第39話 布に刻まれた言葉
朝の光が廊下の床を淡く照らしていた。
公爵邸は静かだったが、その静けさは昨日までのものとは違う。
空気の底に、薄い緊張が沈んでいる。
騎士たちの足音が、いつもより重く響いていた。
誰もが外の一団を意識している。
その気配は、邸内のどこにいても感じられた。
私は自室の窓から外を見ていた。
遠くの街の外側は朝日を浴びて穏やかに見える。
けれど、その向こうに一団がいると思うと、胸の奥が冷たくなる。
昨日の報告、布に書かれた文字の一部が読めたという話。
“求む”という言葉。
その続きが何なのか。
誰を求めているのか。
考えるたびに胸が締め付けられる。
そのとき、廊下から急ぎ足の音が聞こえた。
扉が軽く叩かれ、侍女の声がした。
「リリア様、公爵様がお呼びです」
「……分かりました」
胸の奥が強く揺れた。
何か新しい報告があったのだろうか。
廊下に出ると、騎士たちの表情がいつもより硬い。
視線は窓の外へ向けられ、誰もが緊張している。
応接室の扉を開けると、公爵が窓際に立っていた。
朝の光を背にしているその姿は、いつもより影が濃く見えた。
「来たか、リリア殿」
「……何か、ありましたか」
公爵はゆっくりと振り返り、私のほうへ歩み寄った。
その表情は落ち着いているが、目の奥にわずかな鋭さが宿っている。
「布の文字が、ほぼ判明した」
胸の奥が跳ねた。
「……全文、ですか」
「ああ。見張りの者が、風の合間に読み取った」
公爵は短く息を吐き、言葉を続けた。
「布には、“求む。光を扱う者”と書かれていた」
その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。
息が少し詰まる。
「……光を扱う者」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
公爵は私の反応を静かに見つめていた。
「騎士たちは、あなたを指しているのではないかと考えている」
その言葉は、胸の奥に冷たい波を広げた。
「……私、ですか」
「可能性は高い。だが、断定はできない。“光”という言葉が何を指すのか、彼らの意図はまだ分からない」
公爵の声は落ち着いていたが、私の心は落ち着かなかった。
「どうして……どうして私を……」
「理由はまだ分からない。だが、敵意は感じられない。一団は整列したまま動かず、攻撃の気配もない」
公爵は窓の外へ視線を向けた。
「ただ、呼び出しているのは確かだ」
その言葉は、胸の奥に重く響いた。
「……私、どうしたら」
「リリア殿は、何もしなくていい」
公爵は静かに言った。
「状況が動いている。心が揺れるのは当然だ。あなたの意思を無視して連れて行かれるようなことは、私が許さない」
その言葉は温かかった。
けれど、胸の奥の揺れは止まらなかった。
「街の人たちは……どう思っているんでしょうか」
「噂は広まっている。だが、街の者たちはあなたを恐れてはいない。広場での出来事があるからな」
公爵は少しだけ目を細めた。
「あなたが誰かを傷つけなかったこと。むしろ、危険を止めたこと。それが街の者たちの心に残っている」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
けれど、その温度に不安が混ざっていく。
「……でも、王都の人たちは……」
「王都でどう扱われたかは、今のあなたとは関係がない」
公爵の声は静かで、揺れを支えるような響きだった。
「あなたはここで受け入れられた。それが事実だ」
その言葉は胸の奥に深く沈んだ。
そのとき、応接室の扉が叩かれた。
「閣下、報告です!」
騎士が駆け込んできた。息が荒く、額には汗がにじんでいる。
「どうした」
「一団は布を掲げたまま、整列を維持しています。ただ……前に立つ者が、こちらへ向けて手を上げました」
「手を上げた?」
「はい。合図のように見えます。攻撃の構えではありません」
公爵は短く考え、騎士へ指示を出した。
「距離は保て。こちらから動く必要はない。様子を見ろ」
「はっ!」
騎士は深く頭を下げ、走り去った。
応接室に再び静けさが戻る。
けれど、その静けさは緊張を含んでいた。
公爵は私のほうへ向き直る。
「リリア殿。何があっても、あなたはここにいていい」
その言葉は胸の奥に温かく広がった。
けれど、心の揺れは止まらなかった。
「……光を扱う者って、私のことなんでしょうか」
「断定はできない。だが、彼らがあなたを呼んでいる可能性はある」
「……もし、そうだとしたら」
「その時は、あなたの意思を最優先にする。強制はさせない」
公爵の声は静かで、揺れを支えるような響きだった。
自分の未来をどうするか、その問いが、急に現実味を帯びて迫ってくる。
窓の外では、布が風に揺れていた。
そこに刻まれた言葉は、まるでこちらの返事を待っているかのように、陽の光を受けて淡くきらめく。
“光を扱う者”。
その文字が自分を指しているのかどうか、確信はない。
けれど、無関係だと言い切れるほど鈍感ではなかった。
公爵はしばらく窓の外を見つめていた。
遠くに見える一団は、膝をついたまま動かない。
布を抱え、片手を差し出している姿は、まるで静止した彫像のようだった。
「リリア殿」
呼ばれて振り向くと、公爵の表情はいつもより厳しかった。
「外の者たちが何を望んでいるのか、その判断材料が、少しずつ揃ってきた」
「……判断材料、ですか」
「そうだ。彼らは武器を構えず、距離を保ち、姿勢を低くしている。こちらへ圧力をかける意図は見えない」
公爵はゆっくりと歩き、机の前で立ち止まった。
「つまり、急いで決断を迫られる状況ではない。こちらがどう動くかを見ているだけだ」
その言葉は、胸の奥に別の重さを落とした。
“揺れ”ではなく、何かが静かに沈んでいくような感覚。
「……私が出ていく必要は、今はないんですね」
「必要があるかどうかは、状況が示す。今はまだ、その段階ではない」
公爵は淡々と言った。
慰めでも励ましでもなく、ただ事実を述べる声だった。
「リリア殿」
「はい」
「あなたがどう動くかは、こちらの対応にも影響する。だからこそ、焦らずに状況を見てほしい」
“焦らずに”。
その言葉は、胸の奥に少しだけ呼吸の余裕を作った。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
扉が叩かれ、騎士の声が響く。
「閣下、追加の報告です!」
「入れ」
騎士が駆け込んできた。
息は荒いが、目は冷静だった。
「中心に立つ者が……布を抱えたまま、地面に片手をつきました」
「片手を?」
「はい。膝をついた姿勢からさらに体を低くし、こちらへ向けて頭を深く下げています。見張りの者たちは“嘆願の姿勢”だと判断しています」
嘆願。
その言葉が胸の奥に刺さった。
「……嘆願、なんですか」
「敵意ではありません。むしろ、こちらへ強い敬意を示しているように見えます」
公爵は短く息を吐いた。
「距離は?」
「変わりません。整列している者たちも動かず、武器を構える気配もなし」
「分かった。監視を続けろ。こちらは静観する」
「はっ!」
騎士は頭を下げて退室した。
応接室に再び静けさが戻る。
けれど、その静けさは先ほどよりも重かった。
公爵は窓の外を見つめたまま言った。
「リリア殿。あの者たちは、あなたを脅しているわけではない。それは確かだ」
「……でも、私を呼んでいるように見えます」
「呼んでいるのだろう。ただし、強制する意図はない」
公爵はゆっくりとこちらへ向き直った。
「あなたがどうするか、それは、あなたが決めることだ」
その言葉は、以前のような慰めではなかった。
選択を押しつけるでもなく、放り出すでもなく、ただ“責任を渡す”ような響きだった。
胸の奥が静かに熱くなる。
迷いではなく、何かが形を持ち始めるような感覚。
「……私、少しだけ外を見てもいいですか」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
公爵は驚いたように目を細めたが、すぐに頷いた。
「構わない。ただし、騎士を同行させる。危険はないが、念のためだ」
「……はい」
公爵は扉のほうへ向き、控えていた騎士に指示を出した。
「リリア殿を窓のある廊下まで案内しろ。外の様子を確認したいそうだ」
「承知しました」
騎士が先導し、私は応接室を出た。
廊下を歩くと、空気がさらに張りつめているのが分かった。
騎士たちは窓の外を見張り、侍女たちは声を潜めて動いている。
窓の前に立つと、遠くの景色が見えた。
街の外側、その向こうに、一団が整列している。
中心の者は膝をつき、布を抱え、片手を地面につけていた。
その姿は、敵意ではなく、ただひたすらに“願い”だった。
胸の奥が静かに震えた。
恐怖ではなく、別の感情だった。
何を求めているのか。
なぜ自分なのか。
その答えはまだ分からない。
けれど、あの姿勢は、確かにこちらへ向けられていた。
騎士がそっと声をかけた。
「リリア様……戻られますか」
「……はい」
私は窓から目を離し、ゆっくりと歩き出した。
外の一団は、静かに、ただ静かに、こちらの反応を待っていた。
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