第3話 糸と同じ色の花
温室の硝子は、春でもいつも汗をかいていた。
冬のあいだ、私はここに通うようになった。オルドリンド領から送られてくる香草の苗を、温室の隅を借りて育てている。土が違うせいか、根づかないものもある。枯れたものは、そのつど土に返した。
春になって、いくつかが花をつけた。白くて小さい、目立たない花だった。染めに使うのは花ではなく葉のほうなので、咲いても仕方がないのだけれど。
ここには、あの方が来ない。
一度、そう思ったことがある。思ったことを、私は手帳には書かなかった。
その日、私は手帳を持ってきていた。持ってきていただけで、朝から一度も開いていない。上着の物入れに入れたまま、忘れていた。
そういう日が、冬のあいだに何度かあった。
「オルドリンド」
振り向くと、ヴェンティス様が硝子戸のところに立っていた。片手を後ろに回している。
「授業は」
「終わった。……いや、終わっていない。抜けてきた」
抜けてきた、ですって。
「一時限だけだ」
「一時限でも、抜けたことになりますでしょう」
「……そうだな」
この方は硝子戸を閉めて、鉢のあいだを歩いてきた。背が高いので、天井の低いところで一度身をかがめた。かがみ方が慣れている。前にも来たことがあるのだと、そのとき知った。
それから、後ろの手を出した。
花だった。薄い紅の、小さな花が三本。茎のところを紙で巻いてあるのだが、巻き方が下手で、紙が破れている。
まあ。ひどい巻き方。
「これで合っているか、自信がない」
「何にでございましょう」
「……糸の色」
冬の終わりに、私は談話室で刺繍をしていた。ヴェンティス様は向かいに座って、本を開いていた。同じ頁がずっと開いたままなのに気づいて、私は顔を上げた。
「読んでいらっしゃらないでしょう」
「読んでいる」
「では、何が書いてありますの」
「……堰の話だ」
水路の本ではなかった。詩集だった。
この方は本を閉じて、それきり黙っていた。私も黙っていた。糸を替えるとき、この方が一度だけこちらを見た。
あのとき使っていた糸の色を、この方は覚えていたらしい。
覚えていた、という事実のほうを、私はしばらく持て余した。
「同じ色だと思って買った。買ってから、違う気がしてきた」
「……」
「違うか」
「違いますわ」
「そうか」
この方は、そうかとだけ言った。言い訳をしない人だ。それは前からそうだった。
「ですが、こちらのほうがきれいですの」
「そうか」
同じ言葉なのに、二度目のほうが少しだけ低かった。
私は花を受け取って、作業台の空いた鉢に立てた。水を張っておけば、二日は保つ。
「では、当番があるから」
ヴェンティス様が言った。誰の当番なのかは、言わなかった。
私は袖を掴んだ。
掴んでから、掴んだことに気がついた。
「もう少しだけ、ここにいてくださいますか」
言ってから、耳が熱くなった。温室が暑いせいだと思うことにした。硝子越しの日が強い。そういう場所なのだから、仕方がない。
……何をしているのかしら、私は。
ヴェンティス様は動かなかった。それから戻ってきて、私の隣の台に腰を下ろした。台は苗を並べるためのもので、人が座るようにはできていない。板がわずかに軋んだ。
「授業は」
「二時限目も抜ける」
まあ。二時限目も。
この方は天井の硝子を見上げて、息を吐いた。
「……もう、しばらく授業に行きたくない」
そういう言い方をする人だとは思わなかった。私は返事をしなかった。返事をすると、この方が我に返ってしまう気がした。
温室は静かだった。土の匂いと、ぬるい湿りがある。私は苗の位置を直すふりをして、手を動かした。動かしていないと、落ち着かなかった。
「兄上は、ご領地に入られるのですか」
「入る。俺は水路をやる」
「水路」
「兄が要らないと言えば、それも終わりだが」
「終わりますかしら」
「終わらせない方法を、今のところ知らない」
この方は、できないことをできると言わない。私はその話し方が好きだった。
好きだった、と今なら書ける。そのときは、書かなかった。
そのとき、上着の物入れから手帳が落ちた。
石の床で、乾いた音がした。
ヴェンティス様が屈んで拾い上げた。表紙の角が擦れている。もう半年以上持ち歩いているのだから、当然だった。
この方はそれを、開かずに私に返した。
「落とした」
「……ありがとうございます」
「中は見ていない」
「伺っておりませんわ」
「一応、言っておこうと思って」
この方は自分の膝のあたりを見ていた。見ていないと言うために、わざわざ言葉を探したのだと思う。探すのに、少し時間がかかったらしかった。
私は手帳を受け取って、物入れに戻した。その日はとうとう、一度も開かなかった。
温室の奥で、じょうろを持った青年が鉢に水をやっていた。植物学科の者だと思う。私たちには目もくれず、鉢を一つずつまわって、最後に軽く会釈をして出ていった。
水の音だけが、しばらく残っていた。
ヴェンティス様が立ち上がったのは、鐘が二度鳴ってからだった。二度目の鐘は、閉架の当番が入れ替わる時刻を知らせるものだ。私はそれを、あとになってから知った。
「当番に行く」
「はい」
「……悪い」
謝る理由が、この方にはあったのだと思う。そのときの私は、それを聞かなかった。
その晩、私は花を紙にはさんで、書棚のいちばん重い本の下に置いた。母が残した染めの覚え書きで、重いだけで、中身はもうほとんど頭に入っている。
花の色は、少しだけ違っていた。それでも私は、その花を押し葉にした。




