第14話 五感牢
白妙は、自分の顔が笑うところを初めて見た。処刑台の上で、縄に縛られたはずの白妙の体が、ゆっくりと首を傾ける。黒髪が肩から滑り落ち、見慣れた唇が歪む。
「やっと、この体が手に入った」
白妙の身体を動かしているのは、千世の『耳』から生まれた鈴の式だった。以後、白妙はそれを自分と区別するため、心の中でただ鈴の式と呼んだ。声は白妙のものだった。けれど白妙は知っている。自分はあんなふうに笑わない。
誰かを嘲る時でさえ、あんなに嬉しそうには笑えない。紅玉の体で立つ白妙の喉が、ひゅっと鳴った。周囲の妃たちが騒ぎ出す。
「どういうことですの」
「水鏡には白妙と出たわ」
「では、目の前の紅玉様は、本当に紅玉様なの?」
葛城は、騒ぎを止めなかった。むしろ、静かな目で楽しんでいる。処刑台の鈴の式は、縄をほどかれる前に自分で立ち上がった。札で縛られた手首を、軽く振る。紙札が、焦げもせず、破れもせず、ただ命を失った蝶のように落ちた。
白妙は息を呑む。あの体の中にいるものは、白妙の術式を使えている。それも、不完全ではない。まるで長い間、白妙の体を外から観察し、癖も、息遣いも、力の流し方も覚えていたように。
「紅玉様」
鈴の式は、紅玉の顔をした白妙に向かって膝を折った。仕草だけなら、女官として完璧だった。いつもの白妙より、よほど上手い。
「ご安心ください。無能な女官は、ここにおります」
白妙の背筋を冷たいものが走る。あれは挑発だ。お前の居場所を奪った、と告げている。影の中で焔が低く言った。
「斬るか」
「駄目です」
「お前の体だぞ」
「だから駄目です。あれを傷つけたら、戻る器がなくなる」
「戻りたいのか」
その問いに、白妙は即答できなかった。紅玉の体は美しい。強い。誰も無能と笑わない。けれど、これは白妙の体ではない。盆を落とし、茶をこぼし、叱られながら生き延びてきた、あの頼りない体こそが、白妙の檻であり、鎧だった。
鈴の式は立ち上がると、葛城に向かってにこやかに言った。
「陰陽師長様。紅玉様はお疲れのようです。離宮でお休みいただいては?」
葛城の目が細まる。
「なるほど。あなたは、そこへ行きたいのですね」
鈴の式は答えない。ただ、白妙の顔で無邪気に笑った。葛城は周囲に命じた。
「紅玉妃をお連れしなさい。白妙は私が預かります」
女官たちが白妙へ近づく。紅玉の体で暴れれば、帝の寵妃が乱心したことになる。白妙は紅玉の身体の重さを初めて意識した。美しい衣も高い身分も、好きに動ける自由とは違う。紅玉が一歩誤れば、帝の判断まで疑われる。借りた身体で勝つとは、持ち主が明日も生きられる勝ち方を選ぶことだった。
白妙は唇を噛んだ。その時、袖の内側で小さな鏡が震えた。
『従って』
鏡の中の紅玉の声だった。
『あの偽物は千世の離宮へ向かう。私の体なら、後から追える』
「ですが」
『私の体を使うなら、私の矜持も使いなさい。寵妃は、追われるものではない。追わせるものよ』
白妙は鏡の紅玉へ、ほんの少しだけ頭を下げた。『怖くありませんか』と問うと、紅玉は『怖いわ』と即答した。『でも、怖いことを隠すのと、怖いものに従うのは別よ』。その区別を、白妙は胸へしまった。白妙は一瞬だけ目を閉じた。
紅玉なら、どう笑う。紅玉なら、どう歩く。そして、白妙は顔を上げた。
「葛城様」
声は紅玉のもの。けれど、その奥に白妙の刃を沈める。
「わたくしを休ませたいなら、どうぞ。けれど、その無能女官をわたくしの視界から消して。顔を見るだけで不快です」
鈴の式の眉が、わずかに動いた。焔が影の中で愉快そうに笑う。
「いいぞ。今の嘘は、少し紅玉の味がした」
白妙は無視した。葛城はしばらく白妙を見ていたが、やがて首を振る。
「よろしい。白妙は離宮へ。紅玉妃は寝所へ」
命令が下った瞬間、鈴の式の足元に薄い鈴の影が揺れた。白妙は見逃さなかった。鈴。妹の声が聞こえた、あの櫛の中にもあった影。
「焔」
「分かっている」
焔の影が、白妙の足首から床へ滑った。誰にも見えない黒い狐が、鈴の式の影に尾を絡ませる。白妙は女官たちに支えられ、紅玉の寝所へ連れて行かれた。戸が閉まる。人の気配が遠ざかる。その瞬間、白妙は簪を抜き、畳へ突き立てた。
金の簪が結界の目を割る。ばちん、と音が鳴り、部屋の片隅の影が口を開いた。
「急げ」
焔の声。白妙は紅玉の裾を絡げ、影の穴へ飛び込んだ。冷たい闇が全身を包む。次に足が触れたのは、湿った石畳だった。千世の離宮。白妙は千世を捨てたのではない。薬も衣も欠かさず届けさせた。ただ、自分の声と火が妹をまた傷つけるのが怖くて、寝所へ入ることだけができなかった。
白妙が侍女に世話を託し、十年間、廊の外からしか見守れなかった場所。月の光が薄い。庭は荒れていない。むしろ手入れが行き届きすぎていた。白い花が一面に咲き、風もないのに鈴の音だけが響いている。その鈴の音を聞いた途端、白妙の胸が締めつけられた。
「千世……」
幼い妹は、鈴の音が好きだった。目が見えなくなる前も。耳が聞こえなくなる前も。白妙が失わせたと思っていた、その耳で。離宮の奥から、白妙の体をした偽物の声がした。
「遅かったですね、姉様」
白妙は立ち止まる。鈴の式は、千世の寝台のそばに立っていた。眠る千世は変わらない。薄い肌。閉じた瞼。息をしているのか分からないほど静かな胸。けれど、その周囲には五つのものが置かれていた。灯籠。
鈴。香炉。盃。絹衣。白妙は、それらを見た瞬間に理解した。理解したくなかった。灯籠の火の奥に、見えない瞳が瞬いている。鈴の中で、千世の笑い声が震えている。香炉の煙には、幼い日の桃の香りが混じっている。
盃の底には、甘い蜜の記憶が沈んでいる。絹衣の袖は、誰かの体温のように柔らかく脈打っている。焔が低く唸った。
「五感を、分けて封じたのか」
白妙の膝から力が抜けそうになる。五感は、失われたのではない。千世の中から抜かれ、道具にされていた。白妙の罪だと思っていたものが、目の前で形を持って並んでいる。鈴の式が、白妙の指で鈴をつまんだ。
ちりん。その音に、白妙の頭蓋の奥が割れた。妹の声が聞こえる。
『姉様、痛い』
「やめて」
『暗いの』
「やめて」
『聞こえないの』
「やめなさい!」
紅玉の体から、白い狐火が噴き上がりかける。焔が背後から白妙を抱くように影を絡めた。
「抑えろ。今燃やせば、妹ごと焼く」
「分かっています!」
「分かっていない顔だ」
「分かっていても、耐えられないことくらいあります!」
白妙の叫びに、焔は一瞬だけ黙った。鈴の式は愉快そうに目を細める。
「姉様は、ずっと自分のせいだと思っていたのですね」
「あなたは何」
「式です。鈴に残った耳の欠片。千世様が聞いたもの、聞けなかったもの、聞きたくなかったものを、ずっと覚えていたもの」
鈴の式。つまり、千世の五感の一部が、白妙の体を動かしている。憎んでいるのか。助けを求めているのか。白妙には分からない。
「返して」
白妙は震える声で言った。
「その体は私のものよ」
「本当に?」
鈴の式は首を傾げる。
「姉様は、その体が嫌いだったでしょう。力があるから。耳が生えるから。尾が出るから。千世様を壊した手がついているから」
白妙は何も言えなかった。焔の影がぴくりと動く。鈴の式は続けた。
「なら、私が使ってあげます。千世様のために」
「千世のため?」
「ええ。千世様を目覚めさせるには、姉様の体が要る。姉様の火が、鍵になる」
白妙の視線が、眠る千世へ向かう。その時だった。千世の唇が、わずかに開いた。声は出ない。耳も聞こえないはずの妹が、言葉を持つはずがない。それなのに、白妙の胸の内側へ、直接声が落ちた。
『姉様』
白妙は息を止める。
『返さないで』
千世の閉じた瞼の下で、涙が一筋こぼれた。
『私は檻じゃない』
五つの呪具が、一斉に震える。灯籠が白く燃え、鈴が割れそうに鳴り、香炉の煙が狐の形に膨らんだ。千世の声が、最後に震えた。
『私は、餌なの』




