第9話 昔から通りに
謝る人の声は、思っていたよりずっと小さかった。
小さいから、こちらは聞き返さなければならない。聞き返すと、二度目はもっと小さくなる。謝罪というのは、そういう手順を踏むものらしい。
名を呼ばれたあと、ヴェンティス様は何か言おうとした。
私は先に、ハーヴェル様のほうを向いた。
この方は泣きやんでいた。泣きやんだあとの顔は、泣いている顔より見ていられない。目のまわりが赤くて、それでも背筋はまっすぐだった。
私はこの方に、一度も嫌なことを言われていない。それは最後まで本当だった。
「ハーヴェル様」
「……はい」
「昔からこうなんです、とのことでしたので」
この方が顔を上げた。
「私の方が、昔から通りにいたしました。数えて、書いて、黙って退く。オルドリンドの女は、そうしてまいりましたから」
ハーヴェル様の口が動いた。
「あたし」
それだけだった。続きは出てこなかった。
この方は言葉を探していた。探しているのが分かった。閉架の棚を一段ずつ拭くときと同じ丁寧さで探して、見つからなかったのだと思う。
ハーヴェル様は何も言わなかった。
謝らなかった。言い返さなかった。黙って、私を見ていた。
この方は最後まで、自分が何をしたのかを言葉にしなかった。たぶん、本当に分からないままだったのだと思う。
分からないままでいられるということが、この方の持っていたものの中でいちばん高価なものだった。
学園長が筆を置いた。記録はそこで終わったらしい。
卓の茶は、もう湯気を立てていなかった。三つとも冷めていた。誰も二杯目を注がなかった。角砂糖の皿は、私が取った三つの分だけ減っている。
「オルドリンド」
ヴェンティス様が言った。
「はい」
「……すまなかった」
それだけだった。
この方は言い訳をしなかった。気づかなかったとも、悪気はなかったとも、あいつは昔からこうなんだとも言わなかった。ここまで来て、ようやく言い訳をしない人に戻った。
「わかりましたわ」
私は言った。
「お受けいたします」
「外套は、こちらに置いてまいります。奥様がお誂えになったものですから」
「……ああ」
「洗いに出されるときは、樟脳と薔薇でお願いなさいませ。柑橘は、落ちるまでに三度かかるそうです」
これは意地だったと思う。言ってから、少しだけそう思った。
ヴェンティス様が私を見た。この方が私の目をきちんと見たのは、顔合わせの日と、この日だけだったと思う。
「レミィ。……いつから、君は俺を」
「あなたを好きになったのは春でございます。あなたを信じるのをやめたのは、その前の冬でした」
ヴェンティス様は、何も言わなかった。
私は立ち上がって、椅子を戻した。手帳を持って、外套は卓の上に置いた。
あれは返すものだ。
扉のところで、学園長が扉を開けてくださった。
「オルドリンド子爵令嬢」
「はい」
「記録は、連署が不要になった旨のみ残します」
「ありがたく存じます」
この方は最後まで、誰も裁かなかった。記録を取るのが仕事の人だ。裁く仕事は、たぶん誰の仕事でもない。
廊下は長かった。石の床で、靴の音がよく響く。
振り返らなかった。意地ではない。振り返っても、あの部屋には三人いるだけだ。
廊下の窓は西向きで、この時刻がいちばん明るい。歩いていると、床の石の継ぎ目が数えられる。
私は数えなかった。
数えなくてよいと思ったのは、久しぶりだった。
階段を降りたところで、一度だけ足を止めた。止めた理由は自分でも分からない。それから、また歩いた。
中庭の白い花は、まだ咲いていた。
◇
一年が経った。
ハーヴェル様は閉架の写本係になった。学園長への推挙は、私が出した。三年目に地方の写字工房へ移られたと聞いている。筆跡は今も美しいそうだ。
王立図書館の司書補には、別の方が就いた。
ヴェンティス様は領地に入られた。水路をやっていると聞いた。堰は二つ動いたそうだ。三年かかると仰っていたのに、二年で済んだらしい。
オルドリンド領には、年に一度、染料の注文が届く。ヴェンティス伯爵家の名で届く。手紙は入っていない。注文の紙だけが入っている。
ヴェンティス伯爵夫人は、香水商を変えなかった。グリンデルの主人が、去年の暮れに教えてくださった。相変わらず同じお調合でございます、と。
学園は、その年から寮の仕上げを一種類にした。理由は公にされていない。値の高いほうに揃えたのだと、おかみさんが手紙に書いていた。うちは楽になったよ、とも書いてあった。
温室の使用簿には、同席者の名を書く欄が増えた。誰が言い出したのかは知らない。
グリンデルの主人には、今年もお納めに伺った。見立てのことは、二人とも一度も口にしなかった。
ドルセ男爵令嬢は、宿り木という言い方を今も使っている。別の方に。
あの方は語彙が少ない。
洗濯場のおかみさんには、冬に礼を書いて送った。返事に「あの襟飾りは直しといたよ」と書いてあった。誰の襟飾りなのかは、書いていなかった。
イネは仕立て屋の二番手になった。
姉から、一通だけ手紙が来た。中身は書かない。返事は出した。
ハナは今も私の髪を結い直す。緩めるところは、私も覚えた。
手帳は、あの春の分で終わりにした。理由の欄はずっと空いている。
埋めないことにした。
宿り木は、宿主を枯らさない。枯れるのは、宿り木をかばった木のほうだ。
◇
庭の東屋のそばに、白い小さな花の株がある。学園の温室から持ち帰ったものだ。領地の土のほうが合ったらしく、こちらでは毎年咲く。染めに使うのは葉なので、花は咲いても仕方がない。
仕方がないものを、私は抜かないことにしている。
庭に、花が届く。
オルドリンド領は染料と香草の土地なので、花を買うことはあまりない。それでも年に何度か、王都から染料用の花が届く。届けに来るのは同じ人だ。
「ノエルです」
初めて名乗ったときと同じ言い方をする。何度目でも同じだ。
この方は温室のことも、洗濯場のことも、あの小応接のことも知らない。訊かれたこともない。私が学園で何をしていたのかを、たぶん今も知らない。
「その株、花が多いですね」
「土が合ったのですわ」
「たぶん、日の当たり方だと思います」
この方は、私の言ったことをよく訂正する。悪気はない。植物のことだけは、はっきり言う人だ。
「今年のは、根が細いです。土が合っていないと思います」
「では、灰を足しますわ」
「はい。それがいいと思います」
花の話と、天気の話をする。それだけだ。
今日は、椅子を勧めた。
この方は座った。
窓から、春の終わりの光が斜めに落ちている。卓の上に、湯気の立った茶器が二つ。
庭のカモミールで淹れた。姉は濃く淹れる人だった。私も濃いほうが好きだ。
今日のは、少し濃すぎた。




