第5話 誰も、そうしていない
侍女の前掛けを借りると、人は顔を見なくなるのだと知った。
オルドリンド家から連れてきている侍女はひとりだけで、名をハナという。前掛けを貸してほしいと言うと、ハナは理由を訊かなかった。訊かない代わりに、私の髪を結い直した。
「お嬢様、そこは緩めておかれたほうがよろしゅうございます。働く者に、朝から髪を整える暇はございませんので」
なるほど。
ハナは私より二つ上で、十四のときから家にいる。こういうとき、この子は理由を訊かない代わりに、必要なことを一つだけ足してくる。
なぜそんなことをしたのか、自分でも説明できたわけではない。外套の襟の匂いのことを、私はまだ考えていなかった。考えていないことにしていた。
ただ、洗濯場というところを一度見ておきたかった。
それだけ、ということにした。
洗濯場は寮の裏手にある。石造りの低い建物で、朝のうちは湯気で戸口が白く曇っていた。中は暑い。春でも暑い。天井から張った綱に洗い上がりが並んでいて、その下を人が屈んで歩いている。
働いているのは八人ほどだった。手が足りない朝は寮の侍女が手伝いに来ると、ハナが教えてくれた。私はその中に混じった。
学園には寮が二棟ある。本館寮と、特待生棟。洗濯場はひとつで、両棟の分をまとめて洗う。
違うのは仕上げだ。すすぎの最後に香油を一滴落とす。本館寮は樟脳と薔薇、特待生棟は柑橘のものと決まっている。値が違うというだけの話で、それ以上の意味はない。桶の縁には棟の名を書いた木札が下がっていて、間違えないようになっている。
洗濯場の主は五十がらみの女で、皆からおかみさんと呼ばれていた。私が前掛けをつけて立っていると、当然のように籠を寄越された。
「そこの仕分け、頼むよ。襟と袖口だけ先に見といておくれ」
「はい」
「新しい子だねえ。どこの家の子だい」
「……オルドリンドという家から参りました」
「ああ、香草のところの。いい匂いのする家だねえ」
まあ。褒められてしまった。
「うちの仕上げの油もね、昔はもっといいのを使ってたんだよ。今は棟で分けちまってさ」
「棟で」
「本館は樟脳と薔薇、特待生は柑橘。値が三倍違うんだと。あたしに言わせりゃ同じ湯で洗ってるんだから大差ないんだけどねえ」
「……仕上げのあとで、混ざることはございますか」
「そりゃ、干し場で隣り合えばね。少しは移るさ。少しはね」
少しは。
仕分けは単純な仕事だった。籠から一枚ずつ取り出して、襟と袖口の汚れを見る。ひどいものはよけて別の桶に入れる。手が覚えるまでに四半刻もかからなかった。
本館寮の籠を触っていて、私は手を止めた。
柑橘の匂いがした。
洗う前の衣に、仕上げの香油の匂いがついている。順番が逆だった。
木札を確かめた。本館寮。上に留めてある名札には、ヴェンティスとある。
私は籠を戻そうとして、戻さなかった。
戻せば、今日のことは何もなかったことになる。前掛けを返して、湯気の中から出て、それで終わりだ。終わりにできる場所は、たぶんここが最後だった。
私は隣の籠を取った。
本館寮の籠は全部で九つある。一つに四人から五人分。私は一枚ずつ襟に鼻を近づけた。おかみさんは何も言わなかった。仕分けの者が匂いを嗅ぐのは、汚れを見るのと同じことだからだ。
どれも樟脳と薔薇だった。前の週の仕上げが残っている。それが本館寮の匂いだ。
柑橘は、一枚もなかった。
九つの籠で、三十七名分。本館寮に入っている男子生徒の数と同じだった。
最後にもう一度、ヴェンティスの籠を見た。
襟飾りが一つ、畳んで入れてあった。去年の冬に私が贈ったものだ。留め具のあたりの布が、同じ場所ばかり毛羽立っている。
「その襟飾りねえ」
おかみさんが横から覗きこんだ。
「いつも同じとこが傷んでるんだよ。留め具が固いんだろうねえ。直してやろうかと思うんだけど、預かりものだから勝手にいじれなくてさ」
「……よく、傷むものでしょうか」
「そりゃあ、毎日いじってりゃ傷むさね」
私は返事をしなかった。
前掛けを返して寮に戻るまでのあいだ、誰も私の顔を見なかった。
◇
その日の昼、私はヴェンティス様と中庭で会った。
この方は水路の図面を持ってきて、石の卓に広げた。堰の位置が三つ、赤い印で示してある。
「これを一つ、下流に動かしたい。兄は反対している」
「動かせますの」
「動かせる。金と、三年あれば」
「三年」
「長いか」
「いいえ。三年で済むのですね」
「済ませる」
この方は図面を丁寧に畳んだ。角を合わせて、二度折る。自分で引いた線を人に見せるとき、この方は少しだけ早口になる。
私は何も訊かなかった。訊くことがなかったわけではない。
この方の襟には、いつもの襟飾りがついていた。
◇
翌朝、私は四時に起きた。
起きて何をするか決めていたわけではない。決めないまま上着を羽織って、閉架書庫のほうへ歩いた。
窓に灯りがついていた。
扉は開いていた。ハーヴェル様が脚立の上で、棚を拭いていた。
布を持ち替えて、同じ段を二度拭く。埃が落ちたのを目で確かめてから、次の段に移る。灯りは一つしかない。手元より上は、ほとんど見えていないはずだった。それでも一段も飛ばさなかった。
いちばん下の段は、膝をつかなければ拭けない。この方は膝をついた。制服の膝が白くなっている。前に見たときも同じ場所が白かった。あれは埃だったのだと、そのとき分かった。
私は入口の柱の陰に立って、それを見ていた。
半刻ほど見ていたと思う。そのあいだ、この方は一度も休まなかった。水も飲まなかった。誰も見ていない。褒める者もいない。次の当番が来る前に終わらせておけば、その者が楽になる。それだけのために、この方は四時に起きている。
……本物だ。
私はそれを認めた。認めたくないと思う自分がいたことも、同時に分かった。
書庫を出るとき、床板を鳴らさないように歩いた。気づかれたくなかった。気づかれて、明るく挨拶をされるのが怖かったのだと思う。
寮に戻る道で、空が白み始めていた。
もし相手が別の誰かだったなら、私は三十七枚の襟に鼻を近づけていない。たぶん、近づけていない。
そのことは、忘れないでおこうと思った。
自室に戻って、手帳を開いた。
洗濯場のこと。本館寮の籠に柑橘があったこと。三十七という数。閉架、四時、脚立。書いたのはそれだけだ。
誰が悪いとは書かなかった。書けることがなかったからだ。順番の逆な衣が一枚あったというだけで、それは罪でも何でもない。
理由の欄は、相変わらず空いている。秋からずっと空けたままだった。
三十七名。移っていない方の数だった。数え終えても、私はまだ、何も言わなかった。




