第15話 王城の崩壊前夜
王城の方角から吹きつける風は、街の風とはまったく違っていた。
ひと息吸うだけで胸の奥がざわつき、肌の表面が細かい砂をこすりつけられたようにひりつく。
魔力が飽和し、空気そのものが軋んでいる、そんな感覚だった。
城を覆うはずの魔法障壁は、もはや形を保てていなかった。
光の膜はところどころ途切れ、薄い霧のように散り散りになっている。
外の魔力が城内へ流れ込み、風が不自然な渦を描いていた。
城内へ足を踏み入れると、まず目に入ったのは暗がりだった。
廊下を照らす魔法灯はほとんど消えかけ、かすかな明滅を繰り返している。
灯りが弱まるたび、侍女たちが肩をすくめて立ち止まった。
魔法通信具は沈黙し、呼び出しの魔法陣は反応を示さない。
側近たちは何度も魔力を流し込んでいたが、返ってくるのは濁った音だけだった。
「……城内の連絡が全部途絶えました」
「水晶も映像が出ません。内部の状況が把握できません」
「このままでは、外から何が迫っているのかも分からない……」
その声は、焦りというより“諦め”に近かった。
騎士団長が駆け込んできたのは、その直後だった。
鎧の継ぎ目が魔力の逆流で震え、息を切らしながら叫ぶ。
「障壁がさらに薄くなっています!魔物が近づけば防げません!」
側近たちは顔を青ざめさせた。
「このままでは城が……」
「聖女様の祈りでは抑えられません」
「王太子様は何も理解していない……」
その言葉は、もはや隠すことなく漏れ出ていた。
しかし、王太子は、現実を見ようとしなかった。
大広間では、王太子アレクシスが聖女エレナの肩を支えながら、怒りを押し殺したような声で言い放った。
「聖女の祈りを信じろ!他の対策は不要だ!」
その言葉は、城内の者たちの心を完全に冷え込ませた。
誰も王太子を見ようとしない。
侍女たちは視線を床へ落とし、騎士たちは壁のひび割れへ目を向け、側近たちは書類を抱えたまま沈黙していた。
王太子の言葉は、もはや誰の心にも届いていない。
聖女エレナは、王太子の腕に寄り添いながら、震える指先を隠すように衣の裾を握りしめていた。
祈りの力が弱まっていることを、彼女自身が一番理解している。
昨日の儀式は途中で光が消え、今日の祈りは魔法陣が崩れた。
それでも、王太子の前では弱さを見せられない。
「殿下……どうかご安心を。私の祈りは必ず力になりますわ」
その声は柔らかいのに、どこか張り詰めている。
魔力が応じなくなっていることを、彼女自身が一番理解しているからだ。
しかし王太子は、その微細な震えに気づくこともなく、満足げに頷いた。
「エレナがいれば十分だ。城は守られる」
その言葉が広間に落ちた瞬間、空気がさらに冷えた。
誰も口には出さないが、王太子の言葉を信じる者はもういない。
侍女たちは視線を床に落とし、騎士たちは壁のひび割れに目を向け、側近たちは書類を抱えたまま沈黙していた。
祈りはもう城を支えていない。
それを理解していないのは、王太子ただ一人だった。
広間に漂う空気は、魔力の乱れよりも重く、聖女の微笑みよりも痛々しく、王太子の怒声よりも冷たかった。
そして、人々の心は、静かに別の名へ向かい始めていた。
誰もその名を口にしようとはしなかった。
けれど、沈黙の奥で同じ人物を思い浮かべているのが分かった。
城が落ち着いていた時期があった。
魔力が穏やかに循環し、空気が澄んでいた頃があった。
外敵の影が遠ざかり、街が静けさを保っていた季節があった。
魔法器具が狂いもせず、日常が滑らかに動いていた日々があった。
その時、城にいたのは、私だ。
その事実が、ゆっくりと人々の胸の底に沈んでいく。
誰も声に出さないが、確かにそこにある“答え”として。
そして王城は、音を立てずに崩れ始めていた。
ひび割れは静かに広がり、支えを失った建物のように、内側から弱っていく。
誰も止められない流れが、もう動き出していた。
城の奥で、低い震えが続いていた。
それは地震のような揺れではなく、建物の内部で何かが擦れ合うような、鈍い脈動だった。
壁に触れれば、石がわずかに熱を帯びているのが分かる。
魔力が暴れ、城そのものが発熱しているのだ。
天井の装飾が細かく揺れ、粉が静かに降り落ちる。
誰も声を上げない。
ただ、城が「限界」を迎えつつあることを、全員が理解していた。
広間の中央では、王太子が周囲を見渡しながら苛立ちを隠せずにいた。
彼の声は、城の不安定な空気の中で浮いていた。
「なぜ誰も動かない!まだ手はあるはずだ!」
その叫びは、誰の心にも届かなかった。
返事をする者はなく、視線は彼から逸らされていく。
王太子の言葉は、もはや指示ではなく、ただの独り言になっていた。
エレナはその隣で、姿勢を保つことに必死だった。
彼女の呼吸は浅く、肩がわずかに上下している。
魔力が応じないことを、彼女自身が一番よく知っていた。
「……殿下、私は……まだ……」
その声は、かすれた紙のように弱かった。
しかし王太子は、その変化に気づかない。
彼はただ、彼女の存在に縋りついていた。
「君がいれば大丈夫だ。城は持ちこたえる」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気がさらに沈んだ。
誰も肯定しない。
誰も否定しない。
ただ、沈黙だけが広がる。
広間の端では、侍女たちが互いに距離を取りながら立っていた。
彼女たちの視線は王太子にも聖女にも向けられていない。
むしろ、天井の揺れや壁の変色に向いていた。
城の変化のほうが、二人よりも重要だった。
騎士たちは、剣を抜くこともできず、ただ周囲の変化を観察していた。
鎧の表面に走る光の筋は、魔力が金属に触れている証だった。
その音は、戦場のそれではなく、建物が崩れる前の警告音に近かった。
側近たちは、机の上に散らばった書類を前にして動けずにいた。
判断を放棄した者特有の静けさが、彼らの表情にあった。
誰も王太子の指示を待っていない。
誰も聖女の言葉を期待していない。
広間の空気は、もはや二人を中心に回っていなかった。
王太子と聖女は、城の中で最も孤立した存在になっていた。
そして、城内の者たちの心は、別の方向へ向かい始めていた。
リリア。
その名を口にする者はいない。
しかし、胸の奥で思い浮かべる者は多かった。
魔力が穏やかだった時期。
城の設備が正常に動いていた日々。
外敵の影が近づかなかった季節。
街が静かに暮らせていた頃。
その中心にいたのは、他でもない私だった。
その事実が、言葉にならないまま人々の心に沈んでいく。
誰も声に出さないが、答えはすでに共有されていた。
城の奥で、石がひとつ崩れ落ちる音がした。
それは大きな音ではなかったが、広間にいた全員が聞いた。
魔力の流れが軸を失い、建物の内部がゆっくりと壊れていく。
城の崩壊は、もう止まらない。
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