第40話 静かに近づく影
廊下を離れ、応接室へ戻る途中、胸の奥に妙な違和感が残っていた。
窓から見た一団の姿、あれはただ待っているだけではない。
何かを示している。
そんな気配が、言葉にならないまま心の奥に引っかかっていた。
応接室の扉を開けると、公爵が机の前で地図を広げていた。
その周囲には、見張りの騎士が二名控えている。
「戻ったか、リリア殿」
「はい……」
公爵は地図から視線を上げた。
「外の様子を見て、何か気づいたことはあるか」
私は少し考え、ゆっくりと口を開いた。
「……あの人たち、ただ待っているだけじゃない気がします」
「ほう」
「姿勢が……“示している”ように見えました。何かを伝えようとしているような……そんな感じがしました」
公爵は腕を組み、深く頷いた。
「私も同じ印象を受けている。あの者たちは、ただの兵ではない。儀礼の作法を心得ている者の動きだ」
「儀礼……」
「王都の式典で使われるものに近い。膝をつく位置、布の持ち方、手の角度、どれも“教えられた者”の動きだ」
私は思わず息を呑んだ。
「じゃあ……やっぱり、使者なんですか」
「その可能性は高い」
公爵は地図の端を指で押さえた。
「問題は、誰の使者かだ。王都の者なのか、別の勢力なのか。それによって対応が大きく変わる」
その言葉は、胸の奥に新しい緊張を生んだ。
そのとき、応接室の扉が再び叩かれた。
「閣下、報告を!」
騎士が駆け込んできた。
息は荒くない。
だが、目が鋭い。
「言え」
「中心の者が……布を少しだけ持ち上げました」
「持ち上げた?」
「はい。胸の前に抱えていた布を、ほんのわずかですが上へ。中に何かを隠しているような動きです」
公爵の表情が変わった。
「隠している……?」
「見張りの者が言うには、布の内側に“別の印”がある可能性が高いと」
私は思わず騎士のほうへ向き直った。
「別の印……?」
「はい、リリア様。布の裏側に、何か光るものが見えたと」
公爵はすぐに指示を出した。
「距離は保て。決して近づくな。ただし、視線を逸らすな」
「はっ!」
騎士は走り去った。
応接室に再び静けさが戻る。
だが、先ほどまでの静けさとは違う。
空気がわずかに震えているような、そんな緊張が漂っていた。
「リリア殿」
「……はい」
「布の裏側に“光る印”があるとすれば、それはあなたの力と関係している可能性がある」
胸の奥が強く熱を帯びた。
「……私の、力と」
「そうだ。あなたが使う光は、王都でも珍しい。それを知る者は限られている」
公爵は机の端に手を置き、静かに続けた。
「もしその印が、あなたの力を象徴するものなら、あの者たちは、あなたを“探し当てた”ということになる」
私は言葉を失った。
探し当てた。
その響きは、胸の奥に重く落ちた。
「……公爵様」
「なんだ」
「その印……見たいです」
公爵は驚いたように目を細めた。
「見たい?」
「はい。怖い気持ちはあります。でも……確かめたいんです。あの人たちが何を持っているのか。どうして私を呼ぶのか」
公爵はしばらく黙り、私の目を見つめた。
その視線は、試すようでもあり、支えるようでもあった。
「……分かった」
その一言は、空気を変えた。
「ただし、窓からだ。外へ出ることはしない。騎士を増やす。危険があればすぐに引き戻す」
「はい」
公爵は扉のほうへ向き、控えていた騎士に指示を出した。
「リリア殿を見張り窓へ。外の布の動きを確認する。周囲の警戒を最大にしろ」
「承知しました!」
騎士が先導し、私は再び廊下へ出た。
廊下の空気は、先ほどよりもさらに張りつめていた。
騎士たちの視線は鋭く、侍女たちは息を潜めている。
窓の前に立つと、遠くの景色が見えた。
街の外側、その向こうに、一団が整列している。
中心の者は膝をつき、布を抱え、片手を地面につけていた。
そして、布の内側から、かすかに光が漏れていた。
「……光ってる」
思わず声が漏れた。
騎士が小さく頷いた。
「はい。見張りの者も同じ報告をしています。布の裏側に、何か光る印があるようです」
私は窓枠を握りしめた。
その光は、私が使う光と同じ色だった。
胸の奥で、何かが静かに形を持ち始めた。
外の一団は、ただ静かに、その光をこちらへ向けていた。
展望台の風は冷たかった。
けれど、胸の奥の熱はそれを打ち消すほど強かった。
外の一団は整列したまま動かない。
中心の者だけが布を掲げ、その裏側の紋章を光らせている。
淡い光が規則的に明滅し、まるで心臓の鼓動のように見えた。
「リリア殿」
公爵が横に立ち、外を見つめたまま言った。
「紋章の光が強くなっている。こちらの反応を促している可能性がある」
「反応……」
「そうだ。儀礼では、相手が見たあとに“次の段階”へ進むことがある」
私は息を呑んだ。
「次の段階って……何をするんですか」
「それは分からん。だが」
公爵が言いかけたその瞬間。
「閣下!一団の後列が……!」
騎士が声を上げた。
「後列の者たちが、立ち上がりました!」
「立ち上がった?」
「はい!中心の者を囲むように、円を作っています!」
私は展望台の手すりに手を置き、身を乗り出した。
一団の後列が、整然と立ち上がり、中心の者を囲むように円を描いていた。
その動きは乱れなく、まるで訓練された儀式のようだった。
「……囲んでる」
「儀礼の“守りの円”だな」
公爵が低く言った。
「中心の者を守りつつ、次の動きを準備する形だ」
「次の動き……」
胸の奥が強く熱くなった。
そのとき、中心の者が布をゆっくりと下ろした。
「閣下!布を……!」
「見えるか、リリア殿」
「……はい」
布の裏側の紋章が完全に露わになった。
淡い光が紋章の線をなぞり、輪郭を浮かび上がらせている。
その光は、私が力を使うときに手のひらに浮かぶ模様とほとんど同じだった。
「……これ、私の紋章と……」
「似ているな」
公爵の声は低く、慎重だった。
「リリア殿。あの者たちは、あなたの力を“知っている”」
「知っている……」
「あなたの力を研究していた者たちが、記録を持っている可能性がある」
私は言葉を失った。
そのとき、中心の者が、ゆっくりと両手を広げた。
「閣下!中心の者が……!」
「両手を広げた?」
「はい!紋章を掲げたまま、両手を左右に広げています!」
私は展望台の手すりを握りしめた。
「……あれ、何の動きですか」
「“受け入れの姿勢”だ」
公爵が即答した。
「儀礼では、相手を迎える意思を示すときに行う。敵意がないことを示す最も強い動きだ」
「迎える……?」
「そうだ。あの者たちは、あなたを迎える準備をしている」
胸の奥が強く締め付けられた。
「……どうして、私なんですか」
「それを知るために、我々は動かねばならない。だが、外へ出るのはまだ早い」
公爵は騎士へ指示を出した。
「見張りを強化しろ。中心の者の動きを細かく報告しろ。距離は絶対に保て」
「はっ!」
騎士が走り去った。
展望台の空気は、先ほどよりもさらに張りつめていた。
風の音さえ、緊張を帯びているように感じた。
「リリア殿」
「……はい」
「あなたは、あの紋章に反応した。それは重要だ」
「反応……」
「あなたの力は、必要なものに反応する。あの光は、あなたの力と同じ性質を持っている可能性がある」
私は紋章を見つめた。
淡い光が、規則的に明滅している。
まるで呼吸しているように。
「公爵様……あれ、私の力と同じなら……」
「無関係ではない」
公爵は静かに言った。
「リリア殿。あなたがあの光を見たいと言ったのは、正しい判断だ」
「正しい……?」
「恐怖ではなく、理解しようとしている。それは、あなた自身の意思だ」
私は少しだけ視線を落とした。
「……知りたいんです。あの人たちが何を持っているのか。どうして私を呼ぶのか」
「その気持ちがあるなら、止めはせん」
公爵は展望台の手すりに手を置き、外を見つめた。
「リリア殿。あの者たちは、あなたの反応を待っている」
「反応……」
「そうだ。あなたがどう動くか、それを見ている」
私は紋章を見つめたまま、息を吸った。
そのとき、一団の後列が、ゆっくりと両手を胸の前へ重ねた。
「閣下!後列が……!」
「胸の前に手を重ねた?」
「はい!中心の者に合わせるように、全員が同じ動きをしています!」
公爵が低く言った。
「“誓いの姿勢”だ」
「誓い……?」
「そうだ。儀礼では、相手へ忠誠を示すときに行う。あの者たちは」
公爵は言葉を区切り、私のほうへ向き直った。
「リリア殿。あの者たちは、あなたへ忠誠を示している可能性がある」
私は言葉を失った。
「……忠誠……?」
「そうだ。あなたの力を必要としている者たちが、あなたを探し当てた。そして今、あなたへ忠誠を示している」
胸の奥が強く熱くなった。
「公爵様……私、どうすれば」
「それを決めるのは、あなた自身だ」
公爵は静かに言った。
「だが、今はまだ動く段階ではない。あの者たちが何者なのか、何を求めているのか、それを見極める必要がある」
私は紋章を見つめた。
淡い光が、規則的に明滅している。
まるで私の心臓の鼓動と同じリズムで。
外の一団は、ただ静かに、紋章を掲げていた。
その姿は、敵意ではなく、ただひたすらに“忠誠”だった。
胸の奥で、何かが形を持ち始めていた。
恐怖ではない。
期待でもない。
ただ、“向き合わなければならない何か”が、確かにそこにあった。
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