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第38話 静けさを破る旗の影

 翌朝、公爵邸は妙に静かだった。

いつもなら朝食の準備で侍女たちの足音が軽やかに響くはずなのに、今日はその気配が薄い。

廊下に出ると、空気が張りつめているのがすぐに分かった。


 騎士の数が増えている。

配置も昨日までとは違う。

ただ立っているのではなく、何かを見張っているような、そんな緊張が漂っていた。


 私はゆっくり歩きながら、騎士たちの様子を観察した。

彼らは私を見ると静かに頭を下げるが、その視線はすぐに窓の外へ戻る。

まるで、外に何かがあるのを警戒しているようだった。


「……まだ、いるんだ」


 小さく呟いた声は、誰にも聞こえないほど弱かった。


 昨日、公爵が言った言葉が頭の中で反響する。


『街の外に、一団が留まっている』


 その一団が、今も動かずに外へ留まっている。

ただそこにいるだけなのに、邸内の空気はこんなにも変わってしまう。


 廊下の角を曲がると、侍女たちが集まっていた。

手に持つ布や道具がいつもより多い。

掃除というより、何かの準備をしているような雰囲気だった。


「……あの一団、まだ動かないんですって」


「でも人数が増えてるらしいわよ」


「旗も持ってるって……王都の紋章じゃないかって騎士が」


 侍女たちの声が小さく聞こえた。

私は思わず足を止める。


 王都の紋章、その言葉だけで、胸の奥が冷たくなる。


 侍女の一人が私に気づき、慌てて頭を下げた。


「リリア様、おはようございます」


「……おはようございます」


 侍女たちはすぐに散り散りになり、仕事へ戻った。

けれど、彼女たちの顔には不安が浮かんでいた。


 私は窓の外を見た。

遠くに見える街の外側は、朝の光に照らされて穏やかに見える。

けれど、その向こうに一団がいると思うと、胸の奥が強く揺れた。


「……どうして動かないんだろう」


 動かないまま、ただ外で様子をうかがっている。

その事実が、静かな邸内にわずかな緊張を残している。


 部屋へ戻ろうとしたとき、廊下の奥から騎士たちの声が聞こえた。


「外の一団、昨日より人数が増えてる」


「旗も掲げてるらしい。王都の紋章に似てるって」


「閣下はまだ判断を保留してるが……」


 私は思わず立ち止まった。

騎士たちは私に気づくと、慌てて声を落とした。


「失礼しました、リリア様」


「……いえ」


 胸の奥が強く揺れた。

王都の紋章、その言葉だけで、息が少し詰まる。


 そのとき、背後から静かな声がした。


「リリア殿」


 振り返ると、公爵が廊下の入り口に立っていた。

朝の光を受けたその姿は、いつもより少し影が濃く見えた。


 公爵は私の表情を見て、わずかに眉を寄せた。


「……顔色が優れないようだ」


「……少し、不安で」


 公爵はゆっくりと歩み寄り、騎士たちの配置を一瞥した。


「外の一団は、まだ街の外に留まっている。」


 その言葉は胸の奥に新たな波紋を広げた。


「……まだ、いるんですね」


「ああ。だが、集まっている者の数は昨日より多いようだ」


 公爵の声は落ち着いているが、目の奥には鋭い光が宿っていた。


「旗も掲げられたらしい。遠目だが、王都の紋章に見えると騎士が言っていた」


 胸の奥が冷たくなる。


「……王都の、紋章」


「そうだ。だが、彼らが何をしようとしているのかはまだ分からない」


 公爵は私の横顔を見て、静かに言った。


「怖がる必要はない。彼らがどう動くかは、私が見極める」


 その言葉は、胸の奥に静かに広がった。


「……はい」


 公爵は少しだけ息を吐き、視線を廊下へ戻した。


「リリア殿。あなたがどうしたいのか、それを考える時間が必要だ」


 その言葉は、昨日の庭園での会話の続きのように聞こえた。

けれど、今はそれ以上の意味を持っている気がした。


 外の一団が動き始めるかもしれない。

王都の紋章が掲げられた。

その現実が、私の未来を強く揺らしている。


「この街で暮らすこともできる。公爵邸で保護されながら過ごすこともできる。別の街へ移ることもできる。王都へ戻ることも、選択肢としてはある」


 その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。


 選べる、その響きが、昨日よりも少しだけ近く感じられた。


 その時だった。


 廊下の奥から、騎士が駆け込んできた。


「閣下!急報です!」


 公爵が振り返る。

騎士は息を切らし、額に汗をにじませていた。


「街の外の一団に……新たな動きがありました!」


 廊下の空気が一瞬で張りつめた。

騎士の声は震えていて、ただ事ではないことがすぐに分かった。


 公爵はわずかに目を細め、騎士へ向き直る。


「詳しく」


 短い一言だったが、廊下の空気がさらに引き締まる。


 騎士は息を整えながら続けた。


「一団の中で、数名が前へ出ました。距離は保っていますが……旗を高く掲げています。周囲の者たちも、整列を始めました」


 整列、その言葉が胸の奥に冷たい波を広げた。


「整列……?」


 私の声は自然と小さくなる。

騎士は私のほうを見て、言葉を選ぶように続けた。


「はい。まるで、こちらへ何かを示す準備をしているような……そんな動きです」


 公爵は静かに息を吐き、廊下の窓へ視線を向けた。

外は朝の光に満ちているのに、胸の奥は重く沈んでいく。


「旗は確認できたか」


「遠目ですが……王都の紋章に見えます」


 その言葉は、胸の奥に鋭く刺さった。


 王都の紋章、私がいた場所。

私が“役に立たない”と言われ続けた場所。

私の力を恐れられた場所。


 その旗が、今この街の外で揺れている。


 公爵は騎士へ向き直り、落ち着いた声で指示を出した。


「全隊に伝えろ。距離を保ちつつ、動きを監視しろ。こちらから接触する必要はない」


「はっ!」


 騎士は深く頭を下げ、走り去っていった。

その足音が廊下に響き、やがて遠ざかる。


 静けさが戻ったが、空気は先ほどまでの穏やかさとは違う。

緊張が底に沈んでいるような、そんな静けさだった。


 公爵は私のほうへ向き直った。


「リリア殿。怖がる必要はない」


 その言葉は優しいのに、胸の奥の揺れは止まらなかった。


「……王都の人たちが、どうして……」


「理由はまだ分からない。だが、あなたを責めるために来たわけではないと私は見ている」


 公爵の声は落ち着いていて、揺れを抑えるような響きだった。


「彼らが何を示したいのか。それを見極めるのは私の役目だ」


「……はい」


 返事をしたものの、胸の奥の不安は消えない。

王都の紋章が掲げられたという事実が、心を強く揺らしていた。


 公爵は少しだけ歩き、廊下の窓から外を見た。

遠くの空は澄んでいて、雲ひとつない。

その穏やかさが、逆に不安を際立たせる。


 公爵は私の顔を見て、静かに言葉を選んだ。


「リリア殿……迷いがあるのは当然だ。その揺れを否定する必要はない」


「……揺れ、ですか」


「そうだ。今のあなたが抱えている気持ちを、私は受け止めるつもりだ」


 その声音は押しつけがましくなく、ただ寄り添うように響いた。

昨日、公爵が“ここにいていい”と言ってくれた時の温度が胸の奥に広がる。

けれど、外で揺れる旗の影が、その温度に薄い不安を混ぜていく。


「……私、どうしたらいいのか分からなくて」


「分からなくていい。今は状況が動いている。心が落ち着くまで、答えを出す必要はない」


 公爵の声は穏やかで、押しつけがましさは一切なかった。


「あなたはここにいていい。それは変わらない」


 その言葉は胸の奥に深く沈んだ。

温かくて、優しくて、涙が出そうになるほどだった。


 そのとき、廊下の奥から別の騎士が駆けてきた。


「閣下!追加の報告です!」


 公爵は振り返る。


「言え」


「一団の前に立っている者が……こちらへ向けて何かを掲げています!」


「掲げている?」


「はい!布のようなものですが……文字が書かれているように見えます!」


 文字、胸の奥が強く揺れた。


「内容は確認できたか」


「距離があるため、まだ判別できません。ですが……こちらへ示しているのは間違いありません」


 公爵は短く息を吐き、騎士へ指示を出した。


「見張りの者を増やせ。文字が読める距離まで近づく必要はない。ただ、動きを見逃すな」


「はっ!」


 騎士は再び走り去った。


 廊下の空気はさらに重くなる。胸の奥の揺れは、もう隠せないほど大きくなっていた。


「……公爵様」


「なんだ」


「王都の人たちが……私に何かを伝えようとしているんでしょうか」


 公爵は少しだけ目を細めた。


「可能性はある。だが、それがあなたに向けたものなのか、街に向けたものなのかはまだ分からない」


「……はい」


 公爵は私の肩に視線を落とし、静かに言った。


「リリア殿。あなたは過去に囚われる必要はない。王都でどう扱われたかは、今のあなたとは関係がない」


 その言葉は胸の奥に深く沈んだ。

けれど、王都の紋章が掲げられたという事実が、心を強く揺らしていた。


「……でも、もし……」


「もし、彼らがあなたを恐れているのだとしても、それは彼らの問題だ。あなたの価値とは関係がない」


 公爵の声は静かで、揺れを支えるような響きだった。


「あなたはここで、街の者たちに受け入れられた。それが事実だ」


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

昨日の広場での光景が鮮明に蘇る。


 そのとき、廊下の奥からまた足音がした。

今度は走ってくるというより、急ぎながらも慎重な足取りだった。


「閣下……!」


 先ほどの騎士とは違う者が現れ、息を整えながら報告する。


「文字の内容が……少しだけ見えました!」


 公爵はわずかに身を乗り出した。


「読めたのか」


「完全ではありませんが……“求む”という文字が見えたと、見張りの者が」


 求む、胸の奥が強く揺れた。


「求む……?」


 私の声は自然と震える。


「はい。その後ろにも文字が続いているようですが、まだ判別できません」


 公爵は短く考え、騎士へ指示を出した。


「距離は保ったまま監視を続けろ。文字が完全に読めるまで、こちらは動かない」


「はっ!」


 騎士は再び走り去った。


 廊下の空気は、もはや張りつめているというより、“動く前の静けさ”のようだった。


 公爵は私のほうへ向き直る。


「リリア殿。何があっても、あなたはここにいていい」


 その言葉は胸の奥に深く沈んだ。

けれど、心の揺れは止まらなかった。


「……公爵様」


「なんだ」


「もし……もし、あの一団が私を求めているのだとしたら……私はどうすればいいんでしょう」


 公爵は静かに答えた。


「その答えは、あなた自身が決めるものだ。だが」


 公爵は少しだけ間を置き、続けた。


「あなたの意思を無視して連れて行かれるようなことは、私が許さない」


 その言葉は、胸の奥に強く響いた。


 外では旗が揺れている。

文字が掲げられている。

その意味はまだ分からない。


 けれど、“求む”という文字が見えたという事実は、私の未来を大きく揺らしていた。


 廊下の窓から差し込む光が、床に淡い影を落としている。

その影は静かで、揺れもない。

けれど、胸の奥の揺れは止まらなかった。


 外の一団が何を求めているのか、その答えは、まだ誰にも分からない。

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