第3話 魔物の気配と不穏な風
街の外へ向かう道は、中心部よりも静かだった。
けれど、その静けさは安らぎではなく、どこか不穏な気配を含んでいた。
風が木々を揺らす音さえ、妙にざわついて聞こえる。
「……風が、重い」
呟いた声は、風に吸い込まれるように消えた。
魔力の乱れが空気に混ざり、肌にざらりとした感触を残していく。
街の中よりも、外の方が乱れが強い。
その理由は、分かっていた。
「魔法障壁が……弱まってる」
王国を囲む巨大な魔法障壁。
魔物の侵入を防ぎ、外の魔力を均一に保つ役割を持つ防壁。
それが弱まれば、魔物は街の近くまで来る。
風の中に混ざる気配が、確かにそれを告げていた。
私は歩きながら、周囲の気配に意識を集中させた。
魔力の流れが乱れているときは、魔物の気配が分かりやすい。
空気のざらつき、風の重さ、地面の震え、どれも魔物の存在を示す。
「……来てるわね」
呟いた瞬間、遠くで何かが鳴いた。
それは獣の声に似ていたが、明らかに人間の世界のものではなかった。
「今の……魔物?」
「魔物の声じゃない?」
「こんな近くで聞こえるなんて……!」
街の外れにいた人々がざわめき始めた。
魔物の声は、普段なら街の外壁の向こうでしか聞こえない。
それが、こんな近くで響くということは。
「障壁が、本当に弱まってるのね」
私は風の流れを感じながら歩き続けた。
魔物の気配は、風に乗ってこちらへ向かっている。
その周期が、異常に早い。
「こんな短時間で、二度も気配が……?」
魔物は通常、一定の周期でしか現れない。
魔法障壁が安定していれば、出現は数日に一度。
それが今は、数時間に一度のペースで近づいてきている。
「……これは、ただの乱れじゃないわ」
魔法障壁の弱まりは、王国全体の魔力の乱れを意味する。
街の魔法道具が暴走したのも、障壁の影響が内部にまで及んでいる証拠だ。
そのとき、また風がざわりと揺れた。
木々が一斉に震え、葉が舞い上がる。
「来る……!」
私は反射的に身構えた。
風の中に混ざる魔物の気配が、急激に強まった。
遠くの草むらが揺れた。
何かが、こちらへ向かっている。
「ねえ、あれ……!」
「魔物じゃない?」
「こんなところまで来るなんて……!」
街の外れにいた人々が、恐怖に満ちた声を上げた。
私はその方向をじっと見つめた。
草むらの影が、ゆっくりと形を成していく。
魔力のざらつきが空気を震わせ、風が重くなる。
「……魔物だわ」
その姿はまだはっきりとは見えない。
けれど、気配は確かに魔物のものだった。
私は深く息を吸った。
魔物の気配がこれほど強いのは、障壁がほぼ機能していない証拠だ。
「王国は、本当に……崩れ始めてる」
呟いた声は、風に乗って消えていった。
その風は、どこか悲しげだった。
魔物の気配は、さらに強まっていく。
街の外れにいた人々が逃げ出し始めた。
「逃げろ!」
「こっちに来るぞ!」
「早く、家に戻れ!」
混乱が広がる。
私はその中で、ただ風の流れを感じていた。
「……このままじゃ、街に入るわ」
魔物が街に入れば、被害は避けられない。
魔法障壁が弱まっている今、街の防衛はほぼ機能しない。
「どうする……?」
私は自分の手を見つめた。
魔法を消す力。
魔物の魔力にも、きっと影響する。
「……行くしかないわね」
私は魔物の気配がする方向へ歩き出した。
風が、私の背中を押していた。
魔物の気配がする方向へ歩き出すと、風の流れがさらに重くなった。
空気がざらつき、肌に触れるたびに小さな痛みを残していく。
魔力の乱れが、まるで警告のように周囲を満たしていた。
「……この感じ、久しぶりね」
呟いた声は風に吸い込まれるように消えた。
王城にいた頃は、魔物の気配などほとんど感じなかった。
魔法障壁が強固だったからだ。
それが今は、まるで薄い布のように頼りなく揺れている。
草むらの影が、ゆっくりと形を成していく。
その動きは不規則で、魔力のざらつきが空気を震わせていた。
「来る……!」
私は足を止めた。
風が一瞬止まり、空気が張り詰める。
次の瞬間、草むらから黒い影が飛び出した。
四足の獣のような姿だが、体表は魔力の膜で覆われている。
目は赤く光り、口からは黒い霧のような魔力が漏れていた。
「魔物だ……!」
「逃げろ!」
「こっちに来るぞ!」
街の外れにいた人々が悲鳴を上げて逃げ出した。
魔物はその逃げる人々を追うように、低い唸り声を上げた。
「……まずいわね」
魔物は、魔力の乱れに反応して暴走している。
普段なら障壁が抑えてくれるはずの魔力が、今は街の近くまで流れ込んでいる。
そのせいで魔物の動きが異常に早い。
「このままじゃ、街に入るわ」
私は魔物の前に立った。
魔物は私を見て、一瞬動きを止めた。
赤い瞳が、じっと私を見つめる。
「……気づいた?」
魔物は、魔力を感知して動く。
私の体質は魔力を消す。
そのため、魔物にとって私は“異質な存在”なのだ。
魔物が低く唸った。
その声は、怒りとも恐怖ともつかない響きを持っていた。
「来るなら、来なさい」
私は静かに構えた。
魔物が地面を蹴り、こちらへ向かって突進してくる。
魔力の霧が風に乗って広がり、空気がさらに重くなる。
「……っ!」
魔物が私に触れた瞬間、魔力が消えた。
魔物の体表を覆っていた魔力の膜が、ぱちんと音を立てて弾けるように消えた。
魔物は驚いたように動きを止めた。
赤い瞳が揺れ、体がわずかに震えた。
「魔力が……消えた?」
「今、何が……?」
「リリア様が触れたの?」
逃げていた人々が遠くから見ていたらしく、ざわめきが広がった。
私は魔物を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
魔力を失った魔物は、ただの獣に近い存在になる。
魔力による強化が消え、動きが鈍くなる。
「もう、暴れられないわね」
魔物は弱々しく唸り、後ずさった。
その姿は、先ほどの凶暴さが嘘のようだった。
「帰りなさい」
私は静かに言った。
魔物はしばらく私を見つめていたが、やがて草むらの奥へ逃げていった。
「……すごい」
「魔物が逃げた……?」
「どうして……?」
人々のざわめきが広がる。
私はその声を聞きながら、ゆっくりと歩き出した。
「魔法障壁が弱まってる以上、魔物はまた来るわ」
風が吹き、髪が揺れた。
その風は、どこか焦りを含んでいた。
「急いで街を離れないと……もっとひどくなる」
私は街道を進みながら、空を見上げた。
空は晴れているはずなのに、どこか濁った色をしていた。
魔力の乱れが、空気そのものを歪ませている。
「王国は、本当に……崩れ始めてる」
呟いた声は、風に乗って消えていった。
その風は、まるで王国の未来を嘆いているようだった。
私は歩き続けた。
魔物の気配はまだ遠くに残っている。
街の外れは、すでに安全ではなかった。
「……次はもっと強い魔物が来るかもしれない」
私は自分の手を見つめた。
魔法を消す力。
それが、これからの私の道を決める。
「……もう、迷っている時間はないわ」
私は街道を進み、さらに外へ向かった。
風が、私の背中を押していた。
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