第9話 二人で出した答え
休日明けの朝、セシルは少し早めに家を出た。
昨日は一日かけて街を歩き、気になった店に入ってみた。
古い書店で知らない国の料理について書かれた本を見つけ、菓子店では店員に勧められるまま季節の焼き菓子を買った。
最初は予定を決めずに歩くことが落ち着かなかったが、昼を過ぎる頃には、次にどの道を曲がるか考えることさえ楽しくなっていた。
仕事とは関係のない一日だった。
それなのに、今朝は妙に気分がよい。
セシルはそんな自分に少し驚きながら、財団本部へ向かった。
「おはようございます、アーデンさん」
「おはようございます」
事務室に入ると、隣の席の職員が笑顔で挨拶してくれた。
「休日はいかがでしたか?」
「はい。街を歩いてみました。まだ知らないお店が多くて、楽しかったです」
「それはよかったです。今度、おすすめの店もご紹介しますね」
「ぜひお願いいたします」
セシルが答えると、職員は少し驚いたように笑った。
「アーデンさん、最近よく笑うようになりましたね」
「……そうでしょうか」
「はい。最初の頃は、いつも難しい顔で書類を読んでいらしたので」
セシルは少し恥ずかしくなった。
自分では意識していなかったが、周囲から見ると随分と仕事ばかり考えていたらしい。
「まだ慣れないことも多いですが、少しずつ楽しくなってきました」
「それならよかったです」
職員はそう言ってから、机の上の書類を指した。
「実は、今日も相談したいことがあるんです」
セシルは椅子に座り、書類を受け取った。
北部の支援施設への輸送は、無事に進んでいる。
今回の相談は、その次に予定されている物資配分についてだった。
複数の施設から必要な物資の申請が届いているが、倉庫に保管されている数量では、すべての希望を同時に満たすことができない。
優先順位を決める必要がある。
「なるほど……」
セシルは資料に目を通した。
施設の規模、利用者の人数、現在の在庫、今後の納入予定。それぞれの事情が記されている。
王宮であれば、過去の配分記録を参考にして案を作成しただろう。
しかし、ここではそれだけでは不十分だと、今のセシルには分かっていた。
「まず、各施設の担当者から、現在の状況を詳しく聞いてみませんか」
「分かりました。では、こちらで連絡を取ります」
「お願いいたします。私は資料を整理して、比較しやすい形にまとめます」
二人は役割を分担して仕事を進めた。
午後には、各施設から追加の情報が届いた。
ある施設では、予定より利用者が増えていた。別の施設では、在庫は少ないものの、近隣から物資を融通してもらえる見込みがあるという。
セシルはその内容を一覧にまとめた。
数字だけを見ていた時とは、必要な優先順位が違って見える。
「これなら、緊急性の高い施設を先に支援できそうですね」
隣の職員が言った。
「はい。ただし、他の施設にも理由を説明する必要があります」
「そうですね。こちらで連絡してみます」
セシルは頷いた。
以前なら、説明文まで自分で作っていたかもしれない。
けれど、今は担当者が自分の言葉で事情を伝えることを大切にしたかった。
夕方、共同事業の確認会議が開かれた。
セシルは作成した資料を配り、今回の配分方針について説明した。
「こちらが、各施設の現在の状況です。単純に申請数に応じて配分するのではなく、緊急性と代替手段の有無を考慮する案を作成しました」
会議には財団の職員だけでなく、関係する行政機関の担当者も参加していた。
ルシアンも、外交局の立場から同席している。
セシルの説明が終わると、参加者の一人が手を上げた。
「この配分では、西部の施設への納入量が予定より減ることになりますね」
「はい。ただし、来月の追加納入を優先する案も合わせて検討しています」
「その説明で、施設側は納得しているのでしょうか」
セシルは隣の職員へ視線を向けた。
職員は頷き、手元の書類を開いた。
「施設側へは本日、事情を説明しています。現時点では、追加納入の時期が明確になれば協力できるという回答をいただいています」
「なるほど」
参加者たちは書類を確認し、議論を続けた。
その中で、ルシアンがひとつ質問した。
「追加納入の時期について、輸送側の見通しはありますか」
セシルは答えようとして、いったん言葉を止めた。
今朝の時点では、輸送担当者が確認中だと聞いている。
その後の状況は、まだ報告を受けていなかった。
「申し訳ございません。その点については、現在確認中です」
「分かりました。では、正式な配分の決定は、輸送側の回答を待ってからにしましょう」
ルシアンはそう言って、次の議題へ移った。
セシルは、少し不思議な気持ちになった。
以前なら、答えられないことがあると焦っていた。
しかし今は、分からないことを分からないと言っても、誰も責めない。
必要な確認を行い、後から決めればよい。
それだけのことなのだ。
会議が終わる頃には、窓の外が夕暮れの色に変わっていた。
セシルは資料を片づけ、事務室へ戻ろうとしたところで、ルシアンに声をかけられた。
「アーデン嬢」
「はい。何でしょう」
「今日の資料は、よく整理されていました」
「ありがとうございます。職員の方々が必要な情報を集めてくださいましたので」
「そのように役割を分担できたことも、今回の成果でしょう」
セシルは少し照れくさくなった。
褒められること自体は、王宮でも経験していた。
けれど、今の言葉は自分一人の仕事ぶりだけではなく、周囲との協力を評価してくれている。
「ヴェルナー様のご助言のおかげでもあります」
「私は、特別なことはしていませんよ」
「いいえ。私が今まで気づかなかったことを、教えていただきました」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「では、今度は私の方が学ぶ番かもしれませんね」
「ヴェルナー様が、ですか?」
「ええ。あなたのように、関係者の事情を丁寧に整理する方法は、私も参考になります」
セシルは驚いた。
ルシアンは仕事に厳しく、経験も豊富な人物だ。
そんな彼が、自分から学ぶことがあると言うとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
二人は一緒に建物を出た。
夕方の街は、仕事を終えた人々で賑わっている。
セシルはふと、休日に訪れた菓子店の前を通りかかった。
「あのお店、昨日入ってみたんです」
セシルが指差すと、ルシアンは店先を見た。
「そうでしたか。いかがでした?」
「とてもおいしい焼き菓子がありました。季節の果物を使っているそうです」
「それはよかったですね」
「はい。教えていただいたとおり、予定を決めずに歩いてみたら、思っていた以上に楽しくて」
セシルは自分の話が長くなっていることに気づき、少し慌てた。
「申し訳ございません。仕事とは関係のない話をしてしまって」
「構いませんよ」
ルシアンは穏やかに答えた。
「むしろ、そういうお話を伺う方が新鮮です」
「……そうでしょうか」
「ええ。あなたが楽しそうに話しているのを見るのは、私も嬉しいですから」
その言葉に、セシルは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
ルシアンは特に気にした様子もなく、通りの先を見た。
「そういえば、以前お約束した食事の件ですが」
「はい」
「今度の休日、お時間はありますか」
セシルは一瞬、返事を忘れた。
王宮を離れた時、自分から食事の話を持ち出したことを覚えてくれていたらしい。
それだけのことが、思った以上に嬉しかった。
「はい。特に予定はございません」
「では、よろしければ町の食堂へ行きませんか。仕事とは関係のないお店です」
セシルは笑った。
「それなら、私も仕事の話をしないように気をつけなくてはなりませんね」
「私も、ですね」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
こうして、次の休日に食事へ出かける約束が決まった。
セシルは家へ帰る道すがら、何度もそのことを思い出した。
誰かと食事をする約束なら、これまでにも数えきれないほどあった。
けれど、今回は違う。
相手の役職や公務の日程を考えて決めたものではない。
ただ、一緒に食事をしてみたいと思ったから、約束したのだ。
それが恋愛感情なのかどうか、セシルにはまだ分からない。
ただ、ルシアンと過ごす時間を楽しみにしていることだけは、確かだった。




