69. 夜明けの来訪者
(久しぶりだな)
その夢は、見覚えがあった。
のどかで、ありえない色をした景色。
桃色の空に浮かぶ、やけに大きな月。水色の野原に、黄色の川。
そこで、幼い頃の私は随分と長い時間、過ごしていたような気がする。
隣には常に誰かがいて、いろんな遊びを教えてあげた。
(あれは、誰だっけ。名前は?)
何も思い出せない。
男の子だったような気もするし、女の子だった気もする。
ふわふわの犬かと聞かれたら、そうだとも思えてしまう。
ただ、とても楽しくて、嬉しくて、懐かしくて。
離れがたかった。
♢
ぱち。
随分と長い間、瞼を閉じていたのか、目を開くとそんな音がした。
窓からは光が差し込んでいた。身体がまだだるい。
「……」
しばらく、ぼんやりと窓辺のカーテンの柄を眺めていた。無駄に織目を観察したあと、気づく。
「……仕事!!!!」
「休みだボケ」
勢いよく起き上がると、すぐそばにオーウェンが立っていた。
腕まくりをしたその腕に、タオルの掛かった桶を抱えている。
「えっ」
「オルヴァッキと話してる途中で、お前ぶっ倒れたんだよ」
確かに、記憶を遡るとそこで途切れている。
「エヴォカリ局長の指示。休んで飯を食えだってよ」
「し、しごと……予定を組んだのに……」
「体調管理不足。お前が悪い」
ぐうの音も出ない。
オーウェンは桶を脇に置くと、私の額に水で濡らしたタオルを押し付けた。
「ぐわっ、つめたっ!」
「まだ熱があんだから寝てろ」
そのまま枕に沈められた。病人にすることではない。
目元にかかったタオルを持ち上げる。
「……ねぇ。あの後、オルヴァッキは?」
「帰った。今すぐどうこうなるって話じゃねぇから、またあとでって言ってた」
「……そっか」
大事な話の途中だったのに。オルヴァッキに申し訳ないことをしてしまった。
項垂れていると頭上でオーウェンの溜息が聞こえた。
「重かったんだけど」
どうやら運んでくれたらしい。見上げると不機嫌そうな顔があった。
「俺の業務内容は?」
「……護政官の不正監視と、文字通りの護衛……です」
「護政官の運搬と看病は?」
「……業務内容に含まれません」
「お前、マジでふざけんなよ」
「ごめんってば」
しかも看病までしてくれたらしい。放っておいてくれても良かったのに。ふと傍らを見ると、サイドテーブルには、空のグラスと水の入った水差し、それに薬の包みが置いてあった。
「メシ、食えるんだったら、食え。んで薬飲んで寝ろ」
「……私、薬飲んだの?記憶ないんだけど」
しかも、これはおそらく市販薬ではなく処方された薬だ。
何気なく聞いたら、オーウェンはさらに顔を歪めた。
「……夜中に起きて、自分で飲んだんだよ」
なぜか怒っている。
しかも本気で。
産毛がちりちりした。
「ご、ごめん」
本日二度目の謝罪だった。
この男に謝るなんて、という矜持もどこかに行ってしまうほど、オーウェンの機嫌は悪かった。
「……汗かいてたから、動けんなら着替えれば。俺は下にいるから」
そういうと、オーウェンは踵を返して部屋を出ていった。
ばたんと扉が閉まる。
「な……なんなの……?」
私の声は誰もいない部屋に溶けていった。
考えても仕方がないので、シーツをめくる。護政官服のままだった。上着は椅子の上に掛けられている。
だるい身体を起こすと、あちこちが軋むように痛んだ。熱はまだあるようだ。
ただ、汗で服が張り付いて気持ち悪い。私は服を脱いで、オーウェンが置いていった桶とタオルで身体を拭いた。
クローゼットから部屋着を取り出して着替え、少し休んでから、下へ降りていく。
美味しそうな匂いが、鼻を掠めた。
調理場を覗くと、オーウェンが立っていた。
(公爵家の三男が、料理してる)
話は聞いていたけれど、目の当たりにすると何も言えなくなる。もともとの顔が良いから、様になってしまうのがムカつくが。
「……なに作ってるの?」
おそるおそる声をかけてみる。
オーウェンは振り向くことなく答えた。
「野菜の煮込みとパン粥。食えんの?」
いつもの口調だった。もうその声に怒気は含まれていない。
どうやら機嫌を直したらしい。
「どっちも食べる。お腹減った」
この匂いを嗅いでしまったら、もう駄目だ。日が傾いて、もう夕方だ。だいぶ長いこと、食事をとっていないことになる。早く食べさせろと胃袋が唸る前に、私は素直に答えた。悪いのは私の胃袋なので、仕方がない。
「持っていくから、リビングにいれば」
まだ身体は重たいので、その言葉に従うことにした。
リビングに向かうと、暖炉には火が揺らめいていて部屋は暖められていた。私は木の椅子を暖炉の前まで持っていき、そこに座った。椅子に置いてあったひざ掛けを肩まで引き上げて、目を閉じる。
(風邪なんて、何年ぶりかな)
学生の頃だって、風邪をひいたことがない。
意外にメーベルは風邪を引きやすい体質だから、看病した覚えはあるけど、された覚えはない。
そういえば最近、皆に会えていない。
政官組で飲んだのは、あの幽霊騒ぎが最後だ。あれ以降、皆それぞれ何となく忙しくて、同じ共舎なのに揃わない。
(確かあれって夏女神の始めごろだから……もう三月以上はみんなで飲んでない)
オーウェンの部屋で、みんな仕事の愚痴を言ったりして、くだらないことで笑ったりしていた時間が妙に遠く感じる。これはいけない。体調が悪いからか、妙に感傷に浸ってしまいはじめた。
ぱち、ぱち。
暖炉の火がはぜる。
この音は好きだ。子どものころからよく聞いていた音だ。
ぱち、ぱち。
静かな音。
ダダダダダ……
うん?静か?
……ダダダダダダ!!
私が顔を上げたと同時に宿舎の窓が勢いよく揺れた。
「頼む!!寝かせてくれ!!!!」
驚いて振り返ると、人影が小窓に張り付いていた。
そこにいたのは小さくなった黒山羊を小脇に抱えたカロンだった。
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