第4話 宿り木という呼び名
その春はよく雨が降って、渡り廊下の石はいつも濡れていた。
学園の渡り廊下は屋根があるだけで、壁がない。横から降られると、あってもなくても同じことになる。私は講堂の柱のところで、雨脚が弱まるのを待っていた。傘は寮に置いてきた。朝は晴れていたのだから、仕方がない。
朝の空を信じた私が悪い。
石の上を、細い水が幾筋も流れていく。流れは柱の根元でひとつにまとまって、中庭の土に落ちていた。見ているぶんには悪くない眺めだった。あと半刻もすれば止むだろうと思っていた。
思っていただけで、根拠はなかった。半刻経っても、雨は止まなかった。
「オルドリンド」
ヴェンティス様が傘を差して歩いてきた。一本しかない傘だった。この方は私の前で立ち止まって、傘を少しこちらへ傾けた。
「入るか」
「入りますと、二人とも濡れますわ」
「そうだな」
この方は考えた。考えるとき、眉のあたりに力が入る。
まあ、律儀に考えていらっしゃること。
それから傘を私に押しつけて、着ていた外套を脱いだ。
「え」
「これを着て、傘も持て」
「ヴェンティス様が濡れます」
「濡れる」
「濡れますでしょう」
「濡れる」
この方は同じ言葉を三度言って、外套を私の肩にかけた。羊毛の厚いもので、思ったより重い。まだ体温が残っていた。
結局のところ二人で並んで歩くのだから、これに意味があるのかどうか。
私は傘を持ち、この方は濡れて歩いた。肩から先がすぐに色を変えた。それでも歩き方は変わらなかった。走れば早く着くのに、この方は歩幅を私に合わせている。
渡り廊下の途中で、ヴェンティス様が言った。
「君は、俺の前だと息を止めるのをやめてくれる」
「……何のお話でしょう」
「顔合わせのとき、君は二時間、息を止めているような座り方をしていた。今はしていない」
この方は前を向いたまま言った。照れ隠しをしなかった。言って、それきり黙った。
私は傘を持ち直そうとした。持ち替えるとき、この方が柄の下のほうを掴んだ。指が重なって、そのまま、しばらくどちらも動かさなかった。
雨の音が屋根に当たっている。石の上の流れが、さっきより太くなっていた。私はその流れを見ていた。見ていないと、顔が上がってしまう。
「オルドリンド」
「はい」
「……いや。何でもない」
「よろしいのですか」
「よくはない。だが、今言うと、雨のせいにされる気がする」
私は笑ってしまった。声を出して笑ったのは、この方の前では初めてだった。
「雨のせいにはいたしませんわ」
「なら、晴れた日に言う」
晴れた日は、その後もう何度もあった。
この方はとうとう、言わなかった。
寮の前で、ヴェンティス様は傘だけ受け取って帰っていった。外套のことは言わなかった。
いや。この方は忘れていたのだと思う。私は覚えていて、言わなかった。
◇
雨の日の談話室は、話題が二つしかない。天気と、人のことだ。天気の話は三日で尽きる。
その日も三人ばかりが暖炉の前にいた。私は外套を腕にかけたまま、火から離れた隅の椅子に座った。
声をひそめる話し方というのは、かえってよく聞こえるものだ。
「——ですから、宿り木ですのよ」
ドルセ男爵令嬢が言った。
「宿り木」
「ご存じない? 他家の木に根を下ろして、枝から養分をいただくの。枯らしはしませんのよ。枯らしてしまったら、ご自分も困りますもの」
誰のことなのかは、聞かなくても分かった。
「あの方、ヴェンティス様の腕から手をお離しにならないでしょう。特待生の棟からわざわざ本館まで、雨の日も」
「勉強熱心でいらっしゃるのよ」
「ええ。大変に」
まあ、お上手なこと。
私は膝の上の外套を畳み直してから、口を開いた。
「宿り木は、宿主を枯らしはしませんわ」
三人がこちらを向いた。ドルセ男爵令嬢が、少しだけ目を丸くした。
「まあ。オルドリンド様がそれを仰るの」
「ハーヴェル様は、閉架の当番を四時から引き受けていらっしゃいます。徽章は磨いてありました。人が見ていないところを磨く方を、私は悪く申し上げられませんの」
「オルドリンド様は、お優しいのね」
「優しさではございません。見たものを申し上げただけです」
誰も何も言わなかった。ドルセ男爵令嬢は肩をすくめて、話題を明日の茶菓子に変えた。
部屋を出るとき、後ろで声がした。
「……あの子、昔からああなんですって」
「どなたが仰ったの」
「ヴェンティス様が」
……そう。
私は扉を閉めて、廊下を歩いた。雨はまだ降っていた。
◇
自室に戻って、外套を椅子の背にかけた。
返しそびれたものは、返す機会を作らなければならない。明日でもいいし、明後日でもいい。急ぐ理由がなかったので、私は急がないことにした。
袖を、一度だけ通してみた。丈がまるで合わない。当たり前だ。それでも、しばらくそうしていた。
誰も見ていない部屋で何をしようと、記録に残るわけではない。
襟のあたりが、少し匂った。
雨に濡れた羊毛の匂いだと思った。寮の石鹸の匂いも混じっている気がしたけれど、寮のものなら混じって当たり前だ。この方は寮に入っている。私はそこまで考えて、それ以上は考えなかった。
書棚のいちばん重い本を開いて、押し葉を見た。花はもう色が抜けかけている。薄い紅だったものが、今は白に近い。
それから手帳を出して、日付を書いた。
書くことがあったわけではない。今日は何も起きていない。傘に入らなかっただけだ。噂を聞いただけだ。
それでも、書いた。
かばった言葉は、正しかったのだと思う。正しさというものは、後から一番痛くなる。




