第8話 推挙状に署名する者
茶はまだ、湯気を立てていた。
小応接の卓は四人掛けで、私たちは三人だった。空いた椅子には、まだ光が当たっている。
角砂糖は三つとも溶けていた。私は二枚目の焼き菓子を取って、半分に割った。杏の砂糖漬けが載っている。
杏はよく煮えている。
「南方のお茶ですのね」
「そうみたいですね。あたし、こういうの飲んだことなくて」
「渋みが出るのが早うございますから、二杯目は湯を少し冷ましたほうがよろしいのですよ」
「へえ。……あの、オルドリンド様」
「はい」
「今日って、何の集まりなんですか。あたし、紙もらって来ただけで」
「私も、紙をいただいて参りましたの」
「ですよね。何も書いてないんですもん、あの紙」
「ええ。時刻と、この部屋の名だけでございました」
「なんか、怒られるのかな。あたし」
「心当たりがおありですか」
「ないです。ないと思います」
ハーヴェル様は焼き菓子を見ていた。手は伸ばさなかった。
ヴェンティス様は茶を飲んでいる。三人で座って四半刻が経つのに、この方は四つしか言葉を出していない。
窓の外の中庭で、花が咲き始めていた。名前を知らない白い花だった。
「あの木の花は、そろそろ終わりますわね」
「ああ」
「去年は、もう少し長く咲いていたように思いますけれど」
「去年は雨が多かった」
「そうでしたわね」
ヴェンティス様は窓を見た。それきり黙った。
この方は、こういうときに間を埋めない。私はそれを美点だと思ってきた。今日も、たぶんまだ美点だ。
隣室で、椅子を引く音がした。
「あ、そうだ。オルドリンド様、あの、この前の連署のことなんですけど」
ハーヴェル様が身を乗り出した。
「あたし、司書補の推挙をいただきたくて。学園長の推挙はもう出るって聞いてるんです。あとは、貴族家の方の連署だけで」
まあ。ご自分から。
「あの、ヴェンティス様のお家にお願いできたらって、ずっと思ってて。クー、お母様に頼んでみてくれない?」
「……母は」
「あ、無理ならいいんです。無理なら」
そのとき、隣室の扉が開いた。
学園長が入ってきた。後ろに、もうひとり。
ヴェンティス伯爵夫人だった。
ハーヴェル様が立ち上がった。立ち上がって、それから座り方に迷った。伯爵夫人は空いていた椅子に腰を下ろした。四人掛けの卓が、ようやく四人になった。
隣室の扉が、少し開いたままだったことに気づいた。四半刻のあいだ、この方はそこにいらしたのだと思う。
「本日は」
学園長が言った。この方は学園長になって十二年で、裁くという仕事をしない人だと言われている。
「王立図書館司書補の推挙状につきまして、品行保証の連署をお願いする件です。わたくしは記録を取るために参りました」
伯爵夫人が私を見た。
「お呼びしたのは、わたくしです」
それだけだった。
なるほど。そういう席。
ハーヴェル様がゆっくりこちらを見た。目の動きで、この方が今この席の形を理解したのが分かった。理解して、それでも背筋を伸ばした。
「オルドリンド子爵令嬢。あなたは、この方と同じ学年で、わたくしの息子の婚約者でいらしたご縁がある。連署の前に、伺っておきたいことがございます」
「承りますわ」
私は卓の隅の手帳に手を置いた。置いただけで、開かなかった。
中身は覚えている。
◇
「洗濯場のおかみさんが、世間話に仰っていました。ヴェンティス様のお召し物は、洗いに出される前から柑橘の匂いがする、と」
「え」
ハーヴェル様が顔を上げた。
「柑橘は、特待生棟の仕上げでございます。本館寮は樟脳と薔薇。仕上げは、すすぎの最後に落とすものですから、洗う前に付いていれば順番が逆になります」
「……それは、同じ学園で、同じ洗濯場ですし。誰にでも移りますよ」
「その通りでございます」
私は茶を一口飲んで、器を置いた。
「少しは移ります、と、おかみさんも仰っていました。ですから私は、移っていない方を先に数えました」
「先に」
「本館寮の男子生徒、三十七名。九つの籠を一枚ずつ確かめました。柑橘は、一枚もございませんでした」
「そんなの」
「三十七名のうち二十二名は、特待生棟の方と同じ講義を取っていらっしゃいます。干し場も同じでございます。それでも移っておりません」
ハーヴェル様は何も言わなかった。
「温室には使用簿がございます。使った者が名と時刻を書きつけるものです。私は写させていただきました」
「使用簿なんて、どうやって」
「温室の管理をしている方に、お借りしました。届け出の帳面ですから、隠すものではございませんでしょう」
「……温室は、誰でも入れます」
「その通りですわ。誰でも入れます。私も届けを出して使っております」
私は指を組んだ。
「私とヴェンティス様が約束をして温室にいた日は、冬から十一日ございました。その十一日、ハーヴェル様のお名前が、いずれも四半刻以内に書き足されています」
「……」
「私が一人でおりました日は、二十四日ございます。そちらには、一度もございません」
「偶然です」
「十一度の偶然と、二十四度の不在でございますね」
ハーヴェル様の口が、少し開いた。
「王都のグリンデルに、この外套を見ていただきました」
私は膝の外套を卓に置いた。ヴェンティス様が、それを見た。
「商人の勘でしょう。そんなの、証拠になりません」
「その通りでございます。あの方は証をなさいません。ご自分でそう仰いました」
私は器を持ち上げて、また置いた。
「見立てだけを頂きました。表に乗った匂いは、一度洗えば落ちる。繊維の芯まで、仕立ての名札の裏まで入るには、同じところに同じ手が何度も触れる必要がある。ひと月では入らない、と」
「グリンデルの見立てなら、わたくしにも分かります」
伯爵夫人が言った。
ハーヴェル様が、伯爵夫人を見た。
私はもう一つ、先に申し上げておくことにした。
「私自身の鼻で嗅いだことは、証にいたしません」
「え」
「グリンデルの主人に言われました。ご自分の鼻でお確かめになったのなら、それはお嬢様の鼻でございます、と。ですから私が今申し上げたのは、洗濯場の方が世間話に仰ったこと、使用簿に書いてあること、王都の商人が見立てたこと。この三つだけでございます」
学園長が筆を走らせた。この方はそこだけ、少し速く書いた。
「襟飾りのことを、伺ってもよろしいかしら」
「……直してあげただけです」
「その通りですわ。留め具が固いのだと、おかみさんも仰っていました。毎日いじれば傷むと」
私はヴェンティス様のほうを向いた。
「ヴェンティス様。ハーヴェル様が襟飾りを直してくださっていることを、ご存じでいらっしゃいましたか」
「……いや」
「ハーヴェル様。一度も、お伝えになっていないのですね」
「言うような、ことじゃ」
「善いことをなさったのなら、お伝えになってよいことですわ」
ハーヴェル様は膝の上で手を握った。指先が黒い。爪のまわりまで墨が入っている。
「だから、昔からこうなんです」
声が変わっていた。
「昔からこうなんです。それが何なんですか。触ったら罪ですか。あたしが平民だから、貴族の人の腕に触ったら罪になるんですか」
……そう来るとは思わなかった。
「罪ではございません」
私は言った。
「一度も、罪だとは申しておりません。私が数えたのは、罪ではないことばかりでございます」
ハーヴェル様が私を見た。
「罪でしたら、話は簡単でしたのに」
誰も何も言わなかった。
伯爵夫人が、静かに立ち上がった。
「学園長。この件は、後日改めて」
それだけ言って、扉のほうへ歩いた。学園長が筆を止めて、頭を下げた。
扉が閉まる音は、思ったより小さかった。
連署をする者が、部屋からいなくなった。
私は何も暴露していない。この方が言ったことを、この方が言っただけだ。
◇
ハーヴェル様が泣き出した。
私は困った。手巾を出しかけて、やめた。それは私が出すものではない。
結局、茶を注いだ。注いでも飲まないことは分かっていた。
「オルドリンド」
ヴェンティス様が言った。
「なぜ、俺に言わなかった」
「申し上げても、変わらないことでしたから」
「変わる」
「変わりません」
私は器を置いた。
「この婚約は、去年の冬に解消の手続きが済んでおります」
ヴェンティス様が動かなくなった。
私は少し待って、それから、本当に驚いた声で訊いた。
「え。……まさか、ご存じなかったのですか」
「……聞いていない」
「奥様はご存じでいらっしゃいます。両家の書面ですから」
「なぜ、母は俺に」
「あなたがご自分で片をつけられるまで、お待ちになっていたのだと思います。書面はもう戻せませんけれど、縁を結び直すことはできますもの」
伯爵夫人はもういない。うなずく方がいらっしゃらないので、私は自分でうなずいた。
「私の姉が、同じことで婚約を流しております。四年前です。父は、二度目は先に手を打つと決めておりました」
「……いつ、知った」
「冬に伺いました」
「……なぜ、そのままにしていた」
「申し上げる機会を、探しておりました」
探していたというのは、半分だけ本当だ。もう半分は、この方の隣にいたかったからだ。
この方は、何も言わなかった。
言わないでいてくださって、助かった。何か言われたら、私は順番を間違えていた。
◇
私はハーヴェル様のほうを向いた。
この方は泣きながら、それでも背筋を伸ばして座っていた。作法を習って身につけた人の座り方だった。
「ハーヴェル様」
「……なんですか」
「あなたの筆は、美しゅうございます」
この方が顔を上げた。
「閉架の写本係に、私から学園長へ推挙いたしますわ。あの仕事なら、誰にも触れずに済みますもの」
学園長が筆を持ち直した。記録を取るのが仕事の人だ。
ハーヴェル様は何も言わなかった。言わないまま、膝の上の手を、黒い指のところで握り直した。
私は手帳を取って、膝に戻した。
手帳は、とうとう開かなかった。
「レミィ」
クラウス様が、初めて私の名を呼んだ。もう、遅かったけれど。




