでも思いつく。けれど今は、事業の進捗も書類の締め切りも関係ない。
「今日は、何をお話しすればよいのでしょう」
思ったことが、そのまま口から出てしまった。
ルシアンは一度瞬きをして、声を立てて笑った。
「すみません。あなたがあまりに真剣なので」
「笑わないでくださいませ。こういう時間には、まだ慣れておりません」
「私も得意ではありませんよ。では、まずは食べ物の話から始めましょうか。昨日、昼食は何を召し上がりました?」
「昨日は仕事が立て込んでいたので、パンと果物を少し」
「それでは、今日はゆっくり食べないといけませんね」
会話はそんな些細なところから始まった。彼は王都の南にある市場の果物が安くておいしいことを話し、セシルは借家の近くのパン屋で、夕方になると焼きたての菓子パンが並ぶことを教えた。
「以前、仕事帰りに二つ買ったことがあるんです」
「二つとも召し上がったのですか」
「……はい。翌朝の分のつもりだったのですが、結局その日のうちに」
ルシアンが笑い、セシルもつられて笑った。そんなことを人に話す自分が、少し意外だった。
料理が運ばれてくると、二人はしばらく食事に集中した。包み焼きの中には刻んだ根菜と柔らかい肉が入っていて、表面の生地は薄くぱりっとしている。豆のスープには香草が利いていたが、辛さはなく、セシルにも食べやすかった。
「おいしいですね」
「ええ。予定を変えて正解でした」
「私、こちらのお店を選べてよかったです」
そう言った途端、セシルは自分の言葉に引っかかった。店を選んだだけなのに、なぜこんなに嬉しいのだろう。
「今まで、自分の希望を伝えることが少なかったのかもしれません」
ルシアンは手を止め、急かさずに続きを待った。
「王宮では、何を選ぶにしても、まず殿下のご予定や立場を考えていました。もちろん、それは必要なことでした。でも今日のように、私が食べてみたいからという理由だけで店を決めたことは、ほとんどありません」
「それなら、今日はよい練習になりましたね」
「練習、ですか」
「ええ。あなたが何を望むか、私にはまだ分からないことが多いので。言っていただけた方が嬉しいです」
セシルはスープの器に目を落とした。自分の希望を伝えると、誰かの負担になると思っていた。けれどルシアンは、知らないことの方を残念に思うらしい。
「では、ひとつ申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「食事の後、少し歩きたいです。あの通りの先に、古い本を扱う店があると聞きました」
「いいですね。私も気になっていました」
「……ヴェルナー様が別の場所へ行きたければ、そちらでも」
「今のは、あなたの希望でしょう」
穏やかに返され、セシルは口を閉じた。すぐに相手へ譲ろうとする癖まで、彼には見抜かれているらしい。
食事を終えて外に出ると、雲の切れ間から日が差していた。二人は急がずに歩き、途中で花屋の店先を眺め、路地の奥で昼寝をしている猫を見つけた。セシルは猫が起きるまで立ち止まりたくなったが、さすがにそれは言い出せなかった。
するとルシアンが、猫の方を見たまま尋ねた。
「少し、ここにいますか」
「……よろしいのですか」
「私も、あの猫がいつ起きるのか気になります」
猫はしばらく眠り続け、結局、二人が待っている間には目を覚まさなかった。セシルはその無駄とも思える時間が、なぜか心地よかった。
古書店へ向かう道で、ルシアンが言った。
「今日の予定は、最初からずいぶん変わりましたね」
「はい。でも、困りませんでした」
「私もです」
セシルは彼の横顔を見た。仕事では、予定が変わればすぐに対応策を考える。けれど今日の変更には、失敗したという気持ちが少しもなかった。
時計台の鐘が午後の時刻を告げた。セシルは鞄の中の手帳を思い出したが、取り出さなかった。次にどこへ行くかは、歩きながら決めればよい。
古書店の看板が見えてきた時、彼女は自然に歩調を速めていた。




