第2話 昔からこうなんです
婚約者に初めて会った日のことは、あまりよく覚えていない。腕を組んでいた方のことは、覚えている。
顔合わせは学園の来賓室で行われた。父とヴェンティス伯爵が領地の水路の話をして、伯爵夫人が私の刺繍の話をして、それで二時間が過ぎた。私は三十回ほど微笑んで、七回うなずいて、紅茶を二杯飲んだ。
当人同士は、ほとんど何も話していない。
解散したのは午後三時前だった。学園の敷地を通って表門まで戻る道は、講堂の前の並木道を抜ける。父たちは馬車でもう出ていた。残ったのは私とヴェンティス様の二人で、要するに、そういう段取りだったのだと思う。
葉が黄色くなりかけていた。踏むと音がする。
「歩くのが速ければ言ってくれ」
ヴェンティス様が言った。それから三歩目で、こちらに合わせて歩幅を落とした。言ってから直すのではなく、言いながら直す人だった。
「いえ。ちょうどようございます」
「そうか」
会話はそこで途切れた。並木の端まで、たぶん二百歩ある。二百歩を無言で歩くのは、思っていたより難しい。
私は数を数える癖がある。歩数でも、角砂糖でも、人が同じ言葉を使った回数でも。母には何度も直しなさいと言われた。直らなかった。
このときも数えていた。四十六歩目で、この方がため息をついた。
「正直に言うと、途中から何を話しているのか分からなくなっていた」
まあ、正直な方。
「水路の話でございましたわ」
「そうだったな。……君は聞いていたのか」
「聞いておりました。三年前の氾濫のあと、堰を二つ増やしたそうですの」
「……よく覚えているな」
「覚えるのが得意ですの。役に立ったことはあまりございませんけれど」
この方は少し笑った。笑うと、顔合わせのときより二つほど年下に見えた。私は扇の骨を一本、指でなぞった。理由はない。
「来期から、こちらの寮に入られると伺いました」
「ああ。実家からだと遠い」
「ご不便ではございませんか」
「不便な方がいい。家にいると、兄の予定で一日が決まる」
次男というのは、そういうものらしい。私にも姉が一人いるので、少しだけ分かる気がした。分かる気がしただけで、口には出さなかった。
「クーッ!」
声がした。
並木の向こうから、女の子が走ってくる。三つ編みが跳ねて、上着の裾がめくれている。走り方に迷いがない。学園の敷地を、自分の家の廊下のように走る子だった。
その子はヴェンティス様の腕に、まっすぐ手を回した。
「探したじゃん。どこ行ってたの」
「顔合わせだ。言っただろう」
「聞いてないよ、そんなの」
聞いていらしたと思うけれど。
「クー、今日図書室行くって言ってたじゃん」
「行く。あとで」
「あとでっていつ。あたし三時から当番なんだけど」
「……三時前に行く」
「ほんとに? この前も忘れたじゃん」
「忘れてない。遅れただけだ」
「同じだし」
私は二人の会話が終わるのを待った。待つあいだ、並木の葉を数えた。数え終わらないうちに終わった。
それから、その子が私を見た。
「あ。……えっと」
ハーヴェル様は腕を組んだまま、丁寧に頭を下げた。下げ方はきれいだった。作法を習ったのではなく、直したのだと分かる下げ方だった。
指先が黒かった。爪のまわりまで墨が入っている。洗っても落ちない種類の汚れ方だった。
「オルドリンド様、ですよね。はじめまして。ミルカ・ハーヴェルです。特待生の三年です」
「オルドリンド子爵家のレミィと申します。どうぞよろしくお願いいたしますわ」
腕は、組んだままだった。
まあ。手が塞がっていらっしゃるのね。
「特待生の方は、皆さま朝がお早いと伺いました」
「早いですよー。閉架、四時からなんで。もう慣れましたけど」
「四時に」
「はい。誰もいないうちに棚を拭くんです。そのほうが早く終わるから」
その言い方に、自慢も愚痴もなかった。ただ、そうしているというだけの言い方だった。
「学園でご一緒できるのを、楽しみにしており「あ、あたし教室は別なんで。特待生って棟が違うんです。すみません」
「そうですの。存じませんでしたわ」
「はい。じゃ、あたし行くね。オルドリンド様、失礼します」
ハーヴェル様は腕を離すと、来たときと同じ速さで走っていった。最後に一度だけ振り返って、手を振った。振った先が誰なのかは、よく分からなかった。
靴の踵が、片方だけ深く減っていた。走り方の癖だと思う。
私は、その背中が並木の角を曲がるまで見ていた。
◇
ヴェンティス様が、少し遅れて口を開いた。
「……悪気はないんだ」
私は黙っていた。
「あいつは平民の出で、俺とは小さい頃からの付き合いで、その、家が近くて。だから、昔からこうなんです」
敬語と、そうでない言葉が混ざっていた。
この方は、嘘をつくのが下手なのではない。言い訳をするのが下手なのだ。
なるほど。
「そうでございますか」
「気を悪くしたか」
「いいえ」
悪くはしていない。ただ、覚えただけだ。
並木の端まで、あと三十歩ほどだった。表門の鉄柵が見えている。この方は、その三十歩のあいだ何も言わなかった。
それから、門に手をかける直前で足を止めた。
「すまない」
「何のことでございましょう」
「……君の前では、言い訳をしないで済むと思っていた」
顔は、こちらを向いていなかった。
私は扇を閉じた。閉じる音が思ったより大きくて、自分で驚いた。手のひらが少し湿っている。秋の風は冷たいのに、妙な話だった。
「では、次からはなさらないでくださいまし」
「ああ」
「お約束ですわよ」
「約束する」
この方は、約束という言葉を軽く使わない。それは後になって知ったことだが、このときすでに、私はそんな気がしていた。
門の外で、家の馬車が待っていた。御者が扉を開ける。私は乗り込む前に一度だけ振り返った。この方はまだそこに立っていて、こちらを見ていた。見送るために立っているのだと分かるまでに、少し時間がかかった。
今にして思えば。この方は「二度としない」とは、一度も言わなかった。
◇
その晩、私は自室で手帳を開いた。
新しい手帳だった。婚約が決まったら記録をおつけなさいと、姉が家を出るときに置いていったものだ。姉がなぜそんなものを置いていったのかを、私はそのとき考えなかった。
一行目に日付を書く。それから、時刻を書いた。
午後三時十二分。講堂前の並木道。
書きながら、自分でも驚いていた。時刻を覚えていたことにではない。時刻を覚えておこうと、あの場で決めていたことにだ。
その隣には、理由を書く欄がある。
筆を止めた。
まだ何も起きていない。腕を組まれただけだ。それだけのことを書き留めておく女を、私は好きになれない。
あの方は感じが良かった。礼も正しかったし、私に嫌なことは一つも言わなかった。指が墨で汚れていた。あれは、努力している人の手だ。
……好きになれないけれど。
私は、その行を消さなかった。
理由は、まだ書けなかった。




