第5話 魔物の異常発生 その2
街道を離れてしばらく歩くと、風の流れが急に変わった。
さっきまで一定の方向へ吹いていたはずなのに、今は渦を巻くように乱れている。
木々の葉が不自然な方向へ揺れ、枝がきしむ音が耳に届いた。
「……風が迷ってる」
呟いた声は、ざらついた空気に吸い込まれていった。
魔力が乱れると、風は方向を失う。
その乱れ方は、魔物が近くにいるときとは違う。
もっと広範囲で、もっと深い。
私は街道から少し外れ、森の方へ足を向けた。
街道の先に魔物の群れが現れたばかりだ。
同じ方向へ進めば、また同じような群れに遭遇する可能性が高い。
だが、森の方は、風の乱れがさらに強い。
「……こっちの方が危険ね」
そう思いながらも、私は森へ入った。
魔力の乱れが強い場所ほど、何が起きているのか確かめる必要がある。
森の中は、街道よりも静かだった。
鳥の声も、虫の音もない。
ただ、風が木々を揺らす音だけが響いていた。
その風が、妙に重い。
森の奥へ進むほどに、空気の密度が増していく。
息を吸うたびに、胸の奥がざらりとする。
「……魔力が溜まってる?」
魔力は本来、空気中に均一に広がる。
だが今は、森の奥へ向かうほど濃くなっている。
まるで、何かが魔力を引き寄せているようだった。
しばらく進むと、地面がわずかに盛り上がっている場所に出た。
そこだけ、土が膨らんでいる。
「……地形が変わってる?」
私は膨らんだ土に近づいた。
触れようとした瞬間。
地面が、呼吸した。
「……っ!」
土がゆっくりと上下に動いた。
まるで、生き物の胸が上下しているように。
私は反射的に後退した。
地面が呼吸するなど、普通ではありえない。
次の瞬間、膨らんだ土の表面に亀裂が走った。
ぱきっ。
乾いた音が森に響く。
亀裂はゆっくりと広がり、土が崩れ落ちた。
その下から、光が漏れた。
「……魔力?」
土の中に、魔力の塊が埋まっていた。
淡い青い光が脈打つように明滅している。
魔力は本来、形を持たない。
だが今は、地面の中で固まり、脈動している。
「魔力が……凝縮してる?」
私はゆっくりと手を伸ばした。
触れた瞬間、光が一気に強くなった。
そして、魔力が弾けた。
青い光が周囲に散り、風が一瞬止まった。
その光は、私の手に触れた瞬間に消えた。
魔力の塊が消えたことで、地面の呼吸も止まった。
膨らんでいた土はゆっくりと沈み、元の形に戻っていく。
「……魔力の暴走が、地形にまで影響してるのね」
魔物が暴れるだけではない。
魔力そのものが暴走し、地面を押し上げ、形を変えていた。
森の奥から、かすかな音が聞こえた。
ざ……ざ……
草を踏む音。
複数の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「……魔物じゃないわね。この気配は」
魔物の気配は、もっと荒々しく、もっと濃い。
今近づいているのは、魔物ではない。
私は木々の間を見つめた。
そこから現れたのは、兵士だった。
「……兵士?」
鎧は傷だらけで、息は荒い。
数人の兵士が森の奥からふらふらと歩いてきた。
「た、助けて……」
「魔力が……森が……」
兵士たちは私を見ると、崩れ落ちるように膝をついた。
「どうしたの?」
私は兵士の一人に近づいた。
兵士は震える声で答えた。
「森の奥で……魔力が……爆ぜたんです……!」
「爆ぜた?」
「地面が……割れて……魔力が噴き出して……!」
兵士の声は震えていた。
その恐怖は、魔物に襲われたときのものとは違う。
「魔力そのものが……攻撃してくるんです……!」
魔力が攻撃。
私は息を呑んだ。
「魔法障壁が弱まると、魔力が形を持つことはある。でも……攻撃性を持つなんて」
兵士は必死に続けた。
「森の奥に……もっと大きな魔力の塊が……!あれが……また爆ぜたら……街まで……!」
私は空を見上げた。
空は濁り、風は重く、森は静まり返っている。
「……魔力の暴走は、まだ続くわね」
兵士たちは震えながら私を見た。
「リリア様……どうか……」
「街が……」
「王城は……何も……!」
私は静かに言った。
「王城は、魔力の暴走を止められないわ」
兵士たちは絶望したように顔を伏せた。
「でも」
私は森の奥を見つめた。
「魔力の暴走を消すことはできる」
兵士たちが顔を上げた。
「リリア様……!」
「助けていただけるんですか……!」
私は首を横に振った。
「助けるつもりはないわ。ただ……魔力が暴れているのを放置するのは、私自身が気持ち悪いだけ」
兵士たちは言葉を失ったが、やがて静かに頷いた。
「……それでも……十分です」
私は森の奥へ向かって歩き出した。
「魔力の暴走が地形を変えるほどなら……次はもっと大きいわね」
風が、ひどく重く揺れた。
私は森の奥へ進んだ。
風が、迷いを払うように私の背を押した。
森の奥へ進むほどに、空気の色が変わっていくように感じた。
光は差し込んでいるはずなのに、どこか薄暗い。
木々の影が伸び、地面の模様がゆらゆらと揺れて見える。
風は背中を押したまま、方向を変えずに吹き続けていた。
まるで、森の奥へ進むことを促しているようだった。
兵士たちの足音は、もう聞こえない。
彼らは森の入口で待つと言っていた。
無理もない。
魔力の暴走は、魔物よりも予測が難しい。
私は一人で森の奥へ進んだ。
しばらく歩くと、空気の密度がさらに増した。
息を吸うたびに胸が重くなる。
魔力が濃すぎる場所では、魔法を使える者ほど苦しくなる。
だが、私には魔力が流れていない。
そのおかげで、こうして歩けている。
「……ここね」
森の中央に、ぽっかりと空間が開けていた。
木々が円を描くように倒れ、地面には黒い焦げ跡が広がっている。
まるで巨大な火球が落ちたような跡だが、焼けた匂いはしない。
代わりに、魔力の匂いがした。
魔力は本来、匂いを持たない。
だが、暴走した魔力は、空気を焦がすような独特の匂いを生む。
その匂いが、ここには満ちていた。
「……魔力の爆心地」
私はゆっくりと中心へ歩いた。
地面はひび割れ、ところどころ盛り上がっている。
兵士たちが言っていた“魔力の爆ぜた跡”だ。
中心に近づくほどに、空気が重くなる。
まるで、見えない手が胸を押しているようだった。
その中心に、何かがあった。
「……これは」
地面に、黒い球体が転がっていた。
拳ほどの大きさで、表面は滑らか。
しかし、触れなくても分かるほど強い魔力を放っている。
魔力の塊が、完全に固まったものだ。
私はゆっくりと近づいた。
球体は、脈打つように光を放っている。
青でも赤でもない。
黒い光だ。
「魔力が……黒く濁ってる?」
魔力は通常、色を持たない。
魔法として使われるときに属性の色がつくが、魔力そのものは透明だ。
それが黒く濁るということは。
「……魔力が腐ってる」
魔力が腐る。
そんな現象は、古い文献でしか読んだことがない。
魔法障壁が極端に弱まり、魔力の流れが完全に乱れたときにだけ起きる現象。
王国の魔力が、腐り始めている。
私は球体に手を伸ばした。
触れた瞬間。
球体が震えた。
「……っ」
黒い光が一気に広がり、周囲の空気が揺れた。
風が止まり、森が静まり返る。
次の瞬間、球体が割れた。
ぱん、と乾いた音が響き、黒い光が霧のように散った。
その霧は私の手に触れた瞬間、跡形もなく消えた。
球体は完全に崩れ、ただの黒い砂になった。
「……魔力の腐敗まで消えるのね」
魔力の暴走だけでなく、腐敗した魔力まで消える。
私の体質は、魔法を消すだけではない。
魔力そのものを“正常化”する力がある。
王城は、それを理解しようとしなかった。
私は黒い砂を見つめた。
その砂は、風に吹かれてゆっくりと散っていく。
そのとき、森の奥から、低い唸り声が聞こえた。
「……魔物?」
魔力の腐敗に引き寄せられたのだろう。
森の奥で、何かが動いている。
私はゆっくりと振り返った。
木々の間から、獣のような影が現れた。
だが、さっきの魔物とは違う。
体表が黒く濁り、魔力の膜が歪んでいる。
腐敗した魔力を吸い込んだせいで、形が崩れかけている。
「……魔力汚染個体」
魔力が腐敗したときにだけ現れる、異常個体。
通常の魔物よりも不安定で、暴走しやすい。
魔物は私を見て、一瞬動きを止めた。
赤い瞳が揺れ、体が震える。
私は静かに手を伸ばした。
「来るなら、来なさい」
魔物が地面を蹴り、こちらへ向かって突進してきた。
その動きは不規則で、まるで酔っているようだった。
魔物が私に触れた瞬間。
魔力が消えた。
黒く濁っていた体表が一気に透明になり、魔物はその場で崩れ落ちた。
腐敗した魔力が消えたことで、魔物はただの獣に戻ったのだ。
獣は弱々しく鳴き、森の奥へ逃げていった。
「……腐敗した魔力まで消えるなら、まだ間に合うかもしれない」
私は森の中心を見渡した。
黒い砂は風に散り、森の空気は少しだけ軽くなっている。
だが。
「王国全体がこうなったら、もう手遅れね」
魔力の腐敗は、魔法文明の崩壊を意味する。
魔法道具は動かず、魔物は暴走し、魔法障壁は消える。
王国は、私を捨てたことで、その未来を選んだ。
森の奥から、兵士たちの声が聞こえた。
「リリア様ー!大丈夫ですかー!」
「森が……静かになった……?」
私は振り返り、森の入口へ向かって歩き出した。
風が、進むべき方向をそっと示していた。
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