第35話 選択の始まり
公爵邸の門が静かに開いた。
夕暮れの光が敷石に落ち、長い影を伸ばしている。
広場の喧騒はもう遠く、風の音だけが耳に届いた。
公爵は歩みを緩め、私の横に立った。
その姿は威圧感よりも、どこか柔らかさを帯びていた。
「リリア殿。少し休める場所へ案内しよう」
「……はい」
返事をすると、公爵はゆっくりと歩き出した。
私はその後ろを静かについていく。
邸内に入ると、空気がひんやりとしていた。
外の熱気が嘘のように消え、静けさが広がっている。
壁には古い絵画が並び、廊下には柔らかな灯りが灯っていた。
歩くたびに、靴音が控えめに響く。
その音が、私の緊張を少しずつほどいていった。
「ここは……静かですね」
思わず漏れた言葉に、公爵が横目で私を見た。
「騒がしい場所は好きではなくてな。落ち着いて話せるようにしてある」
「落ち着いて……」
その言葉を繰り返すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
誰かが私のために“落ち着ける場所”を用意してくれるなんて、今までなかったから。
廊下の突き当たりにある扉が開き、応接室が姿を見せた。
広すぎず、狭すぎず、ちょうどいい広さの部屋だった。
窓からは庭園が見え、風がカーテンを揺らしている。
「ここで休むといい」
公爵が示したソファに私はゆっくりと腰を下ろした。
座面は柔らかく、体が沈み込むようだった。
緊張していた背筋が少しだけ緩む。
公爵は向かいの椅子に座り、私の様子を静かに見守っていた。
その視線は鋭さを含まず、ただ気遣いだけが宿っていた。
「疲れただろう」
「……少しだけ。でも、歩けますし……大丈夫です」
「無理をする必要はない。今日のことは、誰にとっても大きかった」
公爵の声は穏やかで、どこか遠くを見つめるようだった。
その声を聞いていると、胸の奥の緊張がゆっくりとほどけていく。
侍女が静かに入ってきて、お茶を置いていった。
湯気が立ち上り、ほのかな香りが部屋に広がる。
「飲めるか」
「はい……いただきます」
カップを持つ手が少し震えた。
けれど、お茶の温かさが指先から胸の奥へ広がっていく。
公爵は私が落ち着くのを待ってから、静かに口を開いた。
「リリア殿。ここでは今日のことを……ゆっくり振り返るといい」
その言葉は、責める響きではなかった。
ただ、私の心を整えるための時間を与えてくれる声だった。
「……はい」
私はカップを見つめながら、ゆっくりと息を吸った。
広場での出来事が、胸の奥でまだ揺れている。
魔法陣が消えた瞬間の光。
人々の驚き。
公爵の言葉。
庭園での会話。
それらが、ひとつひとつ思い出されていく。
「リリア殿」
公爵が静かに呼んだ。
私は顔を上げる。
「ここでは……無理に話す必要はない。ただ、落ち着いていればいい」
「……ありがとうございます」
その言葉が胸に染みた。
誰かに“落ち着いていい”と言われたことなど、今までなかったから。
公爵は少しだけ視線を落とし、続けた。
「私は……あなたを気遣いたいと思っている。だが、距離を詰めすぎるのも違うだろう」
「距離……ですか」
「そうだ。あなたが望む距離で、私は接したい」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
公爵は私を“力”としてではなく、“人”として扱っている。
その事実が、心を温かく満たしていく。
「……私、少しだけ……落ち着きたいです」
「そう言ってくれてよかった。ここなら、誰にも邪魔されない」
公爵は椅子の背にもたれ、窓の外へ視線を向けた。
夕陽が庭園を照らし、影が長く伸びている。
私はお茶を飲みながら、胸の奥の揺れを静かに感じていた。
今日の出来事は大きすぎて、まだ整理できていない。
けれど、ここに座っていると、少しずつ心が落ち着いていく。
「リリア殿」
公爵が再び呼んだ。
私は顔を上げる。
「あなたは……今、どう感じている」
その問いは、深い心情を求めるものではなかった。
ただ、今の私を知ろうとする声だった。
「……落ち着いてきました。庭園で話したときよりも、少しだけ」
「そうか。それなら……よかった」
公爵は柔らかく目を細めた。
その表情は、広場で見せた厳しさとはまるで違っていた。
「ここは……居心地がいいです」
私がそう言うと、公爵は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「そう言ってもらえるとは思わなかった」
「え……?」
「あなたは、王都で辛い思いをしてきた。だから、こういう場所は緊張するだろうと思っていた」
「緊張は……します。でも、ここは……怖くないです」
公爵は静かに頷いた。
「それなら……よかった」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。
応接室の空気は柔らかく、静かだった。
公爵は私を見守りながらも、距離を保っている。
その距離が心地よかった。
私はゆっくりと息を吸い、胸の奥の揺れを感じた。
――ここは、私の居場所になるのだろうか。
そんな考えが、ふと胸に浮かんだ。
すぐに答えは出ない。
けれど、庭園での会話と、公爵の言葉が、心の奥で静かに響いている。
「リリア殿」
公爵が静かに言った。
「今日のことは……大きな出来事だった。だから、急いで答えを出す必要はない」
「……はい」
「ゆっくりでいい。あなたが落ち着いて、考えられるようになってからでいい」
その言葉は、私の心を優しく包んだ。
急かされないことが、こんなにも安心できるなんて知らなかった。
私はお茶を飲みながら、静かに窓の外を見た。
庭園の木々が風に揺れ、夕陽が葉を照らしている。
応接室の空気は穏やかで、時間がゆっくりと流れていた。
公爵は私を見守りながらも、距離を保ち、静かに座っている。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな変化が生まれていくのを感じた。
――私は、これからどうしたいのだろう。
その問いが、心の奥で静かに芽を出し始めていた。
まだ答えは出ない。
けれど、考えたいと思えることが、今はただ嬉しかった。
応接室の静けさは、広場の喧騒とはまるで別の世界だった。
窓の外では風が木々を揺らし、夕陽が庭園を淡く照らしている。
その光が部屋の中に差し込み、テーブルの上に柔らかな影を落としていた。
私はお茶を飲みながら、胸の奥の揺れを静かに感じていた。
公爵は向かいの椅子に座り、私を見守りながらも距離を保っている。
その距離が心地よくて、息がしやすかった。
「リリア殿」
公爵が静かに呼んだ。
私は顔を上げる。
「少し……話を続けてもいいだろうか」
「はい。大丈夫です」
公爵は姿勢を正し、私へ向き直った。
その瞳には、広場で見せた厳しさではなく、庭園で見せた柔らかさが宿っていた。
「リリア殿。あなたが今日見せた力は……多くの者に影響を与えた。街の者たちも、騎士団も、重臣たちも……皆、あなたを見ていた」
私は少しだけ息を吸った。
広場での光景が胸の奥に蘇る。
驚きの声、子どもたちの笑顔、重臣たちの震える手。
それらが、ひとつひとつ思い出されていく。
「でも……私は、ただ触れただけで」
「それが重要なのだ」
公爵は静かに言った。
声は穏やかだが、言葉には確かな重みがあった。
「あなたは、何かを壊そうとしたわけではない。ただ触れただけで、魔力が消えた。それは……誰にも真似できないことだ」
私は視線を落とした。
自分の力が特別だと言われても、まだ実感が湧かない。
けれど、公爵の言葉は否定ではなく、ただ事実を述べているだけだった。
「リリア殿」
公爵は少しだけ息を吸い、言葉を続けた。
「あなたがこれからどう生きるか……それを、私はあなた自身に選んでほしいと思っている」
胸の奥が強く震えた。
その言葉は、予想していなかったものだった。
「選ぶ……ですか」
「そうだ」
公爵はゆっくりと頷いた。
「あなたは、王都で辛い思いをしてきた。街では、今日初めて笑顔を向けられた。そして今、ここにいる」
公爵は視線を落とし、静かに続けた。
「どこで生きるか。誰と関わるか。力をどう使うか。それを決めるのは……あなた自身だ」
私は言葉を失った。
今までそんなことを言われたことは一度もなかった。
王都では、私の力は“危険”とされ、選択肢など与えられなかった。
ただ従うだけで、未来を考える余裕などなかった。
「……私が、選んでいいんですか」
「もちろんだ」
公爵の声は揺るぎなかった。
「あなたは誰かの道具ではない。誰かに決められる存在でもない。あなた自身の意思で、未来を選ぶべきだ」
胸の奥が熱くなる。
涙が出そうになるほどの温かさが、心を満たしていく。
「でも……私、どうしたらいいのか……まだ分からなくて」
「分からなくていい」
公爵は即座に言った。
その声は優しく、迷いを許すものだった。
「答えを急ぐ必要はない。今の気持ちが落ち着いたときに、考えたいと思えることから始めればいい」
私はお茶を見つめながら、胸の奥の揺れを感じた。
“選んでいい”と言われたことが、こんなにも心を動かすなんて思わなかった。
「リリア殿」
公爵が静かに続けた。
「私は……あなたに選択肢を提示するつもりだ。だが、それは今ではない。あなたが落ち着き、心が整ってからでいい」
私は顔を上げた。
公爵の瞳は真っ直ぐで、揺らぎがなかった。
「急かすつもりはない。あなたの答えを尊重する」
その言葉は、胸の奥に深く沈んでいった。
誰かに“尊重する”と言われたことなど、今までなかったから。
応接室の空気は静かで、柔らかかった。
公爵は私を見守りながらも、距離を保ち、ただそこにいてくれる。
その存在が、心を少しずつ解きほぐしていく。
私はゆっくりと息を吸い、胸の奥の揺れを感じた。
「……私、考えてみます」
「それでいい」
公爵は柔らかく頷いた。
「あなたがどうしたいのか。それを知ることが、何より大切だ」
私はお茶を飲みながら、静かに窓の外を見た。
庭園の木々が風に揺れ、夕陽が葉を照らしている。
その光景は穏やかで、心を落ち着かせてくれた。
応接室の空気はゆっくりと流れ、時間が静かに過ぎていく。
公爵は私を急かさず、ただ隣で待っている。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな変化が生まれていくのを感じた。
――私は、これからどうしたいのだろう。
その問いが、心の奥で静かに芽を出し始めていた。
まだ答えは出ない。
けれど、考えたいと思えることが、今はただ嬉しかった。
そのときだった。
応接室の扉の向こうで、誰かの足音が止まった。
控えめなノックが響く。
「閣下。少し……お耳に入れたいことがございます」
公爵はわずかに眉を寄せた。
その声は重臣のものだった。
「入れ」
扉が静かに開き、重臣が姿を見せた。
その表情は緊張を含んでいる。
「街の外で……少し気になる動きがありまして」
公爵は立ち上がり、重臣へ向き直った。
「詳しく話せ」
重臣は一度だけ私を見て、すぐに視線を戻した。
「はい。街道のほうで、見慣れぬ一団が……」
その言葉は、応接室の静けさをわずかに揺らした。
公爵は重臣の話を聞きながら、表情を引き締めていく。
私は胸の奥に小さな不安を感じながら、公爵の背中を見つめた。
――何が起きているのだろう。
その問いが、静かに心に落ちていった。
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