婚約者に「君の仕事など誰でもできる」と言われたので、引き継ぎ書だけ残して退職しました
桁が、一つずれていた。
三枚目の合計と、五枚目の内訳。
まだ王宮の印も押していない、提出前の報告書だ。
エレノアは羽根ペンを置き、向かいの机に声をかけた。
「ミリアさん。この報告書、数字が合っていません」
「え……?」
ミリアは書類を受け取り、何度も紙面に目を走らせた。
顔から、みるみる血の気が引いていく。
「あ、あの、すぐに直します!!」
「お願いします。それと、二枚目の日付も」
「日付も……!?」
声が裏返った。
エレノアはうなずくだけだった。
「どうした、騒がしいな」
奥の席から、エドガーが顔を上げた。
この部署の長で、エレノアの婚約者でもある男だ。
ミリアがぱっと振り返る。
「エドガー様……! わたし、また間違えてしまって」
エドガーは席を立ち、ミリアの手元をのぞきこんだ。
それから、わざとらしくため息をつく。
「なんだ、この程度か。いちいち、目くじらを立てるな」
「この程度、ではありません。このまま出せば各所に迷惑がかかります」
「なら、君が直せばいい。ミリアはまだ若いんだ。少しくらい大目に見てやれ」
「大目に見るのと、見逃すのは違います」
エドガーの眉が、ぴくりと動いた。
「エレノア。君はいつもそうだ。正しいことを言えば、それでいいと思っている」
「間違いは正さねばなりません」
「そういうところだよ」
ミリアがおろおろと二人を見比べる。
エドガーは、その肩に手を置いた。
上司の手にしては、少し近い。
「気にしなくていい、ミリア。君はよくやっている」
「……はい」
ミリアの頬が、わずかに赤くなった。
エレノアは黙って、その手を見ていた。
「ちょうどいい。前から考えていたんだ。この件の担当は、ミリアに任せる」
「私の担当を、ですか」
「ああ。君は何でも一人でやってしまうから、周りが育たない」
「待ってください。引き継ぎには時間がかかります。日程の調整も、各所への連絡も——」
「何を大げさに」
エドガーは鼻で笑った。
それから、困った子どもを相手にしているかのような顔でエレノアを見た。
「大丈夫、君の仕事など、誰でもできる」
部屋が静まり返った。
ほかの文官たちのペンも、止まっている。
エレノアは、すぐには答えなかった。
エドガーの顔を見る。笑っている。
冗談ですらない。本気でそう思っている顔だ。
(——そうですか)
「わかりました」
それだけ言って、エレノアは自分の机に戻った。
引き出しから、新しい紙を一枚取り出す。
いちばん上に、「引き継ぎ書」と書いた。
♢
夕刻。
部屋を出ようとしたエレノアの背中に、声が届いた。
「エドガー様。エレノア様、怒っていらっしゃったんじゃ……」
「拗ねているだけだよ。明日になれば、けろりとしているさ」
軽い笑い声がした。
「あれは昔から、僕がいないと駄目だからね。すぐに謝ってくるさ」
扉が閉まる。
廊下は静かだった。
エレノアは、一度だけ小さく息を吐いた。
拗ねているつもりなどない。
大股で、王宮の正面階段を下りていく。
自分は腹を立てているのだと、そこでようやく気づいた。
階段を下りきったところで、その声は響いた。
「ふははははは!! 待っていたぞ、エレノア・アシュフォード嬢!!」
顔を上げると長い髪の男が、両腕を広げて立っていた。
風もないのに、髪が揺れている気がする。
監察局長、アウレリオ・ベルンシュタイン。
王宮でいちばん声の大きい男である。
「ベルンシュタイン局長。何かご用ですか」
「用? 用だとも! 聞いたぞ、担当を外されたそうだな!」
「お耳が早いですね」
「素晴らしい!! 実に素晴らしい!! 君には災難だろうが、私にとっては天の恵みだ! 故に急ぎ、君に会いに来た!!」
「声が大きいです」
「失敬!」
声は小さくならなかった。
門の衛兵が、そっと顔をそむけている。
「単刀直入に言おう。監察局に来たまえ! 私は前から、君の書類が欲しくてたまらなかったのだ!」
「書類」
「書類だ! あの目次! 見出しの書き方! 読む者のことを考えた余白! 監察局にはあれが足りない!! 何せ私の書く書類は派手でうるさいからな!!」
アウレリオは身振りを大きくしながら、エレノアのまわりを一周した。
エレノアは動かなかった。
「お給金は」
「今の倍だ!」
「お休みは」
「君の望むだけ!」
「具体的に」
「週に二日! ただし、私が騒いだ翌日は三日でもいい!」
「書面でください」
「ふははは! そう言うと思って、すでに用意した!」
懐から、丸めた紙が出てきた。
必要以上に装飾的な文字が目立つ、うるさい書類だった。
しかも、すでに局長の署名まで入っている。
エレノアはその場で広げ、一行ずつ指でなぞって読んだ。
アウレリオは、そのあいだ一言もしゃべらず自信に満ちた顔でエレノアを見下ろしていた。
(この人、一応黙れるんですね)
最後の行まで読んで、顔を上げる。
「『騒いだ翌日』の定義が、書いてありません」
「……書き足そう!」
「それと、ここの日付が一日ずれています」
「なんと!!」
アウレリオは契約書をのぞきこみ、それから目を輝かせた。
「わざと間違えたものを出したのだ! うむうむ、私の目に狂いはないな! さあ、返事を聞かせてくれたまえ!」
エレノアは契約書を丸め直した。
間違った書類。
肩に置かれた手。
笑っている顔。
——君の仕事など、誰でもできる。
「……引き継ぎが済んでからになります」
アウレリオの顔が、ぱっと明るくなった。
「待とう! いくらでも!」
「十日で済ませます」
「ふははははは!! 十日? 何を言う!! 三日だ、エレノア嬢!!」
「量が」
「できないのか?」
アウレリオは意地悪く言った。
(まったく、エドガーといい、この人といい……)
エレノアはアウレリオをしばらく見つめたあと、口を開いた。
「いいでしょう。あまりお待たせしても、申し訳ありませんから」
「良い心掛けだ! では、君の初出勤を楽しみに待とう!!」
衛兵が、とうとう耳をふさいだ。
♢
引き継ぎ書は、三十二枚になった。
担当していた件の進み具合。各所の窓口と、その癖。
期限の近い順に、すべて並べてある。
「ミリアさん。これで全部です」
「こ、こんなに……」
「わからないことがあれば、まず目次を。順番に確認してください」
ミリアは紙束を両腕で抱え、何度もうなずいた。
奥の席から、エドガーの笑い声がする。
「大げさだな。退職願まで出すことはないじゃないか」
「最後の仕事ですので」
「まだ臍を曲げているのか。いいか、席は残しておかないからな」
エレノアは答えなかった。
羽根ペンとインク壺を、鞄にしまう。
その翌日。
エレノア・アシュフォードは、王宮の文官を辞した。
♢
監察局の朝は、うるさい。
「諸君!! おはよう!! 今日という日は実に記念すべき——」
「おはようございます、局長。会議は午後一番です」
「……うむ!」
扉を開けるなり両腕を広げたアウレリオは、そのまま局長室に入っていった。
部屋のあちこちで、監察官たちが顔を上げる。
誰かが、小さく「おお」と言った。
勤め始めて三日目。
エレノアの机は、局長室の扉のすぐ横にある。
扉はすぐに、また開いた。
「エレノア嬢! この報告書を見たまえ! 実に美しい! 私は今、感動に打ち震えて——」
「それは私が昨日直したものです」
「知っている! だから震えているのだ!」
「震える前に書類に不備がないようにしてください」
「……わかった!」
扉が閉まった。
中から、ペンの走る音がする。
午前のうちに、扉はあと四回開いた。
「エレノア嬢! 西棟の監査は来週! いや、その前に倉庫の帳簿だ! それと財務の返事が来ていない! あと昼食は何だ!?」
「財務への催促、帳簿、西棟の順で手配します。昼食は存じません」
「完璧だ!!」
監察官たちが、そろってエレノアの手元をのぞきこんだ。
局長の早口が、三行のメモになっている。
昼。
年かさの監察官が、エレノアの机にお茶のカップを置いていった。
「アシュフォード殿。来てくださって、本当に助かりました」
「まだ三日です」
「三日で、局長が会議に遅れなくなりました」
隣の席の若い監察官も、何度もうなずく。
「前は、局長の話についていけなくて。言っていることは正しいんです。ただ、速すぎて」
「落ち着いて聞けば、わかります」
「わかるんですか!」
驚かれた。
エレノアは書類の束を揃えながら答える。
「速いだけですから」
二人の監察官は、顔を見合わせた。
それから、拝むような手つきでカップをもう一つ置いていった。
お茶は二杯もいらない。
「そういえば」
若い監察官が、声をひそめた。
「文官室のウェストン殿が、あちこちで言っているそうですよ。『エレノアは、そのうち戻ってくる』と」
「……そうですか」
「その、ご婚約者なんですよね?」
「はい。まだ」
「戻られるんですか? 文官室に」
「戻りません」
エレノアはカップに口をつけた。
それ以上は、何も言わなかった。
若い監察官が何か続けようとしたとき、局長室の扉が勢いよく開いた。
「エレノア嬢!! 会議の資料がない!!」
「机の右の引き出しです」
「ふははははは!! あった!!」
監察局の昼も、うるさい。
♢
三十二枚の引き継ぎ書は、読むだけで二日かかった。
それでも、ミリアはやり遂げた。
目次に印をつけ、期限の近い順に、一つずつ片づけていく。
客人の受け入れ準備も、あと少しだ。
最初は、意地悪だと思った。
こんなに細かく書かなくても、と。
今は、この紙束がないと一日も回らない。
「順調じゃないか、ミリア」
「はい! エドガー様のおかげです」
「ほらな。誰でもできると言っただろう」
褒められて、胸の奥がふわりと浮く。
エドガー様に褒められると、いつもこうだ。
(わたしだって、ちゃんとエレノア様のようにできる)
その日の夕方だった。
先方からの書状が届いたのは。
客人の一行は、十二人。
用意した部屋は、八人分。
到着は、明日の昼。
ミリアの手から、書状が落ちた。
引き継ぎ書の一文を思い出す。
『先方の人数は、直前に変わることが多い。遅くとも三日前に必ず再確認を』
引き継ぎ書の七枚目。
エレノアの、几帳面な字だった。
『エドガー様。先方に、人数の確認を送ってもいいでしょうか』
『必要ない。変わったなら、向こうから言ってくる。いちいち問い合わせるのは失礼だ』
『……はい』
言われたとおりにした。
それだけだった。
「どういうことだ!」
エドガーが書状を拾い上げた。
読み進めるうちに、顔色が変わっていく。
「なぜ、こんなことになった!」
「あの、人数の確認を……」
「今はいい。部屋だ。明日の昼までに、あと四人分! 前日に変更を言ってくるなんて……!!」
ミリアは部屋を飛び出した。
客室係の詰所まで走り、また走って戻ってくる。
「だめでした。明日は、ほかのお客様で埋まっていると」
「どこか一つくらい、空いているだろう」
「三日前なら、と言われました」
エドガーは書状を握ったまま、部屋の中を行き来した。
三度目に戻ってきたところで、足を止める。
「エレノアだ」
「え?」
「エレノアを呼ぶ。あいつなら、一晩で何とかする」
「でも、エレノア様はもう監察局に……」
「関係ない。僕の婚約者だ」
エドガーは笑った。
ここ数日でいちばん、余裕のある顔だった。
「僕が頼めば、あいつは断らない。昔からそうなんだ」
扉が閉まった。
部屋には、ミリアだけが残された。
引き出しを開ける。
紙束を、一枚目からめくった。
『この窓口は、午前中に行くこと。午後は担当が不在のことが多い』
『この書類は、二部作って一部を手元に残すこと』
どれも、書いてあるとおりだった。
書いてあるとおりにしたから、ここまで来られたのだ。
七枚目で、指が止まった。
(わたし、確認したいって言った。でも、言っただけだった)
そこには、ちゃんと書いてある。
♢
その男は、ノックもせずに入ってきた。
残っていた監察官たちが、いっせいに手を止める。
局長室の戸口で、アウレリオも手を止めた。
エドガー・ウェストン。
エレノアの婚約者だ。
「エレノア。来てくれ」
「エドガー様。どうなさいましたか」
「客人の部屋が足りない。明日の昼までに、四人分だ。君なら一晩で何とかできるだろう」
「お断りします」
「……は?」
「私は、もう監察局の者です。それは、私の仕事ではありません」
「そんな建前はいい。僕が困っているんだ」
エドガーは机に手をついた。
身を乗り出し、声をやわらげる。
「まだ拗ねているのか? もう十分だろう。これを機に戻ってきてもいい」
「必要なことは、すべて引き継ぎ書に書きました」
それだけだった。
エドガーは何か言いかけて、やめた。
肩をすくめ、笑ってみせる。
「わかった。今夜は帰る。頭を冷やしておけ」
扉が閉まった。
エレノアは、もう書類に戻っていた。
ペン先が、いつもより少し強く紙に当たっている。
アウレリオは、それを黙って見ていた。
♢
二日後、監察局は静かだった。
局長が、笑わない。
それだけで、部屋の空気がまったく違う。
部屋は、間に合わなかった。
客人のうち四人は、城下の宿に回された。
その夜のうちに、先方から正式な抗議が届いた。
他国の使節を宿屋に泊めるとは何事か、と。
アウレリオの机には、調査の依頼状が一通。
客人の受け入れに不備あり。監察局にて調べられたし。
「エレノア嬢。この件、君には外れてもらう」
「はい」
「相手が君の婚約者だからだ。私情を挟んではいけない」
「決まりですから。わかっています」
エレノアは、自分の仕事に戻った。
アウレリオも、それ以上は言わなかった。
♢
アウレリオが文官室の扉を開けると、エドガーが席を立った。
「監察局長が、わざわざ。大げさですね」
「大げさ? この件で他国の信頼を損ねたというのに?」
アウレリオは、挨拶を返さなかった。
騒がしいことで有名な男が静かに言い返してきたのに驚き、エドガーは口をつぐんだ。
「以前はエレノア嬢が担当していたと聞く。彼女が残した引き継ぎ書のことも。引き継ぎ書はどこに?」
ミリアが、引き出しから紙束を取り出す。
三十二枚。端が少し擦り切れている。
アウレリオは立ったまま、一枚ずつめくった。
目次。期限の一覧。窓口ごとの注意。
七枚目で、手が止まる。
「三行目。『先方の人数は、直前に変わることが多い。遅くとも三日前に必ず再確認を』」
文官室が、しんとした。
「客室係によれば、三日前の時点では、空き部屋があった」
アウレリオは紙束から目を離し、ミリアに向き直った。
「ミリア嬢。確認は送ったか」
「……送っていません」
「なぜ」
ミリアの目が、エドガーのほうへ揺れた。
唇を噛んで、それから、まっすぐ前を向く。
「エドガー様に、必要ないと言われました。わたしは、それに従いました」
ミリアの声は震えていた。
それでも、最後まで言い切った。
「ミリア!」
「事実ですか、ウェストン殿」
「それは……ミリアの聞き間違いだ」
「わたしのせいにするんですか!」
「ここにいるほかの文官の方々も! その時のエドガー様の指示を聞いて、心配していました!!」
ミリアが手で示した先で、文官たちが静かにうなずいた。
アウレリオは、手帳を一枚めくった。
エドガーの顔から、表情が抜け落ちる。
「引き継ぎに漏れはなかった。担当者は、確認を求めた。止めたのは、あなただ」
「僕は、ただ……先方に失礼のないように……そもそも、先方が直前に人数を変えたのが悪いのではないか」
「直前に変わることも、引き継ぎ書に書いてある。判断は、責任者の仕事だ。その判断が誤っていた。それだけのことだ」
アウレリオはエドガーを半目で見つめたあと、ため息をついた。
そして紙束を揃え、ミリアに返した。
「ミリア嬢。あなたにも一つ」
「……はい」
「確認を求めたのは正しい。次は、求めるだけで終わらせないことだ」
ミリアは紙束を胸に抱いて、深く頭を下げた。
「では、私はこれで」
「……どうか穏便に済ましてくれないか」
「処分を決めるのは、監察局ではない。私は事実を報告するだけだ」
アウレリオは踵を返した。
エドガーは、もう返す言葉もなかった。
♢
監察局に戻ると、エレノアは書類から顔を上げなかった。
アウレリオは、彼女の机の前で足を止めた。
「君の引き継ぎ書は、完璧だった」
「当然です」
それでいい、とアウレリオは思った。
一つ息を吸う。
「ふははははは!! 諸君!! 仕事は終わった!! 私は今、猛烈に腹が減っている!!」
「会議が先です、局長」
「……うむ!!」
監察局に、うるささが戻ってきた。
♢
夕暮れの回廊に、見慣れた背中があった。
エドガーは、柱にもたれて立っていた。
エレノアに気づくと、身を起こす。
いつもの笑顔は、なかった。
襟元が、少し乱れている。ここ数日、あまり眠れていないのかもしれない。
「少し、話がある」
「はい」
「調査の結果は聞いた。……僕の考えが、甘かった」
エドガーは目を伏せた。
それから、すぐにエレノアを見た。
「だから、戻ってきてくれ」
「戻る、とは」
「文官室にだ。君の席は、戻した。君がいれば、二度とこんなことにはならない。僕には君が必要だ」
「……」
「そ、それに監察局なんて、君には合わない。あんな騒がしいところ……ミリアも反省している。君が戻れば、また前と同じに回る」
エレノアは答えなかった。
エドガーが一歩、近づく。
「エレノア。君は僕の婚約者だろう。僕のそばにいるのが、いちばんいいんだ」
僕のそば。
その言葉を、口の中でくり返す。
夏の庭。
木陰。
泥のついた、小さな手。
『大きくなったら、二人でこの国を支えよう』
『うん。二人で』
どちらが言い出したのだったか。
覚えているのは、並んで座っていたことだけだ。
エレノアは、エドガーを見た。
「エドガー様」
「なんだ」
「私は、あなたの後ろに立つ約束をした覚えはありません」
エドガーが、口を開けたまま止まった。
「隣に立つつもりでした。ずっと」
「それは……今だって」
「あなたは、私の仕事を誰でもできると言いました」
「あれは、言葉のあやで」
「はい。ですから、もう十分です」
エレノアは、静かに頭を下げた。
「婚約を、解消させてください。父には、私から話します」
「待ってくれ。冗談だろう。君は、僕のことが——」
「信じていました。一緒に歩く相手として」
過去形だった。
エドガーにも、それはわかったらしい。
「エレノア、待ってくれ。僕が悪かった。だから——」
「失礼します」
エレノアは背を向けて、回廊を歩き出した。
足音は、一度も止まらなかった。
エドガーは、その場から動けなかった。
伸ばしかけた手が、宙に残っている。
拗ねているのではない。
明日になっても、けろりと戻ってきたりはしない。
♢
うわさは、昼までに監察局へ届いた。
「エレノア嬢!! 聞いたぞ!! 婚約を解消したそうだな!!」
扉を開けるなり、アウレリオが叫んだ。
部屋じゅうの監察官が、いっせいに羽根ペンを止める。
「声が大きいです」
「失敬!! いや、しかし、これは一大事だ! 祝うべきか!? いや、祝うのは不謹慎か!? では悼もう!!」
「どちらもいりません」
「では、どうすればいい!!」
「仕事をしてください」
「……わかった!!」
うなずいたわりに、アウレリオは動かなかった。
両腕を広げたまま、エレノアの机の前に立っている。
その様子を見て、年かさの監察官がすっと席を立った。
若い監察官の襟首をつかんで、そのまま部屋を出ていく。
ほかの監察官たちも、書類を抱えて続いた。
扉が閉まる。
部屋には、二人だけが残された。
何事かとエレノアが訝しんでいると、アウレリオは広げた腕を下ろした。
「エレノア」
嬢、がついていなかった。
エレノアは羽根ペンを置いた。
「はい」
「少しだけ、真面目な話をしてもいいか」
「どうぞ」
アウレリオは椅子を引き寄せて、机の向かいに座った。
目の高さが、同じになる。
「つらくはないか」
「つらくはありません。……私が振ったのですから」
「そうか」
それだけ聞いて、アウレリオはうなずいた。
笑っていない顔を、エレノアは初めて正面から見た。
「私は、君の仕事を尊敬している。初めて君の書類を読んだ日から、ずっとだ」
「存じています。何度も伺いました。大変光栄に思っています」
「そうだな。だが、今から言うのは、それとは別の話だ」
アウレリオは、一度だけ息を吸った。
「私が好きなのは、君の書類だけじゃない。君が、好きだ」
部屋は静かだった。
窓の外で、鳥が鳴いている。
「どうだろう? 私を婚約者にするのは」
彼にしては、ひどく静かな声だった。
エレノアは、すぐには答えなかった。
アウレリオの顔をじっと見る。
美しく、良い顔だと思う。そして、瞳の奥が静かだ。
「……局長」
「うん」
「今のはお芝居ではないんですね」
「芝居ならもっとうまくやるよ」
短い返事だった。
いつもの十分の一もない。
(この人、本当に……)
エレノアは、机の上で指を組んだ。
「すぐに、お返事はできません。婚約を解消して、すぐに別の方とだなんて」
「ああ」
「父にも相談します。それから手順を、まずは、その」
顔は落ち着いているのに、言葉だけが絡まっている。アウレリオは穏やかな表情でそれを黙って聞いていた。
「……」
エレノアはそんなアウレリオを暫く見つめたあと、口を開いた。
「……私、あなたの後ろ姿じゃなくて、横顔を見ていたい」
アウレリオが、目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑う。
いつもの高笑いではなかった。
「十分だ」
そう言って、アウレリオは立ち上がった。
大きく息を吸い、両腕を広げる。
「ふははははは!! 諸君!! 聞いたか!!」
アウレリオは勢いよく扉を開けた。
扉の向こうに、監察官たちが張りついていた。
「全員、聞いていました!」
「ならば今日は記念日だ!! 監察局は休みにしよう!!」
「騒いだ翌日ではありません」
「では明日休もう!!」
「『騒いだ翌日』の定義は、書き足しましたか」
「……まだだ!!」
アウレリオは胸を張った。
それから、ふと思いついたように指を立てる。
「ところで、エレノア嬢! いつか君が監察局を辞めるときも、あの見事な引き継ぎ書を——」
「書きません」
「なんと!?」
「辞めないので」




