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昔からこうなんですとのことでしたので  作者: 九葉(くずは)


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2/9

第2話 昔からこうなんです

 婚約者に初めて会った日のことは、あまりよく覚えていない。腕を組んでいた方のことは、覚えている。


 顔合わせは学園の来賓室で行われた。父とヴェンティス伯爵が領地の水路の話をして、伯爵夫人が私の刺繍の話をして、それで二時間が過ぎた。私は三十回ほど微笑んで、七回うなずいて、紅茶を二杯飲んだ。


 当人同士は、ほとんど何も話していない。


 解散したのは午後三時前だった。学園の敷地を通って表門まで戻る道は、講堂の前の並木道を抜ける。父たちは馬車でもう出ていた。残ったのは私とヴェンティス様の二人で、要するに、そういう段取りだったのだと思う。


 葉が黄色くなりかけていた。踏むと音がする。


「歩くのが速ければ言ってくれ」


 ヴェンティス様が言った。それから三歩目で、こちらに合わせて歩幅を落とした。言ってから直すのではなく、言いながら直す人だった。


「いえ。ちょうどようございます」


「そうか」


 会話はそこで途切れた。並木の端まで、たぶん二百歩ある。二百歩を無言で歩くのは、思っていたより難しい。


 私は数を数える癖がある。歩数でも、角砂糖でも、人が同じ言葉を使った回数でも。母には何度も直しなさいと言われた。直らなかった。


 このときも数えていた。四十六歩目で、この方がため息をついた。


「正直に言うと、途中から何を話しているのか分からなくなっていた」


 まあ、正直な方。


「水路の話でございましたわ」


「そうだったな。……君は聞いていたのか」


「聞いておりました。三年前の氾濫のあと、堰を二つ増やしたそうですの」


「……よく覚えているな」


「覚えるのが得意ですの。役に立ったことはあまりございませんけれど」


 この方は少し笑った。笑うと、顔合わせのときより二つほど年下に見えた。私は扇の骨を一本、指でなぞった。理由はない。


「来期から、こちらの寮に入られると伺いました」


「ああ。実家からだと遠い」


「ご不便ではございませんか」


「不便な方がいい。家にいると、兄の予定で一日が決まる」


 次男というのは、そういうものらしい。私にも姉が一人いるので、少しだけ分かる気がした。分かる気がしただけで、口には出さなかった。


「クーッ!」


 声がした。


 並木の向こうから、女の子が走ってくる。三つ編みが跳ねて、上着の裾がめくれている。走り方に迷いがない。学園の敷地を、自分の家の廊下のように走る子だった。


 その子はヴェンティス様の腕に、まっすぐ手を回した。


「探したじゃん。どこ行ってたの」


「顔合わせだ。言っただろう」


「聞いてないよ、そんなの」


 聞いていらしたと思うけれど。


「クー、今日図書室行くって言ってたじゃん」


「行く。あとで」


「あとでっていつ。あたし三時から当番なんだけど」


「……三時前に行く」


「ほんとに? この前も忘れたじゃん」


「忘れてない。遅れただけだ」


「同じだし」


 私は二人の会話が終わるのを待った。待つあいだ、並木の葉を数えた。数え終わらないうちに終わった。


 それから、その子が私を見た。


「あ。……えっと」


 ハーヴェル様は腕を組んだまま、丁寧に頭を下げた。下げ方はきれいだった。作法を習ったのではなく、直したのだと分かる下げ方だった。


 指先が黒かった。爪のまわりまで墨が入っている。洗っても落ちない種類の汚れ方だった。


「オルドリンド様、ですよね。はじめまして。ミルカ・ハーヴェルです。特待生の三年です」


「オルドリンド子爵家のレミィと申します。どうぞよろしくお願いいたしますわ」


 腕は、組んだままだった。


 まあ。手が塞がっていらっしゃるのね。


「特待生の方は、皆さま朝がお早いと伺いました」


「早いですよー。閉架、四時からなんで。もう慣れましたけど」


「四時に」


「はい。誰もいないうちに棚を拭くんです。そのほうが早く終わるから」


 その言い方に、自慢も愚痴もなかった。ただ、そうしているというだけの言い方だった。


「学園でご一緒できるのを、楽しみにしており「あ、あたし教室は別なんで。特待生って棟が違うんです。すみません」


「そうですの。存じませんでしたわ」


「はい。じゃ、あたし行くね。オルドリンド様、失礼します」


 ハーヴェル様は腕を離すと、来たときと同じ速さで走っていった。最後に一度だけ振り返って、手を振った。振った先が誰なのかは、よく分からなかった。


 靴の踵が、片方だけ深く減っていた。走り方の癖だと思う。


 私は、その背中が並木の角を曲がるまで見ていた。


       ◇



 ヴェンティス様が、少し遅れて口を開いた。


「……悪気はないんだ」


 私は黙っていた。


「あいつは平民の出で、俺とは小さい頃からの付き合いで、その、家が近くて。だから、昔からこうなんです」


 敬語と、そうでない言葉が混ざっていた。


 この方は、嘘をつくのが下手なのではない。言い訳をするのが下手なのだ。


 なるほど。


「そうでございますか」


「気を悪くしたか」


「いいえ」


 悪くはしていない。ただ、覚えただけだ。


 並木の端まで、あと三十歩ほどだった。表門の鉄柵が見えている。この方は、その三十歩のあいだ何も言わなかった。


 それから、門に手をかける直前で足を止めた。


「すまない」


「何のことでございましょう」


「……君の前では、言い訳をしないで済むと思っていた」


 顔は、こちらを向いていなかった。


 私は扇を閉じた。閉じる音が思ったより大きくて、自分で驚いた。手のひらが少し湿っている。秋の風は冷たいのに、妙な話だった。


「では、次からはなさらないでくださいまし」


「ああ」


「お約束ですわよ」


「約束する」


 この方は、約束という言葉を軽く使わない。それは後になって知ったことだが、このときすでに、私はそんな気がしていた。


 門の外で、家の馬車が待っていた。御者が扉を開ける。私は乗り込む前に一度だけ振り返った。この方はまだそこに立っていて、こちらを見ていた。見送るために立っているのだと分かるまでに、少し時間がかかった。


 今にして思えば。この方は「二度としない」とは、一度も言わなかった。


       ◇



 その晩、私は自室で手帳を開いた。


 新しい手帳だった。婚約が決まったら記録をおつけなさいと、姉が家を出るときに置いていったものだ。姉がなぜそんなものを置いていったのかを、私はそのとき考えなかった。


 一行目に日付を書く。それから、時刻を書いた。


 午後三時十二分。講堂前の並木道。


 書きながら、自分でも驚いていた。時刻を覚えていたことにではない。時刻を覚えておこうと、あの場で決めていたことにだ。


 その隣には、理由を書く欄がある。


 筆を止めた。


 まだ何も起きていない。腕を組まれただけだ。それだけのことを書き留めておく女を、私は好きになれない。


 あの方は感じが良かった。礼も正しかったし、私に嫌なことは一つも言わなかった。指が墨で汚れていた。あれは、努力している人の手だ。


 ……好きになれないけれど。


 私は、その行を消さなかった。


 理由は、まだ書けなかった。

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