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昔からこうなんですとのことでしたので  作者: 九葉(くずは)


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3/9

第3話 糸と同じ色の花

 温室の硝子は、春でもいつも汗をかいていた。


 冬のあいだ、私はここに通うようになった。オルドリンド領から送られてくる香草の苗を、温室の隅を借りて育てている。土が違うせいか、根づかないものもある。枯れたものは、そのつど土に返した。


 春になって、いくつかが花をつけた。白くて小さい、目立たない花だった。染めに使うのは花ではなく葉のほうなので、咲いても仕方がないのだけれど。


 ここには、あの方が来ない。


 一度、そう思ったことがある。思ったことを、私は手帳には書かなかった。


 その日、私は手帳を持ってきていた。持ってきていただけで、朝から一度も開いていない。上着の物入れに入れたまま、忘れていた。


 そういう日が、冬のあいだに何度かあった。


「オルドリンド」


 振り向くと、ヴェンティス様が硝子戸のところに立っていた。片手を後ろに回している。


「授業は」


「終わった。……いや、終わっていない。抜けてきた」


 抜けてきた、ですって。


「一時限だけだ」


「一時限でも、抜けたことになりますでしょう」


「……そうだな」


 この方は硝子戸を閉めて、鉢のあいだを歩いてきた。背が高いので、天井の低いところで一度身をかがめた。かがみ方が慣れている。前にも来たことがあるのだと、そのとき知った。


 それから、後ろの手を出した。


 花だった。薄い紅の、小さな花が三本。茎のところを紙で巻いてあるのだが、巻き方が下手で、紙が破れている。


 まあ。ひどい巻き方。


「これで合っているか、自信がない」


「何にでございましょう」


「……糸の色」


 冬の終わりに、私は談話室で刺繍をしていた。ヴェンティス様は向かいに座って、本を開いていた。同じ頁がずっと開いたままなのに気づいて、私は顔を上げた。


「読んでいらっしゃらないでしょう」


「読んでいる」


「では、何が書いてありますの」


「……堰の話だ」


 水路の本ではなかった。詩集だった。


 この方は本を閉じて、それきり黙っていた。私も黙っていた。糸を替えるとき、この方が一度だけこちらを見た。


 あのとき使っていた糸の色を、この方は覚えていたらしい。


 覚えていた、という事実のほうを、私はしばらく持て余した。


「同じ色だと思って買った。買ってから、違う気がしてきた」


「……」


「違うか」


「違いますわ」


「そうか」


 この方は、そうかとだけ言った。言い訳をしない人だ。それは前からそうだった。


「ですが、こちらのほうがきれいですの」


「そうか」


 同じ言葉なのに、二度目のほうが少しだけ低かった。


 私は花を受け取って、作業台の空いた鉢に立てた。水を張っておけば、二日は保つ。


「では、当番があるから」


 ヴェンティス様が言った。誰の当番なのかは、言わなかった。


 私は袖を掴んだ。


 掴んでから、掴んだことに気がついた。


「もう少しだけ、ここにいてくださいますか」


 言ってから、耳が熱くなった。温室が暑いせいだと思うことにした。硝子越しの日が強い。そういう場所なのだから、仕方がない。


 ……何をしているのかしら、私は。


 ヴェンティス様は動かなかった。それから戻ってきて、私の隣の台に腰を下ろした。台は苗を並べるためのもので、人が座るようにはできていない。板がわずかに軋んだ。


「授業は」


「二時限目も抜ける」


 まあ。二時限目も。


 この方は天井の硝子を見上げて、息を吐いた。


「……もう、しばらく授業に行きたくない」


 そういう言い方をする人だとは思わなかった。私は返事をしなかった。返事をすると、この方が我に返ってしまう気がした。


 温室は静かだった。土の匂いと、ぬるい湿りがある。私は苗の位置を直すふりをして、手を動かした。動かしていないと、落ち着かなかった。


「兄上は、ご領地に入られるのですか」


「入る。俺は水路をやる」


「水路」


「兄が要らないと言えば、それも終わりだが」


「終わりますかしら」


「終わらせない方法を、今のところ知らない」


 この方は、できないことをできると言わない。私はその話し方が好きだった。


 好きだった、と今なら書ける。そのときは、書かなかった。


 そのとき、上着の物入れから手帳が落ちた。


 石の床で、乾いた音がした。


 ヴェンティス様が屈んで拾い上げた。表紙の角が擦れている。もう半年以上持ち歩いているのだから、当然だった。


 この方はそれを、開かずに私に返した。


「落とした」


「……ありがとうございます」


「中は見ていない」


「伺っておりませんわ」


「一応、言っておこうと思って」


 この方は自分の膝のあたりを見ていた。見ていないと言うために、わざわざ言葉を探したのだと思う。探すのに、少し時間がかかったらしかった。


 私は手帳を受け取って、物入れに戻した。その日はとうとう、一度も開かなかった。


 温室の奥で、じょうろを持った青年が鉢に水をやっていた。植物学科の者だと思う。私たちには目もくれず、鉢を一つずつまわって、最後に軽く会釈をして出ていった。


 水の音だけが、しばらく残っていた。


 ヴェンティス様が立ち上がったのは、鐘が二度鳴ってからだった。二度目の鐘は、閉架の当番が入れ替わる時刻を知らせるものだ。私はそれを、あとになってから知った。


「当番に行く」


「はい」


「……悪い」


 謝る理由が、この方にはあったのだと思う。そのときの私は、それを聞かなかった。


 その晩、私は花を紙にはさんで、書棚のいちばん重い本の下に置いた。母が残した染めの覚え書きで、重いだけで、中身はもうほとんど頭に入っている。


 花の色は、少しだけ違っていた。それでも私は、その花を押し葉にした。

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