第6話 外套の匂い
探りに来る人は、必ず先にこちらを褒める。
あとになって気づいたことだ。そのときは、褒められているとしか思わなかった。
温室の硝子戸が開いたのは、午後の授業が終わってすぐだった。私は香草の株分けをしていた。根を切る道具は温室のものを借りている。刃が古くて、力の入れ方に癖がいる。
「わあ、これ全部オルドリンド様が?」
ハーヴェル様だった。
後ろにヴェンティス様が立っていた。二人とも制服のままで、鞄を持っている。授業から直接来たのだと分かった。
ここには、あの方は来ない。
私はそう思っていた。思っていただけで、来ない約束をしたわけではない。
「すごい。土もちゃんと分けてあるんですね」
「領地から送られてくるものですから。土が合わないと枯れますの」
「へえ。あたし、こういうの全然だめで。鉢植えも三日で枯らしちゃう」
「ハーヴェル様は、書物のほうがお得意でしょう」
「あ、それは。写本なら、まあ」
「閉架の当番を、朝からなさっていると伺いました」
「四時からです。誰もいないうちにやっちゃったほうが早いから」
この方はそこで、少し声を明るくした。
「あたし、王立図書館の司書補を目指してるんです。募集、年に一人なんですけど」
「まあ」
「学園長の推挙と、あと貴族家の方の連署が要るんです。品行の保証っていうか。平民だと、そこがいちばん難しくて」
「難しいものですのね」
「はい。だから、変な噂とか、ほんとに困るんです」
ハーヴェル様は鉢のあいだをゆっくり歩いた。手は後ろに組んでいた。何にも触らなかった。触らないようにしているのが分かる歩き方だった。
まあ。行儀のよろしいこと。
「オルドリンド様、あの、ちょっといいですか」
「はい」
「……洗濯場に、いらしたって聞いて」
私は根を切る手を止めなかった。止めるほうが不自然だからだ。
「香草を煮出した布を、洗いに出したくて。染料が落ちるかどうか、自分で見ておきたかったものですから」
「あ、そういうの自分でやるんですね。すごい」
嘘ではなかった。布は本当に持っていった。使わなかっただけだ。
「あの、あたし、余計なこと言うかもしれないんですけど」
「はい」
「変な噂とか、されてませんか。あたしのこと」
道具を置いた。置いて、手の土を払った。
「宿り木、でしたかしら」
「あ、それです。それ」
ハーヴェル様は少し目を伏せた。声も落ちた。
「それ聞いて、あたし、どうしようって思って。オルドリンド様に嫌な思いさせてたら、あたし、なんて言ったらいいのか分からなくて」
この方は嘘をついていない。私はそう思った。今でも、あのときの声は嘘ではなかったと思っている。
「私は噂を——「あ、でも大丈夫です。あたし、気にしてないんで」
「そうですか」
「はい。だから、オルドリンド様も気にしないでください。あのですね」
ハーヴェル様は顔を上げて、まっすぐ私を見た。
「気を悪くなさらないでくださいね。あたし、昔からこうなんです」
温室は暖かい。硝子越しの日が、鉢の縁に細い影を作っていた。
私は返事をしなかった。
返事をしないでいると、人は同じことをもう一度言う。
「クーも分かってくれてます。ね? あたし、昔からこうなんです」
ハーヴェル様が振り返った。
ヴェンティス様は、鉢の並んだ台の前に立っていた。何も言わなかった。
言わないまま、少し経ってから、短く答えた。
「……ああ」
「ああ」。
それだけだった。
この方は庇わなかった。止めもしなかった。私はそのとき、この方が何も気づいていないのだと思った。気づいていないのなら、罪はない。そう思うことにした。
「そうですのね」
私は言った。
「教えてくださって、ありがたく存じます」
「よかった。言えて、すっきりしました。あの、それで、もしよかったら、連署のこと……」
「ミルカ」
ヴェンティス様が、初めて口を開いた。制するように名を呼んだ。
呼んだのは、そこだけだった。
「あ。ごめんなさい、今のなし。忘れてください」
ハーヴェル様は笑った。笑うと、目のまわりが幼くなる。
二人が出ていくとき、硝子戸は開いたままだった。
私は戸を閉めた。閉めても、温室の中はしばらく元に戻らない。暖かい空気というのは、出ていくのが早くて、戻るのが遅い。
◇
渡り廊下で、私はもう一度二人に会った。
外套を持っていた。返しそびれていたものを、その日は畳んで持って出ていたのだ。返す機会を作るつもりだった。
二人は並んで歩いていた。ハーヴェル様がヴェンティス様の腕を取っていた。取ったまま何かを話して、笑っていた。ヴェンティス様は聞いていた。
歩幅が同じだった。
同じ速さで歩ける相手というのは、練習して手に入るものではない。ヴェンティス様は私と歩くとき、歩幅を落とす。落としてくださるのは、合っていないからだ。
私は柱の手前で足を止めた。
外套を渡すには、二人の前に出ていって、二人の会話を止めなければならない。
止めるだけの用件だろうか、これは。
私は柱の陰で、二人が渡り廊下の端まで行くのを待った。それから、外套を抱えたまま寮に戻った。
◇
自室で、外套を膝に置いた。
襟に鼻を近づけた。
柑橘だった。
雨の日に、私は羊毛の匂いだと思った。寮の石鹸だとも思った。そのどちらでもなかった。本館寮の仕上げは樟脳と薔薇で、柑橘は特待生棟のものだ。
匂いは襟の内側と、左の肩に強かった。
襟の内側は、留め具を直す者の指が触れる場所だ。左の肩は、隣を歩く者が寄りかかる側だ。
私は内側を裏返した。仕立ての名札が縫いつけてある。王都の店の名だった。伯爵夫人が誂えたものだろう。
名札の裏にも、匂いは入っていた。一日や二日で入る匂いではない。
私は外套を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
あの日、この外套は既に匂っていた。私はそれを肩にかけて、傘を持って、指を重ねられて、笑った。
声を出して笑ったのは、あの方の前では初めてだった。
立ち上がって、書棚のいちばん重い本を開いた。
押し葉の紙をつまみ上げて、鼻に近づけた。
柑橘だった。
薄い紅だった花は、もう白に近い。紙のほうにも匂いがある。あの日、私は外套の袖を通したまま、この本を開いた。
移したのは、私の手だ。
私は紙ごと花をたたんで、屑籠に入れた。
それから手帳を出して、理由の欄に一行書いた。書いてから、線を引いて消した。
まだ書いてはいけない。私が見たのは、匂いと、傷んだ布と、数だけだ。匂いを嗅いだのは私の鼻で、数えたのは私の手だ。私しか見ていないものは、証にならない。
……順番を、間違えたくない。
線を引いた上に、日付だけ書き直した。
屑籠を廊下に出すのは朝だ。私は朝まで、部屋に置いておいた。
押し葉にした花を、その晩に捨てた。匂いが移っていたので。




