68. 小さな夜
※三人称視点です
オーウェンがアルクセイを横抱きに抱え上げると、彼女の魔力香であるミルクの香りが、わずかに鼻を掠めた。
腕の中のアルクセイの呼気は荒い。
眉間に皺を寄せ、力なくオーウェンの胸板に顔を寄せていた。おそらく、もう意識はないのだろう。
「アルクセイ、学園にいた頃から周りのことは敏感だけど、自分のことには鈍感だから……」
「知ってる」
彼女はいつも、どこか自分に鈍感だった。
痛くても、痛くないと言う。
戦闘民族と呼ばれるドラスニール族の特異体質なのかもしれない。
そして、彼女は自分と同じ。
本当の母親がいない。
オルヴァッキは、オーウェンの返答をどう捉えたかはわからないが、頬を赤らめた。
「オーウェンなら安心だね」
あまりにも真っすぐな言葉に、オーウェンは何も返せず、「お前のとこの従者を呼んでいいか」としか言えなかった。
♢
エヴォカリ局長は部屋から出てきたオーウェンの腕の中にいるアルクセイを見ると、すぐに帰るよう指示を出した。ほかの護政官たちも、宿舎から近い医院を教えてくれたり、後で消化の良い食べ物を届けると言ったり、挙句の果てには女性の看病の仕方を教えようとする者もいた。
オーウェンはそれらをひとつも無下にすることなく、一通り聞き終えると感謝の言葉を残して国庁を出た。
教えてもらった医院に向かい、診察を受け、彼女の状態に溜息を吐いたあと、オーウェンは薬をもらって宿舎へと戻った。
「……かる」
自分よりも小さく軽い存在を、ベッドに下ろす。頬は赤く、息は荒い。
こんなに小さいくせに、よくもあそこまで虚勢を張れるものだ。おそらく自分の一族に対するその誇りが、彼女に根強くある。だから面倒くさい。
種族が何だって関係ない。弱る時は弱るというのに。
まるで赤子のように眠るアルクセイ。ベッドの傍らに椅子を持ってきて座り、オーウェンはぼんやりと頬杖をついて眺めていた。
日は暮れていった。
診察の時に少し起きたアルクセイだったが、その後は昏々と眠った。
宿舎に帰ってきたのは昼頃だというのに、目を覚ますことなく呼吸は荒いままだ。
オーウェンは彼女の額を触った。
昼間より、さらに熱が上がっている。
薬も飲めていない。
長い脚を組んで、思考を巡らせる。彼の人差し指は神経質にとんとんと膝の頭を叩く。
せめて解熱剤を飲ませなくてはいけないが、本人が起きないことにはどうしようもない。
(背負って医院に連れて行くか?)
けれど、夜はだいぶ更けている。
行ったところで開けてくれるとは思えないし、何より雪が深く積もり始めている。
(……こういう時に限って、余計なことを思い出す)
オーウェンが目を覚ました時、母親はすでに亡くなっていた。
五歳の時だった。
下には双子の弟がいて、母親の死を静かに悲しんでいた。
上の兄二人も、父も、皆悲しんでいた。
そんな中で、オーウェンは母親の肖像画を眺めても、何の感慨も湧かなかった。
使用人たちも、兄たちも、父も、誰もなぜ母が死んだのか教えてくれなかった。
けれど、双子の弟たちは幼さゆえに、言ってしまったのだ。
『兄さまが魔力過多症で生まれたから、母さまは身体が弱ってしまったって』
『一度は体調は戻ったけれど、僕たちを産んで身体がダメになっちゃったの』
その後、彼らの父親であるウィルフレッドは、双子に話をしてしまった侍女を解雇した。
若い、噂好きの侍女だった。
オーウェンが成長してから聞いた話だが、彼女を問い詰めたところ、彼女は見目の良いアンブロジオ家の息子を弱らせ、慰めることで懐柔しようと考えていたらしい。
それ以降、アンブロジオ家は若い侍女を雇わなくなった。
代わりに、屋敷に一人の女性が嫁いできた。
それがガートルードだった。
彼女は無理に母親ぶることもなく、アンブロジオ家の五人兄弟に、分け隔てなく接した。とても良い人だった。庶民として育った彼女の言うことは、彼らに様々な視点を与えてくれたし、特にまだ幼い双子にとって、彼女の存在は大きかった。
しかしオーウェンは、彼女を心から頼ることができなかった。
それは後ろめたさからだった。
自分の誕生が実母の死の引き金だったからだ。
ガートルードは実母の親友で、忘れ形見である自分たちのために恋愛結婚もせずにアンブロジオ家へ嫁いできた。自分の人生をそっちのけにした人に、わがままなど言えるはずがない。
いつだったか、アルクセイが何の気なしに、雑談の延長で話したことがあった。
『私、母さんがいなくて、一族のおばさんたちに育てられたの』
似たような境遇だと思った。
母親の代わりに育ててくれた人がいても、手放しで甘えることはできなかった。あくまで、代わりだからだ。迷惑をかけてはいけない。
だからこそ、オーウェンはアルクセイが自分自身に対して鈍感なのを、何となく理解できてしまった。気づかないふりが癖になってしまったのだ。
オーウェンは俯いて、額を押さえた。
『卒業したら仕事を頑張って、普通に恋愛して、結婚して、穏やかに暮らすの』
こういう時に限って、あの時の言葉が頭の中で反芻される。
オーウェンは天井を見上げ、深く、長く息を吐いた。背骨を通る魔力路が妙にちりちりと疼いた。
それから意を決したように椅子から立ち上がると、薬の包みを開き、グラスに水を注いだ。
「お前に殺される覚悟はしとくよ」
そして。
願わくば、彼女が聖女だなんて何かの間違いでありますように。
窓の外では雲が晴れたのか、月がのぞいている。
オーウェンは何の信仰もない月に願った。
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