第72話 揺れる邸内、揺れる王都
黒衣の一団が散開してから、邸内の空気はさらに重くなった。
誰も声を荒げていないのに、息をするだけで胸が圧迫されるような緊張が漂っている。
騎士団長が応接室へ戻ってきた。
その顔には、いつもの冷静さの奥に、わずかな焦りが滲んでいた。
「リリア殿。公爵邸の周りが……静かすぎる。」
「静か……?」
「ああ。奴らは歩いてるだけだ。何も仕掛けてこない。」
それは、攻撃よりも不気味だった。
何もしてこないということは、何かを“待っている”ということだ。
公爵が腕を組み、低く言った。
「リリア殿。奴ら、お前が外へ出る可能性を探ってるぞ。」
「外へ……?」
「そうだ。出入り口を一つずつ見て回ってる。まるで、どこから出るか予測してるみたいだ。」
胸の奥がざわつく。
黒衣の一団は、私を捕まえるためではなく、“接触”するために動いている。
その事実が、昨日までのどんな不安よりも重かった。
カイルが静かに口を開いた。
「彼らは、あなたが外へ出る理由を探しています。」
「理由……?」
「ええ。あなた自身が外へ出たくなる理由。あるいは、外へ出ざるを得ない状況。」
騎士団長が眉をひそめる。
「外へ出ざるを得ない状況って……具体的に何をする気だ。」
「それは分かりません。」
カイルは首を振った。
「ただ、彼らは“揺らす”ことが得意です。」
「揺らす……?」
「ええ。民の動き、騎士の動き、街の空気……そういったものを少しずつ変えて、あなたが外へ出る理由を作る。」
私は息を呑んだ。
「そんなこと……できるの?」
「できます。」
カイルは迷いなく言った。
「黒衣の一団は、魔法を使わずに状況を動かすことができる。だから厄介なのです。」
公爵が短く息を吐いた。
「魔法が弱まってる今、あいつらのやり方は……民にとっても騎士にとっても脅威だな。」
「ええ。」
カイルは静かに頷いた。
「魔法が弱まっているからこそ、彼らの“静かな動き”が際立つのです。」
騎士団長が私の前に立つ。
「リリア殿。絶対に外へ出てはいけない。奴らの思うつぼだ。」
「……分かった。」
けれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。
黒衣の一団は、ただ歩いているだけ。
ただ立ち止まり、ただ邸を見ているだけ。
それなのに、邸内の空気は、昨日とはまるで別物だった。
騎士たちの足音はいつもより静かで、声は短く、必要最低限しか発されない。
誰もが“何かが起きる”ことを予感している。
公爵が窓の方へ歩き、外を見ようとするが、カーテンが閉じられているため何も見えない。
「……見えなくても、空気が変わってるのは分かるな。」
「ええ。」
カイルが答える。
「黒衣の一団は、存在するだけで空気を変えます。」
私は思わず問いかけた。
「どうして……そんなことができるの。」
「彼らは、魔法ではなく“技術”で動いています。」
カイルは静かに言った。
「魔法が弱まっている今でも、影のように動ける。」
「影……。」
「ええ。気配を薄め、音を消し、ただ存在する。だから、民は恐怖し、騎士は警戒し、あなたは外へ出られなくなる。」
騎士団長が低く言う。
「つまり……奴らは攻撃しなくても、十分に脅威ってことだな。」
「その通りです。」
公爵が私を見た。
「リリア殿。あなたがここにいるだけで、王都の空気が揺れてる。」
「……私が?」
「そうだ。民はあなたを希望として見てる。黒衣の一団は鍵として見てる。王宮は沈黙してる。」
公爵は短く息を吐いた。
「王都は、お前を中心に動き始めてるんだ。」
胸の奥が痛む。
私が民の前で魔法を消したあの日。
あの瞬間から、私は“ただの令嬢”ではなくなった。
カイルが静かに言った。
「リリア様。黒衣の一団は、あなたが外へ出るのを待っています。」
「……出ない。」
「ええ。それが正しい判断です。」
しかし、黒衣の一団は、ただ待つだけの存在ではない。
彼らは、必ず“次の手”を使う。
その予感が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
邸内の空気が張り詰めたまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
誰も大きな声を出さない。
騎士たちの動きは慎重で、足音さえ抑えられていた。
その静けさを破ったのは、廊下から駆け込んできた騎士の声だった。
「公爵!門の前に人が集まり始めました!」
公爵が振り返る。
「人って……民か?」
「はい!黒衣の一団を見たらしく、邸の前まで来ています!」
胸が跳ねた。
黒衣の一団が散開した直後に民が集まる。
偶然とは思えない。
騎士団長が応接室へ戻り、私の前に立った。
「リリア殿。外は騒がしくなってきた。」
「騒がしい……?」
「民が増えてる。“リリア様は無事か”って声が多いらしい。」
公爵が腕を組んだ。
「黒衣の一団がいるのに、よく来るな……。」
「恐怖よりも、リリア殿への心配が勝っているようです。」
騎士団長は続けた。
「それだけじゃありません。“話を聞きたい”“魔法が弱まる中でどうすればいいのか”という声もあります。」
私は息を呑んだ。
「……私に、聞きたいことがあるの?」
「そうだ。」
公爵が腕を組む。
「あなたが魔法を消したあの日から、民の考え方が変わってきてる。」
「変わって……?」
「魔法に頼らない生き方を探す連中が出てきてるんだよ。」
騎士団長が補足する。
「王都のあちこちで、“魔法を使わない生活を試す集まり”が増えていると報告がありました。」
私は言葉を失った。
「そんな……ことが起きてるの?」
「起きてる。」
公爵は静かに言った。
「黒衣の一団とは関係ない。民自身が動き始めてる。」
カイルがゆっくりと口を開いた。
「あなたの力が、民の価値観を変えたのです。」
胸の奥が痛む。
私が魔法を消したあの日。
あの瞬間から、民は“魔法がなくても生きられるのではないか”と考え始めたのだ。
騎士団長が続けた。
「民は黒衣の一団を怖がってるわけじゃない。むしろ……あなたを守ろうとしてるように見える。」
「守る……?」
「ああ。“リリア様に何かあったら困る”って声が多い。」
公爵が深く息を吐いた。
「黒衣の一団は民に手を出してない。民の動きを見てるだけだ。」
「見てる……?」
「そうだ。民がどう動くか、お前がどう反応するか……全部観察してる。」
カイルが静かに言った。
「彼らは、民の存在を利用しようとしています。」
私は息を整えようとしたが、胸の奥のざわつきは強くなるばかりだった。
「民を……利用?」
「ええ。」
カイルは頷いた。
「民が増えれば、あなたは外へ出たくなる。民の声を聞きたくなる。彼らはそれを待っています。」
公爵が私の肩に手を置いた。
「リリア殿。外へ出るな。今出たら……黒衣の一団が動く。」
「……分かっています。」
けれど、邸の外から聞こえる民の声は、胸の奥を強く揺らした。
“リリア様は無事なのか”
“話を聞きたい”
“魔法が弱まる中でどうすればいいのか”
その声は、黒衣の一団の沈黙よりも重く響いた。
民は恐れていない。
民は逃げていない。
民は、私を求めている。
その事実が、黒衣の一団の存在よりも、ずっと重かった。
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