第8話 優秀な人ほど休むのが下手
北部の支援施設への輸送が予定どおり進み始めてから、財団の事務室には少しだけ余裕が生まれていた。
大きな問題が解決したわけではないが、関係者の認識が揃い、それぞれの担当者が仕事を進められるようになったことで、余計な確認が減ったのだ。
セシルはその変化を、少し不思議な気持ちで眺めていた。
自分が仕事を増やした時よりも、担当者同士で話し合ってもらった後の方が、全体の進み方がよくなっている。
以前なら考えられなかったことだった。
「アーデンさん、こちらの書類を確認していただけますか」
隣の席の職員が声をかけた。
「はい。どちらでしょう」
「来月の支援物資の配分表です。数字の合計が合っているかだけ見ていただければ」
「分かりました」
セシルは書類を受け取り、項目ごとに数字を確認した。
合計に問題はない。
以前なら、配分先の事情まで一通り確認していただろう。しかし今回は、依頼された範囲にとどめた。
「計算に間違いはありません。こちらでよろしいと思います」
「ありがとうございます」
職員は嬉しそうに書類を受け取った。
セシルは、その姿を見ながら少し笑った。
仕事を任せることにも、ようやく慣れてきたのかもしれない。
ただし、ひとつだけ問題が残っていた。
自分自身の休み方である。
財団では、決められた時間に仕事を終え、休日には原則として出勤しないことになっていた。
最初はその規則に驚いた。
王宮では、急な公務や行事が入れば予定を変更することが珍しくなかった。休みの日でも、連絡が届けば対応することがあった。
けれど、ここでは本当に仕事を終えて帰る。
そのことに慣れるまで、セシルは何度も机の上を確認し直していた。
「アーデンさん、もうお帰りにならないのですか」
夕方、隣の職員に尋ねられて、セシルは時計を見た。
終業時刻は、すでに過ぎている。
「もう少しだけ、明日の準備をしておこうと思いまして」
「明日は休日ですよ」
「……そうでした」
セシルは手元の書類を見下ろした。
明日は財団が休みの日だった。
仕事をしてはいけないわけではないが、急ぐ必要もない。
「お疲れ様でした。私は先に失礼しますね」
「はい。お疲れ様でした」
職員が帰っていくのを見送り、セシルも書類を片づけ始めた。
机の引き出しを閉めると、急にすることがなくなったような気がした。
明日は何をしよう。
王宮を辞めた翌日に一日休んだことはある。
しかし、その時も結局は今後の仕事について考えていた。
完全に何もしない日を過ごすのは、どうにも苦手だった。
建物を出ると、夕方の空気は少し冷たかった。
街路樹の葉が色づき始め、通りには仕事を終えた人々が行き交っている。
セシルはいつもの帰り道を歩きながら、近くの店先に並ぶ品物を眺めた。
花屋には季節の花が飾られ、菓子店からは甘い香りが漂ってくる。
どの店も気になる。
けれど、何を買いたいのかと聞かれると、すぐには思いつかない。
「アーデン嬢」
聞き覚えのある声に振り返ると、ルシアンが歩いてきた。
今日は外交局からの帰りらしく、手には書類の入った鞄を持っている。
「ヴェルナー様。お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日はお仕事が早く終わったのですね」
「はい。明日がお休みなので、少し早めに帰ることになりました」
「それはよかった」
ルシアンはそう言って、セシルの手元を見た。
「また書類を持ち帰っているのではありませんか」
「持っておりません」
セシルは少し得意げに答えた。
「今日は、明日の仕事の準備も途中でやめてきました」
「それは大きな進歩ですね」
「……子どもを褒めるような言い方ではありませんか」
「失礼しました。ですが、本当にそう思っていますよ」
ルシアンの口元が少し緩んだ。
セシルもつられて笑った。
「ところで、明日は何をなさる予定ですか」
「それが、まだ決まっておりません」
「おや。珍しいですね」
「ええ。予定を立てるのは得意なはずなのですが、自分の休日となると何をしてよいのか分からなくて」
ルシアンは少し考えた。
「では、街を歩いてみてはいかがですか」
「街を、ですか?」
「はい。この辺りには古い書店もありますし、季節の菓子を売る店もあります。何かを買わなくても、眺めるだけで楽しめると思いますよ」
「なるほど……」
セシルは真面目に頷いた。
「では、まず訪れる店を決めて、順番に回る予定を立てた方がよいでしょうか」
ルシアンは一瞬、返事をしなかった。
それから、少し困ったように笑った。
「アーデン嬢。休日の散歩に、そこまで綿密な計画は必要ありません」
「……そうでしょうか」
「むしろ、気になった店に入るくらいでよいと思います」
セシルは考え込んだ。
気になった店に入る。
それだけのことなのに、何か大切な準備を忘れているような気がする。
「私、予定を決めてから動くことに慣れすぎているのかもしれません」
「そうですね」
ルシアンはあっさり認めた。
「ただ、人のことを言える立場ではありません」
「ヴェルナー様も、ですか?」
「ええ。休日に何もしないで過ごすのは、私も苦手です」
セシルは驚いて顔を上げた。
「いつも余裕があるように見えますのに」
「余裕があるように見えるだけですよ。実際は、仕事のことを考えている時間も多いです」
「そうなのですね」
「ですから、休日の過ごし方については、私も偉そうなことを言えません」
ルシアンは少し恥ずかしそうに笑った。
その表情が、仕事中の彼とは違って見えた。
セシルは、以前から聞いてみたかったことを思い出した。
「あの、ヴェルナー様。以前、お仕事で失敗なさったことがあるとおっしゃっていましたね」
「ああ、あの話ですか」
「もし差し支えなければ、伺ってもよろしいでしょうか」
ルシアンは少し迷ったようだったが、やがて頷いた。
「昔、私がまだ外交局に入ったばかりの頃のことです」
彼は歩きながら話し始めた。
「初めて任された使節団の受け入れで、私はすべての準備を自分で確認しようとしました。会場、宿泊先、移動手段、食事の手配まで、担当部署があるにもかかわらず細かく口を出したのです」
「……私にも覚えがあります」
「でしょうね」
ルシアンは笑った。
「結果として、私は仕事を抱え込みすぎて、当日の重要な連絡を見落としました。担当者からの報告も、私の確認待ちで止まっていたのです」
「大変だったのですね」
「ええ。幸い大きな事故にはなりませんでしたが、上司から厳しく叱られました」
セシルは思わず尋ねた。
「その時、どのように立て直されたのですか」
「自分がすべてを管理するのをやめました。担当者を信じ、必要な情報を共有する仕組みに変えたのです」
ルシアンはセシルを見た。
「あなたに偉そうなことを言っているのは、同じ失敗をしたからでもあります」
セシルはしばらく黙っていた。
ルシアンが仕事に厳しい理由を、少しだけ理解できた気がした。
彼は最初から何でもできたわけではない。
失敗して、それを認め、やり方を変えてきたのだ。
「……ありがとうございます」
「何がですか?」
「お話を聞かせていただいて、少し安心しました」
「安心?」
「私だけが、仕事の進め方を変えられずにいるのかと思っていたので」
ルシアンは穏やかに微笑んだ。
「最初からうまくできる人の方が、少ないと思いますよ」
二人は通りの分かれ道まで歩いた。
セシルの借家は右手、ルシアンの帰宅先は左手の通りにある。
「では、私はここで」
「はい。お気をつけて」
別れようとして、セシルはふと思いついた。
「ヴェルナー様」
「はい?」
「もし、明日お時間がございましたら……」
言いかけて、セシルは少し迷った。
仕事以外の用事で人を誘うことに、まだ慣れていない。
「いえ、何でもありません」
ルシアンは不思議そうに首を傾げたが、無理に続きを尋ねることはなかった。
「では、よい休日を」
「ヴェルナー様も」
セシルは一礼し、家へ向かった。
部屋へ戻ると、机の上に手帳が置いてあった。
明日の欄は空白のままだ。
セシルはしばらくそのページを眺めてから、筆を取った。
『気になった店に入る』
それだけを書き込んで、手帳を閉じた。
細かな予定は、決めないことにした。
明日、街を歩いてみれば、何か面白いものが見つかるかもしれない。
そう考えると、休日が少し楽しみになった。




