第10話 お仕事以外の約束
ルシアンと食事へ行く約束をした翌朝、セシルはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
仕事の予定が気になったわけではない。
今度の休日に着ていく服を、まだ決めていなかったのだ。
寝台から起き上がったセシルは、衣装棚を開けた。
王宮で暮らしていた頃に仕立てたドレスは、今もいくつか持ってきている。しかし、普段の仕事に着ていくには華やかすぎるものが多かった。
財団へ通うようになってからは、動きやすい落ち着いた色の服を選ぶことが増えている。
休日の食事に、どの服がふさわしいのだろう。
「……難しいわね」
セシルは衣装棚の前で腕を組んだ。
王宮での晩餐会なら、招待状に記された格式や時間帯に合わせて服を選べばよかった。
しかし、今回は違う。
正式な招待状はないし、服装についての指定もない。
それに、そもそも食事へ行く約束をしただけで、特別な意味があると決まったわけでもない。
そこまで考えてから、セシルは自分が妙に落ち着かなくなっていることに気づいた。
「普通に食事をするだけなのに……」
独り言を漏らし、衣装棚を閉じた。
今から悩んでいても仕方がない。
まずは今日の仕事を終わらせよう。
財団本部へ出勤すると、事務室ではすでに職員たちが仕事を始めていた。
セシルは挨拶をして席に着き、今日の予定を確認した。
午前中は支援物資の配分に関する書類の確認、午後は来月の事業計画についての会議がある。
忙しい一日になりそうだった。
「アーデンさん、おはようございます」
隣の席の職員が声をかけてきた。
「おはようございます」
「今日は、ずいぶん機嫌がよさそうですね」
「そうでしょうか」
「ええ。何かよいことでもありましたか?」
セシルは少し考えた。
仕事の進み具合は順調だし、昨日の会議でも大きな問題はなかった。
けれど、今朝から気になっているのは仕事のことではない。
「……今度の休日に、知り合いの方と食事へ行くことになりまして」
「あら、それは楽しみですね」
「はい。ですが、どのようなお店なのか、まだ詳しく伺っていないのです」
職員は少し首を傾げた。
「それなら、直接聞いてみればよいのではありませんか?」
「……そうですね」
セシルは頷いた。
言われてみれば、そのとおりだった。
仕事なら、必要な情報が足りなければ担当者へ確認する。
それなのに、食事の約束となると、どうしてこんなに考え込んでしまうのだろう。
「ちなみに、その方は男性ですか?」
突然の質問に、セシルは手元の書類を落としそうになった。
「え、ええ。そうですけれど」
職員は楽しそうに笑った。
「でしたら、なおさらお店を聞いておいた方がよいですね。服装も決めやすくなりますし」
「そういうものでしょうか」
「ええ。あまり難しく考えなくても大丈夫ですよ」
セシルは少し恥ずかしくなりながら、書類を整えた。
どうやら、自分が考えている以上に、休日の約束を楽しみにしているらしい。
昼過ぎ、セシルは共同事業の会議でルシアンと顔を合わせた。
仕事中の彼は、いつもと変わらず落ち着いている。
書類に目を通し、必要な質問をして、結論を確認する。その姿を見ていると、昨日の食事の約束などなかったかのように思えた。
セシルも仕事に集中し、会議を進めた。
今日の議題は、来月の支援物資の配分と輸送日程についてだった。
先日の経験を踏まえ、セシルは担当者ごとの判断事項を整理した資料を用意している。
会議は順調に進み、予定していた時間より少し早く終わった。
「本日は以上です。皆様、ありがとうございました」
セシルが書類を閉じると、参加者たちが順番に席を立った。
ルシアンも帰り支度を始めていたが、セシルが声をかけると足を止めた。
「ヴェルナー様、少しよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう」
「今度の休日のお食事についてなのですが……」
ルシアンは、すぐに頷いた。
「ああ、あの件ですね」
「はい。どのようなお店なのか、伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
彼は少し考えてから答えた。
「以前お話しした食堂です。王都の中央通りから少し外れたところにあります。気取ったお店ではありませんが、料理がおいしいんですよ」
「そうなのですね」
「ただ、休日は少し混むことがあります。早めに行った方がよいかもしれません」
セシルは真面目に頷いた。
「では、何時頃にお伺いすればよろしいでしょうか」
「昼前でいかがですか」
「承知いたしました」
セシルは鞄から手帳を取り出した。
休日の欄に、食事の予定を書き込む。
時刻、場所、待ち合わせの目印。
仕事の予定を記入する時と同じように丁寧に書いていると、ルシアンが少し笑った。
「本当に、何でもきちんと記録なさるのですね」
「忘れてしまうと困りますので」
「確かに、それはそうですが」
ルシアンは少し考えるような顔をした。
「もし当日、予定どおりにいかなかったらどうなさいますか」
セシルは顔を上げた。
「予定どおりに、ですか?」
「例えば、食堂が混んでいて入れなかった場合です」
「その場合は、別のお店を探す必要がありますね」
「ええ。では、どのお店へ行くかは、その時に決めましょう」
セシルは思わず手帳へ視線を落とした。
代わりのお店を、今のうちに調べておかなくてもよいのだろうか。
そんなことを考えていると、ルシアンが言った。
「アーデン嬢。これは仕事ではありませんから、多少予定が変わっても問題ありませんよ」
セシルは笑ってしまった。
「……私、また仕事のように考えていたのですね」
「私も似たようなものです。実は昨日から、どの店にするか少し悩んでいました」
「ヴェルナー様も?」
「ええ。普段は食事の場所を決めるだけで、こんなに考え込んだりしませんから」
彼は少し気まずそうに笑った。
その表情を見て、セシルの胸の奥が温かくなった。
自分だけが緊張しているわけではないのかもしれない。
「では、お互いに気負わずに楽しめればよいですね」
「そうですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのやり取りだけで、セシルは少し安心した。
会議室を出る時、ルシアンがふと思い出したように言った。
「そういえば、アーデン嬢」
「はい?」
「苦手な食べ物はありますか」
「特にはございません。強いて言えば、あまり辛いものは得意ではありませんが」
「分かりました。それなら問題ありません」
「ヴェルナー様は、何かお好きなものがございますか」
ルシアンは少し考えた。
「……肉料理でしょうか」
「意外です」
「そうですか?」
「もっと、軽いお料理を好まれるのかと思っておりました」
「仕事中は簡単に済ませることが多いですが、休みの日くらいはしっかり食べたいですから」
その返事に、セシルは思わず笑った。
「では、今度のお店では肉料理がおすすめなのですね」
「ええ。特に煮込み料理がおいしいですよ」
「楽しみです」
セシルは自然にそう答えていた。
ルシアンは少し嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見た時、セシルはほんの少しだけ、胸が落ち着かなくなった。
仕事の会議では、相手の表情を見て何を考えているのか判断しようとすることが多い。
けれど、今の彼の笑顔については、深く考えたくなかった。
ただ、自分が楽しみにしていることを、彼も喜んでくれている。
それだけで十分な気がした。
帰宅したセシルは、夕食の後、改めて衣装棚を開けた。
朝は何を着ていけばよいか分からなかったが、今は少し気持ちが違っている。
気取ったお店ではないのなら、普段より少しだけ明るい色の服を選んでみよう。
セシルは淡い青色のワンピースを取り出した。
王宮にいた頃は、公式行事の格式に合わせて服を選ぶことが多かった。自分が着たいものより、その場にふさわしいかどうかを優先していた。
けれど、今回は違う。
誰かに見せるためだけではなく、自分が気に入っている服を着たい。
そう思って選んだ一着だった。
鏡の前に立つと、いつもより少し柔らかな印象に見えた。
「……これなら、よいかしら」
誰に尋ねるわけでもなく呟いてから、セシルは服を大切にしまった。
机の上の手帳を開く。
今度の休日の欄には、昼前の待ち合わせと食事の予定が書かれている。
仕事ではない約束が、手帳に増えていく。
それを眺めていると、七年間当たり前だと思っていた生活が、少しずつ変わり始めていることに気づいた。
次の休日が来るのを、こんなに楽しみにしたことがあっただろうか。
セシルは手帳を閉じ、窓の外を見た。
明日も仕事はある。
覚えることも多いし、きっと失敗することもあるだろう。
それでも、仕事が終わった後には、自分のために過ごす時間がある。
そして今度の休日には、一緒に食事をしたいと思う相手がいる。
セシルは灯りを消し、寝台へ向かった。
早く次の休日になればよいのに。
そんなことを考えている自分が、少しおかしかった。




