第16話 街道異変の始まり
王城の障壁が弱まったという事実は、まだ街の人々には知らされていなかった。
だが、魔力というものは目に見えなくても、世界のあらゆる場所に影響を及ぼす。
その変化は、まず森の奥で静かに始まった。
朝の空気は本来なら澄んでいるはずだった。
夜露が乾ききらない草の匂い、鳥のさえずり、木々の揺れる音、いつもなら穏やかな朝の風景が広がるはずだった。
しかし、この日の空気は違った。
風が肌を撫でるたび、微かなざらつきが残る。
まるで砂粒が混じっているかのような、不快な感触。
魔力が乱れているときにだけ感じる、独特の“ひっかかり”だった。
街道沿いの森では、木々が不自然に揺れていた。
風向きとは関係なく、枝が震え、葉が擦れ合う音が妙に高く響く。
その音は、森が何かを訴えているようにも聞こえた。
森の奥で、鳥たちが一斉に飛び立った。
羽ばたきの音が重なり、空気が震える。
普段なら木々の間を優雅に飛ぶはずの鳥たちが、まるで何かから逃げるように、一直線に街道の反対側へ向かっていく。
「……おい、見たか?」
街道を警備していた兵士が、森の影を指さした。
その視線の先では、鹿やイノシシなどの獣たちが群れになって走り出していた。
普段は人を避けるはずの動物たちが、恐怖に突き動かされるように、街道へ飛び出してくる。
兵士たちは思わず後ずさった。
「なんだよこれ……」
「森で何が起きてるんだ?」
動物たちの目は、どれも大きく見開かれていた。
理性を失ったような、ただ逃げることだけを考えている目。
その異様な光景に、街道の空気が一気に緊張した。
森の奥から、低い唸り声のような音が響いた。
地面の下から響くような、重く湿った音。
魔力が擦れ合うときに生じる、あの不快な振動だった。
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
「魔力が荒れてる……?」
「森の結界はどうしたんだ?」
街道沿いの森には、魔物が入り込まないよう簡易結界が張られている。
それが正常なら、こんな異常は起きない。
しかし、その結界が、今は機能していない。
森の影が、ゆっくりと揺れた。
兵士たちが息を呑む。
影の中から、黒い塊が地面を這うように姿を現した。
それは獣のような形をしていたが、輪郭が歪んでいた。
身体の表面が波打ち、黒い霧がまとわりついている。
魔力が暴走した魔物特有の、異常な動きだった。
「魔物だ!構えろ!」
兵士たちが武器を構える。
だが、魔物は予想より速かった。
地面を蹴った瞬間、影が跳ねるように兵士へ迫る。
その動きは、通常の魔物とは明らかに違う。
まるで、魔力の乱れが魔物の身体能力を底上げしているかのようだった。
「速い……!」
「こんな動き、聞いたことがない!」
剣がぶつかる音が響く。
しかし、魔物は怯む様子もなく、むしろ勢いを増していた。
魔物の体表が揺れ、形が変わるたびに、剣がすり抜けてしまう。
「なんで当たらないんだ……!」
「魔力が狂ってる……これは普通じゃない!」
兵士のひとりが叫んだ。
「城の障壁が弱まったせいじゃないのか!?」
その言葉が、街道の空気をさらに重くした。
魔物の異常行動は、王城の崩壊と同じタイミングで始まっていた。
誰もまだ確信していないが、街道の者たちは本能で理解し始めていた。
――何かが、確実に壊れ始めている。
森の奥で、さらに複数の影が揺れた。
黒い霧が広がり、地面が震える。
兵士たちは、これが“始まり”に過ぎないことを悟った。
森の奥で揺れた影は、一つでは終わらなかった。
黒い霧が地面を這うように広がり、木々の根元を包み込む。
その霧は、まるで森そのものを腐らせるように、触れた場所から色を奪っていく。
木の幹が、ゆっくりと黒ずんだ。
葉がざわざわと震え、枝が不自然にしなる。
森が魔力に侵されている、その事実を、誰も口にできなかった。
兵士たちは、森の奥を見つめたまま動けずにいた。
魔物が一体現れただけでも異常なのに、その背後でさらに複数の影が揺れている。
「……増えてる……?」
「嘘だろ……こんな数、聞いたことがない……」
兵士の声は震えていた。
魔物は通常、単体で行動することが多い。
群れを作るのは、強力な魔物が支配しているときだけだ。
だが、今の森には“支配者”の気配はない。
あるのは、ただ魔力の乱れだけ。
魔力が狂えば、魔物も狂う。
その結果が、今目の前に広がっていた。
森の奥で、黒い霧が一気に膨らんだ。
地面が震え、木々が揺れ、鳥たちが最後の悲鳴を上げて飛び去る。
兵士たちは本能で理解した。
――来る。
次の瞬間、森の影から複数の魔物が飛び出した。
黒い塊が地面を蹴り、街道へ向かって一直線に走り出す。
その動きは、獣のような滑らかさではなく、魔力が暴走した結果の“歪んだ速さ”だった。
「来るぞ!構えろ!」
兵士たちが叫ぶが、魔物の速度は常識を超えていた。
地面を蹴った瞬間、影が跳ねるように前へ飛ぶ。
その動きは、まるで空間を切り裂いているかのようだった。
剣を構えた兵士の前に、魔物が一瞬で迫る。
兵士が反射的に剣を振るうが、魔物の体表が揺れ、形が変わる。
剣は空を切り、魔物はそのまま兵士の横をすり抜けた。
「当たらない……!」
「なんだこの動き……!」
魔物は、兵士たちの攻撃を避けているわけではない。
魔力の乱れで身体の輪郭が不安定になり、物理攻撃が“すり抜けてしまう”のだ。
兵士のひとりが叫んだ。
「魔力が……魔力が暴れてる!魔物の形が保ててない!」
その言葉は正しかった。
魔物の身体は、黒い霧のように揺れ、時折、獣の形を保てなくなって崩れかける。
だが、崩れた瞬間に魔力が再び凝縮し、魔物は元の形に戻る。
その繰り返しが、魔物の動きを異常なものにしていた。
街道の端では、逃げ遅れた商人が悲鳴を上げた。
「助けてくれ!こっちに来る!」
魔物の一体が商人へ向かって走り出す。
兵士が追いすがるが、魔物の速度が速すぎて追いつけない。
「止まれぇぇぇっ!」
兵士の叫びは虚しく響く。
魔物は商人へ迫り、その瞬間、森の奥でさらに大きな揺れが起きた。
地面が震え、木々が一斉に傾く。
黒い霧が森全体を覆い、影が波のように押し寄せる。
「……嘘だろ……」
兵士のひとりが呟いた。
森の奥から、魔物の群れが現れた。
数十体。
いや、もっとだ。
黒い影が地面を埋め尽くし、街道へ向かって押し寄せる。
地面が揺れ、空気が震え、
魔力の乱れが風となって街道を吹き抜ける。
「こんな数……ありえない……!」
「結界が完全に壊れてる……!」
兵士たちは絶望した。
街道の防衛線は、こんな数の魔物を相手にできるようには作られていない。
魔物の群れは、まるで黒い波のように押し寄せてくる。
その中心には、魔力の渦が見えた。
魔物たちを狂わせている原因、城の障壁が弱まったことで生じた、魔力の乱流だった。
兵士たちは叫ぶ。
「街へ知らせろ!急げ!」
「逃げろ!ここはもう持たない!」
だが、魔物の群れはすでに街道を埋め尽くしていた。
逃げ道はない。
街の方角へ向かって、黒い影が押し寄せる。
その勢いは、まるで街そのものを飲み込もうとしているかのようだった。
兵士たちは理解した。
――これは、街が壊れる前兆だ。
そして、誰もまだ知らない。
この混乱の中へ、“魔力を消す令嬢”が現れることを。
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