第7話 妬んでいる人間の字
姉が家を出た日のことを、私は十三で見ている。
オーレリアは四つ上で、婚約が決まっていた。相手は同じ王都の家で、そちらには幼馴染の令嬢がいた。昔からの付き合いだと言われていたそうだ。
その言い方を、私は当時まだ知らなかった。
姉は泣かなかった。婚約が流れた日も、家を出る日も泣かなかった。荷を詰めながら、置いていくものを数えていた。人形が三つ、本が十一冊、押し花の帳面が一つ。
数えて、それから馬車に乗った。
嫁いだ先は地方の男爵家で、遠い。手紙は来ていない。四年になる。
ハナに訊いたのは、その冬のことではなく、この春のことだ。
「姉のところにいたイネという子は、今どこにいるの」
「王都の仕立て屋で針子をしております。オーレリア様が、連れていかれませんでしたので」
休日に外出届を出した。届の理由には、香草の納めと書いた。嘘ではない。領地から届いた乾燥香草を王都の香水商に納める役は、去年から私の仕事になっている。
◇
仕立て屋は表通りから一本入った石畳にあった。イネは奥の作業台にいて、私を見て、針を置いた。
「お嬢様」
「大きくなったでしょう」
「はい。お姉様に似てこられました」
まあ。お上手を言うようになったこと。
私は姉のことを訊いた。イネは針を持ち直してから、手を動かしながら答えた。手を動かしていないと話せない人なのだと思う。
「あのとき、お姉様は一度もお怒りになりませんでした」
「泣かなかったと聞いているわ」
「泣きませんでした。ただ、帳面をつけておられました」
「帳面」
「毎日ではございません。お相手のお家に伺った日だけです。何時に着いて、何時にお帰りになったか。どなたがいらしたか」
……姉も、数えていたのね。
「それを、どうなさったの」
「お発ちになる前に、お焼きになりました」
「焼いたの」
「はい。使わないと決めた、と仰って」
イネはそれだけ言って、あとは何も足さなかった。同情の言葉は一つも出てこなかった。それがありがたかった。
姉が私に置いていった手帳は、革の表紙の、家計と献立を書くための帳面だ。焼いたものと同じ体裁だった。同じ店で、二冊買ったのだと思う。
私は礼を言って、店を出た。イネは針を持ったまま、頭を下げた。
◇
グリンデルの店は香水商だが、店先には香草の束が下がっている。主人は父と同じ年頃の人で、私が籠を下ろすと、蓋を開けて匂いを確かめた。
「今年のはよく乾いております」
「日照りが続きましたので」
納めが済んでから、私は外套を出した。
「これを、見ていただきたいのです」
主人は外套を作業台に広げて、襟に顔を寄せた。それから内側を裏返して、名札のあたりを長く嗅いだ。
「特待生棟の仕上げでございますね。柑橘の、安いほうの」
「お分かりになるものですか」
「値の安いものは、香りの粒が粗うございます。粗いものは深く入ります」
主人は襟の内側を指で押した。
「表に乗っただけの匂いは、一度洗えば落ちます。繊維の芯まで入るには、同じところに、同じ手が、何度も触れる必要がございます」
「何度と、お分かりになりますか」
「回数は申せません。ただ、この深さはひと月では入りません。名札の裏まで来ておりますので」
「では」
「半年とお考えになって、外れはしないでしょう」
私は籠の紐を結び直した。結び直す必要はなかった。
「これを、どこかで証していただけますか」
主人は蓋を閉めて、首を振った。
「見立ては差し上げます。証はいたしません。わたくしどもの商いは、お客様の内証を申し上げないという一点で立っておりますので」
「……そうですわね」
「ただ」
主人はそこで、少し言葉を選んだ。
「わたくしの見立てを、三十年、貴族のお家はお使いくださっております。婚礼の前に、衣に何が移っているかをお尋ねになるお家もございます。その程度のものだと、お考えいただければ」
なるほど。三十年。
「一つだけ、申し上げます」
主人は私の顔を見た。
「お嬢様がご自分の鼻でお確かめになったのなら、それはお嬢様の鼻でございます。人に見せるものではございません」
私は頭を下げた。この方は、私が何をしようとしているかを言い当てて、それでも何も訊かなかった。
◇
学園に戻ったのは日が落ちてからだった。温室に灯りがついていた。
じょうろを持った青年がいた。前にも見た人だ。私は初めて、名を訊いた。
「ノエルです」
「学科は」
「植物学科の聴講生で。……薬草師の子なので、鉢の世話だけ手伝わせてもらってます」
訊いたことしか答えない方。
私は手帳を出した。
「一つ、伺ってよろしいかしら」
「はい」
「これから読むものが、妬んでいる人間の書いたものに見えるかどうか、教えてくださいませ」
名前は伏せて、日付と時刻と数だけを読んだ。秋の並木道、三時十二分。雨の日。洗濯場、九つの籠、三十七。閉架、四時。襟の内側と、左の肩。
読み終わって、私は待った。
ノエルは、じょうろを持ち替えた。
「日付と、数しか書いてありませんね」
「はい」
「……植物の記録みたいです」
「そう聞こえますか」
「枯れた鉢も、こう書きます。いつ、いくつ。理由は後で分かるので、先には書かないんです」
この方はそう言って、鉢の列に戻った。それきり何も訊かなかった。私が誰の話をしていたのかも、訊かなかった。
水の音が、また始まった。
帰る前に、私は温室の使用簿を貸していただけないかと頼んだ。ノエルは棚から出して、私が写すあいだ黙って水をやっていた。何のために写すのかは、訊かれなかった。
私は自分の手を見た。爪の際に土が入っている。人の襟に鼻を近づけた手だ。
妬んでいないと、私は言えない。
言えないままでいい。日付と数は、誰が書いても日付と数だ。
寮に戻る道で、ヴェンティス様のことを考えた。
訊けば、この方は答える。答えれば、たぶん本当のことを言う。嘘をつくのが下手な方だ。
私が怖かったのは答えのほうではない。答えを聞いたあとで、自分が何もしないことのほうだった。
姉は帳面を焼いた。焼いてから馬車に乗った。
私は、焼かない。
姉は、荷を詰めながら数えたそうだ。私は、数えてから荷を詰めることにした。




