第13話 紅玉の嘘、白妙の罪
「この無能女官、寵妃を呪った罪で処刑します」
葛城の声は、帝の殿舎にいながら後宮中へ響いた。呪を乗せた声だ。女官の井戸端にも、妃の寝所にも、宦官の詰所にも、あの柔らかな声が染み込んでいく。
北庭で柱に縛られていた白妙の身体は、その後、検魂のため中庭の白い台へ移された。処刑ではなく公開の検査に見せかけることで、葛城は後宮中に同じ結論を信じ込ませようとしていた。白妙という無能女官が、紅玉妃を呪った。
人々はすぐに信じるだろう。無能は、失敗しても疑われない鎧だった。けれど一度罪を着せられれば、誰も弁明を聞かない。どうせ愚かな女官が愚かなことをしたのだと、笑って終わる。白妙は紅玉の体の中で立ち尽くした。
自分の体が処刑される。魂はここにあるのに、器が殺される。器が死ねば、白妙という名はほどける。千世に会うことも、焔との契約を解くことも、葛城の嘘を暴くこともできない。足元の影で焔が低く言う。
「走るな」
「走ります」
「紅玉は走らない」
「では、紅玉様らしく止めます」
白妙は帝に向き直った。帝の首にはまだ黒い紐が巻かれている。葛城の前で帝に助けを求めれば、紐が締まり、帝の口は葛城の望む命令を出すだろう。頼れない。自分でやるしかない。白妙は紅玉の顔で微笑んだ。
「葛城」
呼び捨てにした瞬間、葛城の眉がわずかに動いた。紅玉なら、そう呼ぶ。
「私の女官を処分するなら、私の前でなさい」
「呪われたご本人が、わざわざ?」
「私が許した者を、私の知らないところで殺されるのは不愉快だわ」
紅玉の声は美しく、少し傲慢だった。葛城は微笑む。
「承知しました。紅玉様のお望みとあらば」
止められることまで計算している。それでも、時間は稼げる。白妙は帝へ軽く礼をし、踵を返した。歩き出すと同時に、袖の中の鏡が震える。
『白妙』
紅玉の声が、今までになく硬かった。
『あなたは知っておくべきだわ。葛城が私を簡単に裁けない理由を』
「今は対策を」
『これが対策よ。私は、葛城に育てられた』
白妙は廊下を進みながら、息を呑んだ。
紅玉は短く息を整えた。『人に見られることは、弱みだけではないわ。大勢の前では、葛城も手順を捨てられない。あの男が正しさの顔を保つ限り、私たちは矛盾を一つずつ見せられる』。白妙は袖の鏡を握った。隠れて生きた自分と、見られて生きた紅玉。二人の嘘を重ねれば、葛城の舞台を逆に使える。
『本当の名も、親の顔も知らない。物心ついた頃には陰陽寮の奥にいたわ。笑い方も、歩き方も、誰を愛したふりをするかも、全部教え込まれた』
「紅玉様が……」
『私は後宮の呪いを集める器だった。妃たちの妬み、女官たちの恐怖、帝への執着。その全部を私に集め、いずれ九尾を封じるための餌にするつもりだったの』
焔が影の中で笑った。
「なるほど。よく肥えた餌だと思った」
『黙って、焔』
「はいはい」
白妙は鏡を握る指に力を込めた。
「では、焔を招いたのは」
『葛城の予定より早く、私が自分で呼んだ。陛下を縛る紐を喰わせるために。葛城の手ではなく、焔に後宮の呪いを喰わせるために』
紅玉の声が震えた。
『私は正しい人間ではないわ。葛城の道具で終わりたくなかっただけ。陛下を愛したことだけは、誰かに命じられた嘘にしたくなかっただけ』
白妙は何も言えなかった。紅玉も、嘘で生きていた。白妙は無能を装い、紅玉は寵妃を装った。どちらも生き延びるための嘘だった。だが紅玉の嘘は、帝を守るために血を流している。白妙の嘘は、誰かを守ると言いながら、ずっと自分を檻に閉じ込めていただけではないのか。
「白妙」
焔が低く言った。
「今の自責は不味い。葛城に食わせるな」
「あなたには食べさせても?」
「いらん。私は、お前が選ぶ時の味がいい」
それが慰めに聞こえたのが悔しかった。
◆
処刑台は、後宮の中庭に設えられていた。白い布で覆われた台。四方に立つ浄火の灯台。魂を検めるための水鏡。周囲には女官、妃、宦官、兵が集められている。皆が見ていた。
群衆の端に青鈴がいた。いつものように眉間へ皺を寄せているが、白妙の身体を見て笑ってはいない。桶を持つ指だけが白くなるほど強く握られていた。白妙は声を掛けなかった。今ここで青鈴に味方を求めれば、その命まで検魂台へ上げることになる。
地味な女官衣を着た白妙の本体が、台の中央に寝かされている。胸元には封じ札。手首には白い縄。首筋には、焔との契約痕を隠すように別の札が貼られていた。白妙は自分の体を見下ろした。あれは自分なのに、自分ではない。いつも自分を守ってくれた無能女官の顔が、今はただの器として晒されている。
周囲から声が漏れる。
「白妙が紅玉様を?」
「無能のくせに呪いなんて」
「だから無能のふりをしていたのでは」
「気味が悪い」
白妙は紅玉の顔で立っていた。これほど近くにいるのに、誰も白妙を見ない。焔だけが、影の中から静かに言った。
「私には見えている」
白妙は目を伏せそうになり、すぐに上げた。紅玉は伏せない。寵妃は、見られる場所で戦う。
「葛城」
白妙は処刑台の前で足を止めた。
「その女官は、私の宮の者です。勝手な処分は許しません」
葛城は丁寧に頭を下げた。
「もちろんでございます。ですから、紅玉様の御前で魂を検め、その罪を明らかにいたします」
「罪がなければ?」
「その時は、私がこの場で詫びましょう」
軽い。謝罪など、白妙の命の代わりにならない。葛城は水鏡の前へ進んだ。
「白妙という女官は、長らく無能を装っておりました。ですが昨夜、紅玉様の寝所で禁じられた狐火の痕とともに倒れていた。これは、寵妃の器を狙った呪詛と見るほかありません」
白妙は奥歯を噛んだ。事実を並べている。だから厄介だ。白妙は無能を装っていた。紅玉の寝所で倒れていた。狐火の痕があった。そこに「寵妃を呪った」という嘘を一滴混ぜるだけで、全てが罪に変わる。葛城は白妙の本体の額に、細い札を置いた。
「魂が正しければ、水鏡に本人の名が映ります。罪がなければ、恐れることはない」
白妙の背に汗が流れた。映るはずがない。白妙の魂は、今ここにある。水鏡が空と出れば、葛城は「魂を抜いて寵妃に害をなした」と言うだろう。紅玉の体で力を使って本体を奪うか。だが周囲には人が多すぎる。ここで狐火を放てば、白妙は本当に後宮の怪物になる。
焔が影の中で囁く。
「奪うなら今だ」
「まだです」
「なぜ」
「葛城の札が多すぎます。飛び込めば、あなたまで捕まる」
「私を気にする余裕があるのか」
「あります。腹立たしいことに」
焔が笑った気配がした。その時、水鏡の表面が揺れた。水面に、文字が浮かぶ。白妙。名が映った。
水鏡が見ているのは魂そのものではない。身体、名、記憶の響きの三つだ。鈴の式は千世の耳で白妙の名を聞き続け、白妙の身体でその響きを覚えていた。だから二つまでは偽れる。けれど、白妙が生きてきた記憶までは持っていない。そこが崩せる綻びだった。
あり得ない。白妙の魂はここにある。では、なぜ。台の上の白妙の体が、指を動かした。周囲がどよめく。
「目を覚ましたぞ」
「生きている」
白妙は紅玉の体で一歩踏み出した。あれは違う。まだ戻っていない。それなのに、白妙の体がゆっくり目を開けた。黒い瞳。けれど、その奥で薄い鈴の影が揺れている。以前の夜、白妙の体を奪って千世の頬に触れた、あの式の欠片。
葛城が、わざと戻したのだ。白妙の本体は処刑台の上で上半身を起こした。顔は白妙。声も白妙。だが笑い方だけが、白妙ではなかった。偽りの白妙は、紅玉の顔をした白妙を見上げる。
「紅玉様」
その声を聞いた瞬間、白妙の中で何かが凍った。白妙の身体を使う式は、白妙の唇で楽しそうに笑う。
「やっと、この体が手に入った」




